08話 英雄の影
白い光に満ち溢れた、全面ガラス張りの通路。行き交う学生たちに混じったルコが、通路の端で立ち止まって
「ルコ」
顔を上げるとぱっと顔が明るくなる。
「ユッカ。今からお昼?」
「うん、一緒に行こう」
ルコとユッカは高校を卒業するとそろってスプリング大学に進学した。高校とは違う、大学ののびのびとした環境は人見知りのルコにはとても新鮮だ。
「ユッカの学部ってなんか活気があるよね」
「ありすぎてちょっと疲れるよ……。もうちょっと落ち着きがほしいわ」
カフェでランチをしながら言葉を交わす。ルコは地球文化学部、ユッカは惑星学部に所属している。大学の学部選択に悩んだルコは、ラタオにすすめられて興味を持った地球の古い文学や芸術を学ぶことを選んだ。
「しかもうちの学部って半数以上が男子だからさ。しょっちゅう集まりがあったりして。そっちばっかり行くと、ケンが――」
うんざりした表情のユッカにルコは眉をひそめる。
「焼き餅焼いちゃうの?」
「まぁ、わからないでもないけど。これでも気を付けてるんだけどなぁ。あんまり信用されてないとちょっと落ち込んじゃう」
ふたりの思いがわかるだけに、ルコは困ったように溜息をつく。
「ルコはさ、普段ラタオさんとは会えないけどお互いを信頼しているというか、確信があるでしょ」
突然の言葉にルコは「えっ」と体を引く。
「そんなことないよ。いつも、Bクラスでどんな暮らしをしているのかすごく気になるもん」
「そうなの?」
ちょっと意外そうな表情で聞き直すユッカに、ルコは少し頬をふくらませる。
「それに、大学に入った時にラタオさんから言われたよ。大人の仲間入りをするから正直ちょっと心配だって」
「へぇ!」
ユッカの驚きの声を尻目に、ルコは頬杖をついて遠くを眺める。
「……でも、信じるしかないもん。お互いの生活空間に行けない以上」
「そうだね」
自分とは境遇が違うルコの言葉に反省したのか、ユッカは神妙な顔つきでコーヒーを口にした。そして、思い出したように身を乗り出す。
「そういえば、今度の日曜日のデモ、どうするの?」
今、GET2全域では移民法改正を求める動きが活発になっている。クラスに関わらずデモ行進や集会が行われ、ものものしい空気に包まれているのだ。だが、デモと聞いてルコは顔をしかめて首を振る。
「……やめておく。迷惑をかけるかもしれないし」
「そう……」
ユッカも、しかたない、といった表情で小さく頷く。
高校生の時に移民法監察局(アイリス)の行動把握対象者になって以来、ルコには常にアイリスの影がつきまとっている。
たとえば、大学に入学してすぐの頃。ルコがBクラスの住人と交際していることをどこかから聞きつけた移民法改正運動の学生リーダーが接触してきたことがあった。彼は熱心に運動へ参加するよう口説いたが、ルコはかたくなに拒んだ。誰かが自分のせいで傷つくのはもうたくさんだったのだ。学生リーダーはルコを臆病者だとまで言い放って立ち去っていったが、ルコはこれでよかったのだと言い聞かせて家路についた。が、辿りついたリニアステーションで待っていたのは、影のように暗いダークスーツを着込んだアイリスの監察官アクシャムの姿だった。彼はにっこりと微笑んでこう告げた。
「偉かったね、ルコさん。賢い判断だよ」
あの時のことは、今思い出してもぞっとする。自分は、いつ何時でも監視され続けるのだ。誰と、どこにいても。それを思い知らされた出来事だった。
「私はデモだけは参加してみようと思う。あとでどんなだったか教えるね」
「うん、お願い」
と、そこでユッカが身を乗り出すと耳に顔を寄せた。
「……そういえば、こんな噂を聞いたわ」
「なに」
思わずルコも声をひそめて尋ねる。ユッカは低い声でささやいた。
「彼が、生きてるんだって。……ヤン・イェン・ヴェッガが」
その名に両目を大きく見開く。そして、真顔のユッカをまじまじと見つめる。
「……どこで」
「Aクラスに潜伏してるって話」
Bクラスを離脱し、生死不明のままとされているアストロファイトのエースパイロット、ヤン・イェン・ヴェッガ。彼の名を今聞くなんて。ユッカはけわしい表情のまま言葉を継いだ。
「思えば、彼が離脱してからだわ。移民法の改正を求める動きが激しくなったのは。全部、彼が動かしてるのかもしれない」
「でも、……どうして」
まだ困惑したままうわごとのように呟くルコに、ユッカは周りを見渡してからささやく。
「彼には移民法を改正したい理由があるのよ」
「ハイブリッドだから?」
「そう。一緒には暮らせない家族と共にいたいから。その家族というのが……、ユェンだって話」
思わず口許を押さえる。天球儀ラジオのパーソナリティーとして人々の圧倒的な人気を誇るユェンが、ヤンの家族?
「ユェンが姉でヤンが弟だって、まことしやかにささやかれてる。でも、ありえない話じゃないわ」
落ち着きをなくし、視線をさまよわせるルコに、ユッカは口をつぐんで見守った。
ヤンが、家族であるユェンと一緒に暮らせるよう移民法を変えようとしている。それに呼応した動きが広がっている。時代は、本当に変わるのかもしれない。自分に、何かできないだろうか。アイリスに監視されている身でも、何かできないだろうか。
「こっちもいろんな噂が流れているよ」
その日の晩、チャットでラタオに話すと、そんな答えが返ってきた。チャットの内容は検閲されている可能性もあるため、話はかなりぼかしている。
「多分、みんなの希望が入り混じった結果だとは思うけど、その中のいくつかは本当なんだと思うよ」
「Bクラスもデモとかあるの?」
「うん、増えたね。毎週のようにあるし、ストライキもやってるよ」
Bクラスの場合、GET2の運航に支障をきたす可能性が高いため、ストライキなどは厳しく制限されているはず。それでもストが決行されているということは、事態は思ったよりも深刻なのかもしれない。
それに、とルコは思いを巡らせた。ラタオと出会って3年。だが、彼が住むBクラスでは6年の歳月が過ぎている。あちらの方が移民法改正を求める動きが大きいとしても、不思議ではない。
「学生運動とかは?」
「キャンパス内でも集会をよく見かけるわ」
「変わったなぁ。昔はそんなことおいそれとはできなかったのに」
ルコは携帯端末のスケジュールを見やった。
「次の開放日は、会えるのかな」
「うん。事故がなければね」
改正運動が激しくなって以来、軌道エレベータの周辺は厳戒態勢が取られている。それでも、ニュースにはならない程度の小さな騒ぎが頻発しているという。
「気を付けてね」
「うん、ルコちゃんもね。本当に、何があるかわからない時代だからね」
それから、数日後のこと。ルコの所属するゼミの教授が学生たちにこんな提案をした。
「我々が学んでいる地球文化をメディアがどう紹介しているか。それを知るためにいくつかのメディア機関を訪れてみようと思う。最初の訪問先は、セントラルAラジオを予定している」
セントラルAラジオと聞いて皆どよめく。このラジオ局の看板番組こそ、天球儀ラジオだ。ユェンに会える? ルコも驚きの表情で教授の姿を見守る。学生のひとりが勢いよく手をあげる。
「先生、ユェンに会えるんですか? 私、大ファンなんです!」
「うん、彼女は色々と地球文化の造詣が深いしね。ラジオ局へはすでにアポを取ってある。ユェンに会えるかどうかはわからないけれど、番組の制作スタッフとは確実に話ができる」
教室は皆の歓声であふれた。
「ルコ、あなたも天球儀ラジオ好きだったわよね」
ゼミ仲間に声をかけられ、はにかみながら頷く。
「もし会えるなら……、すごく嬉しいわ!」
「楽しみね!」
ラジオ局への訪問が決まったことを、ルコは少し興奮気味にラタオへ報告した。あまりのはしゃぎようにラタオは苦笑しながらも祝福し、ふたりは「その日」を楽しみに待っていた。
訪問当日は日曜日。ルコは胸を躍らせて家を出た。大好きな番組が作られている現場を訪れることができる。大好きなパーソナリティーに会えるかもしれない。足取りも軽くリニアモーターカーのステーションまで訪れた。が、
ルコはぴたりと足を止め、凍りついたようにその場に立ち尽くした。どくん、と胸が不気味に波打つ。そして、見る見るうちに色を失ってゆく。
「ルコさん」
眼差しの先に立つ男は穏やかに呼びかけた。
「駄目だ。セントラルAラジオはだめだよ」
優しくも、有無を言わさない雰囲気をまとったアクシャムの言葉にルコは顔を引きつらせた。
「……ラジオ局に行くのも駄目なんですか」
「ああ、うっかりユェンと接触したら大変だからね」
どうして。何故そんなこと。あまりの仕打ちに思わず涙ぐみながらアクシャムを睨みつける。
「何故ユェンさんに会っちゃいけないんですか」
「互いに刺激しないためだよ」
アクシャムは落ち着き払って説明する。
「君だけじゃないんだ。ユェンも行動把握対象者なんだ。君と顔を合わせることで、またユェンが世の中に波紋を広げる発言をしてしまっては、元も子もない」
「言いません! 私があの時にメッセージを投稿したということ、言いません!」
必死の面持ちで訴えるが、アクシャムはゆっくりと顔を振る。
「ただでさえ移民法改正運動が激しさを増している今だ。無用の混乱は避けたい。どんな小さな可能性でもね」
そして、気の毒そうに眉をひそめて言い添える。
「ごめんね」
ルコは顔を伏せてくるりと背を向け、走り出した。下を向いたまま、無我夢中で走る。どこをどう走ったかわからないまま走り、ようやく膝を押さえて立ち止まった。息を切らし、肩を揺らし、悔しげに嗚咽を漏らす。やがて涙を拭いながら体を起こすと、気付けば、人気のないビジネス街。まるで人だけいなくなった街並みに、こくりと唾を飲みこむ。何度か深呼吸をくりかえすと、ルコは諦めたようにとぼとぼと歩き始めた。
あんなに楽しみにしていたのに。会えるかどうかもわからなかったのに。これから先も、こんな風に望んだことを遮られてしまうんだろうか。移民法が変えられない限り。再び、目に涙がにじむ。涙が伝う頬を優しく撫でる風に顔を上げる。
一緒に宇宙へ出してくれたらいいのに。
うらめしげに目を細めて思う。だが、その視界にぼやけて映る明かりに気付く。同時に、数人の男たちの姿。明かりは明滅する回転灯だった。ILISのロゴが入った数台のトレーラー。また、不法入船者だろうか。ものものしい空気をまとったアイリスの捜査員たちとすれ違う。ルコは怖々と話しかけてみた。
「あの……、何かあったんですか?」
バイザーで目許を隠した捜査員は、口許をゆるめてみせた。
「不審者らしき人物を見かけたという通報があったものでね。念のために警戒しているところだよ。できれば早く立ち去った方がいい」
ルコは眉をひそめると頷いた。辺りを警戒する捜査員たちを横目で見ながら足早で通りすぎる。
危険を冒して離脱し、不法に入船する者たちは後を絶たない。どんな人たちなのだろう。何が彼らに勇気を与えているのだろう。そう思いを巡らせながら通りを歩き、冷や汗をかいていることに気付く。肩掛けカバンからハンカチを取り出した時。人工風がふわりとうねり、ハンカチを飛ばされる。
「あっ」
慌ててハンカチを追いかける。水色のハンカチは風に乗って脇道を紙飛行機のように飛んでゆく。やがて風を失ったハンカチは力なく歩道へぽとりと落ちる。小走りに追いかけていったルコは腰を屈めてハンカチを拾い上げようとして、ぎくりと動きを止めた。
ハンカチが落ちた歩道は、ビルとビルの隙間の前。そこに、「誰か」がいる。一瞬で気付いたルコはとっさに目を伏せた。胸が早鐘を打ち鳴らすように波打つ。見てはいけないものだ。本能でわかった。それでも、ルコはおそるおそる顔を上げた。
高い壁に挟まれたわずかな空間に、「彼女」は身を潜めていた。ルコとあまり変わらない年頃の少女。少し汚れたジャケットにデニムのパンツ。ショートヘアがよく似合うボーイッシュな顔立ちの少女。だが、その恐怖と警戒に満ちた表情にルコは胸が痛んだ。
そこへ、捜査員たちの歩む音が耳に飛び込む。ルコはさっと身を起こすと隙間を背にして佇むとカバンから
彼女はBクラスの住人だ。ラタオと付き合い、開放エリアに足しげく通うルコにはすぐわかった。ラタオたちが暮らすBクラスはAクラスに比べて大気が若干汚れており、人々の肌は皮ふが厚く、浅黒い。そのため、どこかたくましさを感じさせる顔立ちが特徴だ。
最後の捜査員が通り過ぎ、しばらくしてルコは端末をカバンにしまうとそっと振り返る。すると、予想に反して少女はまだそこで立ち尽くしていた。ルコは眉をひそめると身を乗り出す。
「――早く行って。また戻ってくるかもしれないわ」
少女は困惑の表情で「どうして」と呟いた。ルコがかくまってくれたことが理解できないらしい。無理もない。ルコはほんの少し表情をほぐした。
「……気を付けてね」
少女は一瞬苦しげな表情を見せたものの、頭を小さく下げる。
「……ありがとう」
そう呟くと、ゆっくりと背を向けた。が、
「待って」
思わず呼び止める。そして、不思議そうに振り返る少女に向かっておそるおそる問いかける。
「彼は……、生きてるの?」
少女は顔をしかめると首を傾げた。ルコはごくりと唾を飲み込むと少しだけ声を高める。
「GET2の、英雄よ」
その言葉に、少女は両目を大きく見開いた。そして、見る見るうちにその顔立ちが明るい生気に満ちてゆく。彼女は黙って力強く頷いた。それで、充分だった。
少女は再び頭を下げると背を向け、細い路地に向かって走り去っていった。ルコもその場を離れる。だが、その胸は興奮に満ちていた。
生きてるんだ。
胸で願っていた希望は確信に変わった。彼は生きている。ヤン・イェン・ヴェッガは生きている。人々の希望になるべく、人々の夢をかなえるために、どこかで。
「ええっ、結局ラジオ局にも行けなかったの?」
開放エリアで久しぶりに会うラタオに、ユェンと会えなかったことを話すと残念そうな声を上げた。
「うん。アイリスの人が来て。行っちゃ駄目だって」
「ひどいな。そこまで規制するなんて」
腕組みをしながら憤慨するラタオにルコは寂しそうに笑う。
「でもしょうがないよね。ユェンさんに迷惑かけたくないし」
「それはそうだけど」
静かに流れる水路に面したベンチ。最近はあちこち出かけるよりもゆっくりと話をして過ごすことが多い。どこか幻想的な桃色の睡蓮が水面で揺れているのをぼんやりと眺めているうち、ふと気になって振り返る。
「そういえば、ラタオさんのところにもアイリスの人くるの?」
「くるよ」
こともなげに返すラタオ。
「この間、仕事帰りにデモ行進に出くわしてさ。思わず眺めてたらどこからともなく現れたよ。参加しちゃ駄目だぞ、って」
ルコは顔をしかめて溜息をつく。するとラタオが思い出したように笑いをこぼした。
「そう、それでさ。ご苦労ですね、どうです一杯、って誘ったら『勤務中だ』って断られたから、缶コーヒーおごってやったよ」
「なに仲良くしてるの!」
呆れたように声を上げるルコにラタオもおかしそうに笑う。
「いや、どうせなら仲良くした方がいいじゃないか。いがみ合うよりも」
ああ、この人はやはり大人なんだな、とルコは改めて思った。ほがらかに笑うラタオの横顔を見つめる。初めて出会った頃に比べるとたくましさや頼もしさを感じさせる眼差し。だが、あご周りのゆるさを見るにつけ、時の流れを思い知らされる。一緒にいられる時間は短いのに、離れている間に時間はあっという間に過ぎてゆく。ルコはラタオの腕組みをしている腕を取ると無理やりほどく。
「うん? なに?」
それには答えず、腕を絡めるとぴたりと寄り沿う。顔の上で微笑むのがわかる。ラタオはするりと腕を抜くと肩に回して抱き寄せた。彼の手からはほんのりと機械油の匂いがする。その匂いが実は大好きだ。ふたりが出会った軌道エレベータを守っている証。ふたりが暮らす世界をつなぐ大事なエレベータだ。
「……そういえばね、ラタオさん」
こっそり呟くと、「なに?」と返ってくる。
「すごいこと知っちゃったの」
「へぇ?」
見上げるとラタオは微笑んで顔を寄せてくる。その耳許に小さくささやくと、きょとんとしていたラタオの表情が驚きで満ちる。
「……本当に?」
「うん」
嬉しそうに頷くと、ラタオも晴れやかな表情で「そうか」と呟く。そして、目を細めて言葉を継ぐ。
「だからか。ユェンが行動把握対象者なのは」
ルコははっとして息を呑んだ。
当局はヤン・イェン・ヴェッガが生きていることを知っていて、今頃必死に探しているに違いない。やはりヤンとユェンは姉弟なのだろう。ユェンに何かあればヤンをはじめとした移民法改正運動家が何をしでかすかわからない。だから、ユェンにも監視をつけているのだ。
「……みんながんばってるんだ」
思わず口にした言葉にラタオが見下ろしてくる。
「私にも、何かできることはないかな……」
しばらく黙って見つめていたラタオは、やがてルコの髪を優しくなでた。
「そうだな。まずは、まっすぐに生きていくことかな」
「まっすぐ?」
聞き返すルコに微笑みかける。
「やつらにつけ入る隙を見せちゃ駄目だ。正々堂々と生きていれば、俺たちが声を上げる権利が守られる。それが、俺たちにできることだよ」
正々堂々と生きていれば。その言葉は不思議な力を放ちながらルコの胸にしまわれた。わけ隔てなく自由に生きることは人間の本能だ。正しい方法で声を上げ続ければ、きっと世界は変えられる。
だが、そのやり方では我慢ができない人々もいた。自由な世界を望む理由は人の数だけある。もっと激しい、もっと苦しい、もっと哀しい理由が。
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