07話 移民法監察局

 固く握りしめた拳をひざに乗せたまま身じろぎもせずにソファに座っていると、テーブルにティーカップがふたり分置かれる。

「ああ、奥さん、ありがとうございます」

 目の前の男はやけに親しげな様子で礼を述べた。男――ダークスーツを着こなし、真っ黒な髪を綺麗になでつけた洒落者――は、紅茶を一口すすると息をついた。

「ルコさん、あまり気を張らないで。少しお話を聞かせてもらうだけだから」

 そう声をかけられるとますます気を張る。そう言わんばかりにルコは眉間にしわを寄せた。

「まず、確認させてくれるかな。昨日、天球儀ラジオにメッセージを投稿した?」

 こくりと頷く。

「自分はAクラスの住人で、Bクラスに恋人がいるという内容で、間違いないかな」

 思わず、背後にひかえている父親の様子が気にかかり、口をつぐむ。と、握り拳にそっと手のひらを重ねてくる者がいる。

「……母さん」

「大丈夫よ、心配しないで」

 いつもの優しい微笑。だからこそ、申し訳ない気分でいっぱいのルコは、泣き出しそうな表情で頷いた。

「……投稿しました」

「書いてある内容は事実なのかな」

 もう一度頷く。男は満足したようににっこりと笑う。

「オーケー。大丈夫、君は何も悪いことはしていないからね。ただ、事実かどうかをきちんと把握しておかないといけないんだ。答えづらいことを聞いてごめんね」

 だが、その笑顔に辛辣な言葉が投げかけられる。

「まるで悪いことをしたような仕打ちじゃないか」

「いやだなぁ、先輩。勘弁してくださいよ。僕も仕事ですから」

 ルコは改めて、目の前の男を上目遣いに見つめた。ほんの少し軽薄そうな薄い肉付きの顔立ちだが、眼差しは鋭い。そして、スーツの胸許にはILISの文字を組み合わせたバッジ。移民法監察局アイリスの監察官、アクシャム。父の後輩だという。

「本当に、確認に来ただけです。でなきゃ、僕がここへ出張ることもできませんよ」

「確認だけではないんだろう」

 父親の言葉にアクシャムはやれやれと苦笑いを漏らす。

「……説明をさせてもらいます」

 そう前置きをすると、アクシャムは居住まいを正し、ルコに真正面から向き合った。

「Bクラスの彼の名前を教えてほしい」

 一瞬ためらいの表情を見せたルコに、アクシャムは気の毒そうに眉をひそめてささやく。

「……ごめん、本当は今頃、彼の許へも僕のような監察官が向かっている。でも、情報をすり合わせておかなきゃいけないんだ」

 何もかも知られているのか。ルコは改めて背筋が寒くなる思いで唾を飲み込んだ。

「……ラタオ・ウェッソンさんです」

「ありがとう」

 アクシャムは手許の携帯端末に何事か入力する。

「最近出会ったというハイブリッドの人物は?」

「えっ」

 思わずうろたえた声を上げる。

「だ、駄目です。迷惑が……」

「ルコさん」

 アクシャムは真顔で言い含めた。

「本当に迷惑がかかってしまう前に、僕らはすべてを把握しておかなければならないんだ。わかるね?」

 有無を言わせない言葉に、ルコは納得せざるを得なかった。

「……シャオさんといいます。ファミリーネームまでは知りません」

「どこで知り合ったの」

「スプリング大学のオープンキャンパスで……」

「なるほど」

 ルコはこわごわと身を乗り出した。

「あの……、シャオさんのところには……」

 アクシャムは端末に打ち込む手を止め、にっこりと微笑む。

「大丈夫。彼女には接触する必要はないよ」

 思わずほっとするルコの肩を母親がなでる。しばらく端末を操作していたアクシャムだったが、やがて息を吐くと改めてルコに向き直った。

「不安な思いをさせてごめんね。まず、ルコさんがラジオに投稿したメッセージの内容が真実なのかどうか、その確認ができたよ。そして、お付き合いしている彼のことも正直に話してくれた。おかげでこちらはとても助かるよ」

 言葉は明瞭だったが、ルコは不安でしかたがなかった。怯えた表情でおずおずと尋ねる。

「私、ううん、私たち、どうなるんですか……?」

 アクシャムは眼差しをしっかり受け止めて頷いた。

「どうもしないよ。ただ、君たちの立場は今までとほんのちょっとだけ変わる」

 ほんのちょっとだけ? 本当に? いぶかしむルコにアクシャムはにじり寄って語り始めた。

「ルコさんがBクラスの男性と交際しても、何の支障もない。そのことで君も彼も不利益をこうむることはない。誰かに批判されることもない。ただ、それを利用して何か悪いことを企む者が現れるかもしれない。それを防ぐために、君たちがいつどこにいるのか、それをこちらが把握することになる」

「早く言えば監視対象だろう」

 父の言葉にルコが飛び上がる。アクシャムは慌てて手を振る。

「先輩! ルコさんが怖がるじゃないですか! 監視じゃないです。あくまでルコさんたちは、『行動把握対象者』ですよ」

 行動把握対象者。いつどこで何をしているのか、常に把握されていることは、要は監視されているということだ。大変なことになった。体が自然と震え出したルコは、手をぎゅっと握りしめた。だが、アクシャムは彼なりに必死に弁解を続ける。

「今回の件については、ルコさんも被害者ですよ。クラスの違う彼と自由に会えない寂しさをわかってもらいたくてメッセージを送っただけなのに、ユェンがあんなことを発信するもんだから、もう大騒ぎじゃないですか」

 移住できる惑星は、本当に見つかっていないのでしょうか。ただのひとつも?

 ユェンのこの言葉はGET2に大論争を巻き起こした。

 地球を旅立って百年。移住できる惑星を皆が必死で探している。大気研究者であるルコの父親もそのひとりだ。

 先の見えない移住。クラス間での格差。絶えない離脱者。人々の不安がくすぶり続けている中でのユェンの言葉は、野火のようにGET2を席巻した。中には政府に惑星探査の進捗状況を公開するよう訴える者や、移民法の改善を訴える者、Bクラスにおいては、運航のための労働をボイコットすると宣言する者たちまで現れた。そのため、放送終了直後からさまざまなメディアで移民法の是非について意見が戦わされている。

「それだけ人々の不満と不安がたまっていたということだろう」

「それは事実ですけど、ユェンは自分の発言の影響力を知っているはずですよ。もっと考えて話すべきでした。こんなことを言えば騒ぎになることぐらい、彼女ならわかるはずですよ」

「ユェンさんは悪くないです!」

 父とアクシャムの会話に割って入る。アクシャムは少し困ったように笑うと頭を掻いた。

「ああ、ルコさんはよほど彼女のファンなんだね。でも、だからこそ彼女にはしっかり反省してもらわないと。これからも天球儀ラジオをオンエアしてもらうためにね」


 アクシャムが訪問した日の夜。ルコはいつにも増して緊張してチャットルームに入った。ラタオにもアクシャムのような監察官が訪れたはず。アクシャムは父の後輩だったため、ルコに対しては穏やかな態度だった。だが、ラタオの許を訪れた監察官はどうだったのだろう。


「ルコちゃん、いる?」

「ラタオさん!」


 まるで初めてチャットを始めた頃のような緊張感。


「ああ、良かった。ちゃんとつながった」

「ラタオさんのところにも、アイリスの人行きましたか?」

「うん、来たよ。強面のおじさんがね。ルコちゃんは?」


 やはりアイリスは動いていた。アクシャムの言葉は嘘ではなかった。


「それが、父さんの大学時代の後輩という人で……。ていねいに色々教えてくれました」

「そうか。よかった。ルコちゃんの方に怖い人が行かなくてよかったよ。お父さんやお母さんもびっくりしただろう。悪いことしたな」


 ルコはこみ上げてくるものを感じてキィを打つ手を止めた。元はと言えば、すべては自分が引き起こしたことなのだ。自分の胸の内にしまっておけない思いを誰かに聞いてもらいたくて送ったメッセージ。それが、こんな大騒ぎにまでなってしまった。


「ルコちゃん?」


 リプライが途切れ、ラタオの呼びかけの言葉がモニターに浮かび上がる。熱くなる目頭を押さえてから、再びキーボードに向かう。


「ごめんなさい、ラタオさん。私のせいで迷惑をかけて。本当にごめんなさい」

「そんなの気にしてないよ。でも、びっくりしたよ」


 少し遅れてから、「あの投稿を聞いた時はね」と綴られる。


「最初からちょっと気になってて。途中からわかったよ。ああ、これルコちゃんのメッセージだなってね。まだ小さいルコちゃんに、ひとりでこんなに寂しい思いをさせていたんだなって、俺、反省したよ。ごめん」


 小さいルコちゃん。自分はいつまでも彼にとって幼い子どもでしかないのだ。でも、そう思われても仕方がない。事実、彼は倍の速さで歳をとってゆく。自分は置き去りのまま。でも、考えも行動も子どものままでは、何も変わらない。変えられない。だから、何かを変えたかった。だけど、残された結果はこの混乱だ。


「ごめんなさい。謝るのは私の方。私、寂しくて。このままじゃいやで。だから誰かに聞いてほしくて」

「わかるよ。俺も寂しいよ。もっと自由にルコちゃんと会いたいよ」


 そう。ほしいのは自由なのだ。大それた夢だろうか。罰せられるほどの? 


「でも、これがきっかけで何かが変わるかもしれない。そうなったらルコちゃんは英雄だよ」

「もしそうなら、変えてくれたのはユェンさんですよ」

「そうだな。彼女、しばらく出演を自粛するって話だけど、大丈夫かな」


 ユェンはオンエア後の騒動を受け、1週間ほど出演しないことを発表していた。が、直接的な謝罪のコメントはなく、それも物議をかもしていた。


「彼女は彼女で素朴な疑問を口にしただけなのにな。確かに騒動を引き起こした責任はあるかもしれないけど、発言を取り消したり、謝罪する必要はないって世論の声が大きいね。ただ、政府が黙ってないだけで」

「もしも、番組がなくなるようなことになれば、私――」

「大丈夫だよ。もしもそうなっても、ユェンが自分の思いを曲げなかった結果さ」


 思いを曲げず、思いを持ち続けることはこんなにも難しい。誰にも邪魔されず、誰の邪魔にもならず。たとえば、ただ誰かを好きでいることでも。


「そういえば、ラタオさん。お仕事は大丈夫? 今回のことで大変なことになっていない?」

「それは大丈夫だよ。課長に冷やかされたけどね。それと、職場にいるハイブリッドに励まされたよ」


 ハイブリッドはラタオの身近にもいたのか。ひょっとして、だからクラスの違う者と交際するのに抵抗がなかったのだろうか。そんなことを考えながらキィを打とうとした時。

 ドアをノックする音に飛び上がる。

「ルコ」

 父親の声。慌てて席を立つとドアを開ける。

「父さん? どうしたの」

 父は部屋の中を覗き込み、机の上のパソコンが煌々と明かりを放っているのを目にした。

「……ちょっと、頼みがあるんだけど」

 ルコは目を丸くして首を傾げた。


 それから数日は何事もなく過ぎた。表面上は。だが、ルコは不安と心配で眠れない日々を何日も過ごした。そして迎えたのが、開放日。今日もラタオに会える。いつものように向かった軌道エレベータ。だが、いつもと大きく違うことが。

「開放エリアなんて何年ぶりかしらねぇ」

 どこか嬉しそうに呟く母。その母を黙って見つめる父。ふたりを見上げ、ルコは緊張した面持ちで重たい息を吐き出した。

 アクシャムが家を訪れたその日の夜。ルコは父からこう告げられたのだ。

「一度、父さんと母さんに会わせなさい」

 そんなわけで、今回の開放日は両親がついてくることになったのだ。もちろんラタオにも知らせたが、最初彼は少し取り乱してしまった。

「俺、粗相をしないかな。それにお父さん、怒ってるのかな」

 父はとにかく一度会って話をしたいだけだと繰り返すばかりで、ルコもそう伝えるしかなかった。そして、ついに当日を迎えたわけだ。

 開放エリアに毎月通うようになって2年。ここはいつも、誰でも大らかに受け入れてくれる。だが今日だけは緊張しないではいられない。公園から聞こえてくる手回しオルガンの音色も、穏やかに流れる水路のせせらぎも、今日は耳を突く雑音に聞こえてしまう。

「どこで待ち合わせなの?」

「公園のベンチ……」

 いつもの待ち合わせ場所へ両親を連れて行く。本来ならふたりで過ごす貴重な時間だ。それを独り占めできないことにまだ納得できないでいるが、あんな騒動があっては仕方がない。父も心配しているのだ。ならば、会って安心してもらうしかない。ルコは小さく吐息をついて腕時計を見やった。すると、

「ルコちゃん」

 聞きなれた声に振り返る。父と母も振り返る。そこにいたのは、いつものラフな服装ではなく、かっちりとしたジャケットを羽織って緊張に顔を強張らせたラタオ。だが、

「……ラァス!」

 父の言葉から驚きに満ちた呟きがもれる。瞬間、ラタオの眉がぴくりと吊り上がる。

「ラァス、君は――、結婚しているんじゃないのか! どういうことだ!」

「と、父さん、やめて!」

 大股に歩み寄るなりラタオの胸倉をつかむ父に、ルコと母が慌てて引きはがそうとする。

「落ち着いて、あなた!」

 だが、顔を真っ赤にした父は激しい勢いでまくし立てる。

「君はまさか、何も知らない娘を――!」

「ま、待ってください!」

 驚きと怯えの表情が入り混じるラタオが必死で叫ぶ。

「ラァスは俺の兄貴です!」

 兄。父の顔から怒りの表情が消えうせ、困惑の色が広がる。そして、思い出したようにつかんだ胸倉を放す。ラタオはもつれる手でポケットをさぐると携帯端末を取り出し、IDを見せた。

「俺、いや、僕は、ラタオ・ウェッソンといいます。ラァスは兄です」

 IDの写真とフルネームを目にした父は、我に返ったように大きく息を吐き出し、肩を落とした。

「……兄弟か。驚いた……、そっくりなんだな」

「ええ……」

 ほっとした表情ながら、ラタオはどこか寂しそうな笑みを浮かべた。

「僕らは人工受精児なので……。その影響があると思います」

 人工受精児。そんなことは聞いたことがない。ルコは驚いた表情でラタオを見つめた。気まずい沈黙が流れる中、母が明るい表情で手のひらを合わせる。

「ほら、このまま立ち話をするわけにもいかないわ。どこかでお茶でもしながらお話しましょう」

 母のほがらかな言葉にラタオが安堵の表情を浮かべる。ルコは辺りを見渡すとオープンテラスのカフェを指差す。ルコが初めて開放エリアにやってきた時、手持無沙汰の時間を過ごしたカフェだ。

白と水色のパラソルが広がるテーブルにそれぞれ腰を落ち着けると、やがてよい香りの紅茶が運ばれてくる。

「ごめんなさいね、ラタオさん。うちの人が急につかみかかったりして」

 やんわりと謝罪の言葉をかけると、ラタオは恐縮して頭を下げた。

「い、いえ、こちらこそ、その、ご挨拶が遅くなって……」

「そうだな。もっと早く会ってほしかった」

「父さん」

 いちいち棘のある言葉にルコは縮みあがりながら声をかける。ラタオはすっかり哀しげな表情でうなだれている。母も「あなた」とやや頬を膨らせながら手を重ねる。父は落ち着かせようと大きく息を吐いた。

「君のところへもアイリスの監察官が?」

「はい」

「そのことに関しては謝罪する。娘が取った行動で君に迷惑をかけた」

 ラタオは眉をひそめて顔を振る。

「僕は迷惑だなんて思っていません。実際、監察官からは法に触れたわけではないと言われました」

 父は鋭く目を細めた。

「だが、クラスが違う者同士で付き合いを続けていくのは困難だ。今回のことで君も娘も行動把握対象者だ。ますます、自由がなくなっていく」

 思わず、ルコとラタオは顔を見合わせる。その時、自信なさげな瞳の彼にルコはいやな予感を胸に抱いた。

「娘はね」

 再び口を開いた父に眼差しを戻す。

「中学生の時にいじめに遭ったんだよ。Bクラスの男と付き合ってることをからかわれ、侮辱された」

 ラタオは「えっ」と声を上げると思わず腰を浮かしながらルコを振り返る。父は腕組みをしながら鼻を鳴らした。

「ルコ、やっぱり話していなかったんだな」

 ルコは黙って頷いた。ラタオの見開いた瞳からは、どうして話してくれなかったのだという問いが見てとれる。

「……心配かけたくなかったし……、学校の対応のおかげですぐにいじめはなくなったし」

「でも……!」

 悔しそうな表情で声を上げるラタオに、父が座るよう手を差し伸べる。ラタオはまだ納得できない顔つきで腰を下ろした。

「君がどれぐらいの気持ちで娘と付き合っているのかわからないが、現実はこうなんだよ。ただでさえ自由に会えない障害がある上に、クラス間での交際を快く思わない人間も大勢いる。あまつさえ、移民法を否定するような発言を公にしてしまうと監視がつく。それでも娘と付き合えるのか」

「あなた」

 やや強い調子で母がたしなめ、ルコも固唾を呑んで手を握りしめる。皆の視線を一斉に浴び、真っ青な顔で沈黙するラタオ。ルコは目に涙をにじませながら見守ることしかできなかった。父は腕組みをほどくと身を乗り出した。

「君たちが出会ったのは偶然だったのだろう。偶然から始まった出会いで、これからを乗り切っていけるのか? どうなんだ」

 目を閉じ、必死に思いを巡らせているラタオを見つめる。

「……ラタオさん」

 泣き出しそうに震えるささやき声に、ようやくラタオは目を開いた。

「……出会いは、偶然でした」

 小さな声でぽつりと呟く。

「軌道エレベータのゲートステーションで出会わなければ……。僕が声をかけていなければ。ルコちゃん、いや、ルコさんが辛い目に遭うこともなかったんです」

 母が眉をひそめて目を細める。

「半日、ルコさんと一緒に過ごしてまた会いたいと思いました。ずっと会いたいと思いました。だから、これまでずっとお付き合いをしてきました。……でも」

 かすかに震える吐息をついてから、ラタオは哀しそうな眼差しを投げかけた。

「……ルコちゃん。俺、君と会ってる時が一番楽しかったよ。ルコちゃんも楽しそうにしてくれてたから、俺も嬉しかった」

「ラタオさん……?」

 言葉の節々から不安を感じて思わず身を乗り出す。

「君にずっと甘えてた。楽しい時間を過ごしたいからって、君の苦労をわかっていなかった。……ごめん。君と出会てよかったよ。……俺のことは、もう忘れてくれ」

 かっと頬が紅潮するのがわかった。とっさに口許を両手で覆い隠した、その時。

「そんなことを聞きに来たんじゃない!」

 突然の怒鳴り声にカフェの従業員が驚いて振り返る。他のテラス客たちも何事かと顔を向けてくる。

「あなた」

 母が肩を押さえるが、父は真っ赤な顔をしてまくし立てた。

「君はこれまでの娘の時間を無駄にするつもりか! 君の時間もだ! 娘の倍の時間を使ってきたんだ! ふたりで過ごした時間は、そんなに軽々しいものなのか!」

 父に怒鳴られ、ラタオは目が覚めたように冴え冴えとした表情に満ちてゆく。

「これまでの試練はほんの氷山の一角だ。これからもっと大変なことが待ち構えているだろう。それもわからないで付き合ってきたのか? それならよろしい! 今すぐに娘を連れて帰る!」

「待ってください!」

 ラタオが椅子を蹴って立ち上がる。

「すみません……! すみませんでした……! 俺、ルコちゃんとずっと一緒にいたいです! でも、ルコちゃんが辛い目に遭うとわかって付き合うわけにはいかないと思って……!」

「好きなんでしょう?」

 不意に冷静な声を投げかけられ、ふたりの男は母を振り返った。母は顔を覆い隠して泣きじゃくるルコの背を撫でながら、穏やかに言葉を続けた。

「ルコのこと、好きなんでしょう? だったら守ってあげて」

 ルコは肩を揺らしながら涙で汚れた顔を上げた。まだどこかおろおろした表情のラタオだったが、ごくりと唾を飲みこむと力強く頷いた。

「……お願いします」

 ラタオは父を振り返ると一歩前へ踏み出した。

「ルコちゃんの気持ちが一番大事ですけど、俺はルコちゃんが好きです。これからも一緒にいたいです。お願いします! 一緒にいさせてください……!」

 そう叫んで勢いよく頭を下げる。周りからは感嘆の声が上がり、母は嬉しそうに周囲に会釈を返す。父は大きく息を吐き出すと黙って椅子を指し示した。ふたりは改めて腰を下ろすと真正面から向き合った。

「私は正直、君たちの交際を応援はできない。娘には、同じ速さの時間を過ごす者と一緒になってほしい」

 父の言葉にラタオは真摯な態度で頷いた。

「だが、君がBクラスで生まれたことには何の罪もない。娘がAクラスで生まれたこともね」

「はい」

 はっきりとした返事に父はようやく表情をほぐした。

「住む場所と流れる時間の壁に屈しない信念があるなら、私は反対しない」

「父さん」

 涙ながら呼びかける娘に、父はほんの少しだけ口許をゆるめた。

「……君の覚悟、見せてもらうぞ」

「はい……!」

 ラタオは顔を歪めると深く頭を下げた。そんな若者の姿に、母が優しく声をかける。

「さっき、もっと早く会わせてほしかったって言っていたけれどね、本当はね、しばらく見守っておきたかったのよ」

 ラタオは少し不思議そうな表情で顔を上げる。

「ルコはけっして友達が多くなくて、家にこもりがちだったから開放エリアに通うようになって私たちは喜んでいたの。だから、ルコの自主性に任せてみたかったの」

 ラタオはルコを振り返った。思わず恥ずかしくなって顔を伏せるルコに母が愛情を込めて髪をなでる。

「ルコが行動的になって感謝しているわ。ねぇ、あなた」

 うながされ、父は黙って頷く。そして、息を吐くと「ルコ」と呼びかける。

「父さんが前に話したこと、覚えているか。Bクラスの友達のことだ」

 ルコははっとして目を見開く。

「父さんの研究を手助けしてくれるエンジニア、彼のお兄さんだ」

 驚いてラタオを振り返ると、彼も照れくさそうに微笑む。

「兄から聞きました。とても情熱的な研究者の下で働くことになったと。自分のことをとても信頼して、分析を任せてくれるからやりがいがあると」

「そうか」

 父は初めて柔らかな笑顔を見せた。ルコはほっと胸をなで下ろした。そこで父は席を立つとラタオをじっと見つめた。

「先ほど言ったように、これからの方が大変だぞ。気を引き締めてほしい」

「はい」

 ラタオも慌てて立ち上がる。

「じゃあ母さん、行こうか」

「ええ」

「えっ、帰っちゃうの?」

 ルコが少しうろたえた声を上げると、母は嬉しそうに父の腕を取る。

「たまにはデートぐらいしたいじゃない」

 父は照れくさいのか、何も言わないまま手を上げると背を向けた。

「あ、ありがとうございました!」

 ラタオの叫びに手を振ると、ふたりは連れ立って開放エリアの中心部へ向かっていった。その後ろ姿をしばし見守り、ルコは傍らのラタオを見上げた。ラタオも黙って振り返る。泣きはらした赤い目に、涙でくしゃくしゃになった顔。ラタオは痛ましげに眉をひそめた。

「……ごめん」

 その一言で、ルコは再びじわりと涙がにじむ。思わず黙ってしがみつくとしっかりと抱き止められる。

「……ごめん、本当にごめん」

 一度は別れを切り出そうとした。ラタオは悔いるように言葉を絞り出した。

「ふたりで過ごすこと以上のことなんか望んでなかった。でも、それすらも許されないのなら。ルコちゃんが辛い目に遭うなら。もう会わない方がいいって思ってしまった。でも、会えなくなるなんて本当はいやなんだ……! やっと、わかったよ」

 ひとつひとつ、かみしめるように語られる言葉に、ルコはようやく心が満たされた。もう一度ぎゅうときつく抱きしめてから、顔を上げる。

「……いいんですか? 本当に、私なんかと……」

 その言葉にラタオは困ったような笑顔を見せた。

「ルコちゃんじゃないと、こんな気持ちにはなれないよ。何て言っていいかわからないけど、ルコちゃんじゃないと、意味がないんだ」

 そこでルコは、今さらながら顔が真っ赤に紅潮していくのを感じて再びしがみついた。ラタオは笑いながらその背を優しくなでる。

「もう、後悔しないよ。あの日、また会いたいって声をかけたこと。出会えたことを、感謝しないと」

 まだ頬を赤らめながら上目遣いに見上げてくるルコに、ラタオははにかんでささやいた。

「お父さんに言ってもらってよかった。やっと覚悟ができたよ。……お父さんに叱られるって、あんな感じなんだな」

 その言葉に目を瞬かせる。怪訝そうな顔つきのルコに頷くと、ラタオは椅子にルコを座らせた。

「俺の家族の話、少し聞いてくれるかな」

 ルコは真剣な表情で居住まいを正す。ラタオは少し遠くを見ながら、思い出すようにぽつりぽつりと語り始めた。

「俺の親父は、星間船スターシップの鉱夫だったんだ。危険な仕事で、高給取りだったけど、明日も知れない稼業だったらしい」

 ルコは固唾を呑んで耳を傾けた。スターシップの鉱夫とは、GET2を運航する上で必要な資源を小惑星から採掘する人々のことだ。その作業は常に危険が伴い、仕事を終えてGET2に帰ってくるまでに長い時間もかかるため、重要で必要不可欠な仕事でありながら敬遠されてきた職業だ。

「作業中に事故で大怪我をすることも多いし、死亡率も高い。だから、鉱夫たちは自分の精子を冷凍保存する習わしがあるんだ。もしもの時のためにね」

 その、もしもの時というのが想像できず、困惑の表情を浮かべるルコにラタオはちょっと寂しそうな微笑を浮かべた。

「例えばうちの場合はね。親父は作業中の爆発に巻き込まれて、大怪我を負った上に昏睡状態になったんだ」

 ルコはびくりと体を震わせた。大怪我? 昏睡状態? 初めて聞くことばかりのことで混乱するルコのために、ラタオはゆっくりとわかりやすい言葉を選びながら続けた。

「GET2に帰ってきた親父の変わり果てた姿を見て、お袋はすぐに凍結していた精子を使って子どもを産んだ。それが兄貴だ。いつか親父が目を覚ました時に、迎える家族が多い方がいいって思ったんだ」

 思わず息をひそめて話に引き込まれていくルコ。Aクラスでは、絶対にありえない話だ。

「でも、親父の大怪我をした体がもたなかった。半年後に、親父は生命維持装置を外されて、死んだんだ。その後……、兄貴を産んだお袋はもうひとり子どもが欲しいと思ったんだそうだ。家族は多い方がいい。親父もいないし。そうして産まれたのが俺だ」

 人工受精児だったのは、そのためだったのか。ルコは初めて聞くラタオとその家族の話に驚きをもって受け入れた。

「さっき言ったように、スターシップの鉱夫は稼ぎがよかったし、移民政府からの年金もあった。親父はね、一生懸命働いてかなりの蓄えをしていたんだ。何でかわかる?」

 ルコは首を傾げるとしばし考え込んだ。

「……いつか子どもができて、家族が増えた時のために?」

「そう、それもある。でも一番の理由は、いつか惑星に移住できたらいい土地を買いたいと思っていたんだ」

 惑星に移住できたら。

 住む場所を隔てられない、自由な惑星での暮らし。開拓する上で必要な資金と土地を得るために。ラタオの父は必死で働いていた。ルコは目頭が熱くなるのを感じた。

「親父はBクラスに生まれたことを嘆いていたけど、Aクラスの人たちがきっと移住できる惑星を見つけてくれるはずだって、いつも言っていたらしい。それをお袋から聞いて育ったから、兄貴は惑星の大気分析のエンジニアになったんだ。Aクラスの研究を支えて、少しでも早く惑星を見つけられるように」

 きっと、移住できる惑星はあるはずだ。その思いがラタオの父を突き動かしていた。彼だけではない。多くの人々がその日を夢み、それぞれの仕事を日々こなしている。

だが、人は夢だけでは生きていけない。このGET2で暮らしているうちは、自由のない日々が続く。移民政府に対する不満は、日々の閉そく感だけではない。ラタオの父のように命を落としていった者たちの思いがあるからだ。

「きっと、移住できる惑星はあるはずだ」

 ラタオの言葉にはっと顔を上げる。前を見据えるラタオの横顔は、覚悟を決めた者の力強さを感じさせた。

「惑星が見つけられなくても……、AクラスとBクラスに離れていても、俺はルコちゃんと一緒に生きていきたい」

 そこで、ラタオは穏やかな微笑みを浮かべながら振り向いた。

「俺は、引き離されてる船をつなぐ仕事があると聞いて、軌道エレベータを守る仕事を選んだんだ。だから、ルコちゃんに出会えたんだ」

 ルコの顔に、光が差すように微笑が咲く。ラタオははにかんだ笑顔でルコの手を引き寄せると優しく抱きしめた。

「いつか、惑星で暮らせるようになったら、一緒に暮らそう」

「はい」

 ルコの返事にラタオはますます強く抱きしめた。ルコの胸のネックレスが揺れる。まばゆい光を抱いた、星をかたどるネックレスが。

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