第20話 そして、後夜祭
桜川が固まる。
「おい、どうした?」
「お、お父さん…?」
桜川が一種の恐怖に近い声を上げたせいだろうか、クラスの視線が一気に集まる。
その焦点に立っていた男性が重々しい声で言った。
「真、何だその恰好は」
「こ、これは学祭の衣装で……」
しかしその言葉は途中で遮られた。
そして、桜川の父親は桜川自身にとって禁句にも等しい言葉を浴びせた。
「17にもなって、男がそんな服を着て恥ずかしいと思わんのか」
脊髄反射のような速度で頭に血がのぼり、そして一瞬で冷めた。
右手が少し冷たい。
桜川が、俺の拳を強く握っていた。
「……お父さん」
その声は自分の激情を押し留めようと、必死になっていた。
「……帰ってよ」
「なんだ」
「帰ってよ!!」
俺の手を離すと父親にずかずかと寄っていき、無言で教室の外へ押し返した。
その光景に、俺を含めクラスメイトは立ち尽くしていた。
振り向いた桜川の目に浮かんでいたのは、恐怖の色。
そして。
「……ッ!」
「おい、待て!」
教室を飛び出した桜川。
遅れて追いかけてみるが、姿はどこにもない。
「ねぇ、水谷」
「なんだ」
恐る恐るという言葉を体現したような声に、いらだちを覚える。
「今のあんた、顔怖いよ。そんなことより、どういうこと? まこぴーが、男……?」
「……なんとも言えねえな。ただ、」
「ただ?」
「俺もどうしたらいいのか分からねえんだ」
ただし、俺が1つだけ確信をもって言えるのは。
桜川が最も恐れていたであろうことが、現実となってしまったことだった。
「皆さん、そろそろ後夜祭ですよー。……あれ? 桜川さんは?」
何も知らない担任の女性教師が教室にやってきて、相変わらずのゆるい口調で尋ねた。
「生徒会室に忘れ物して来たって、さっき飛び出して行きました。あとで連れていきます」
「じゃあ残りのみんなは体育館に行って下さいねー。水谷くんは桜川さんをよろしくお願いします」
その言葉を聞き終わる前に、俺は教室を飛び出した。
どうせ居ないだろうと思いながらも、生徒会室に入ってみる。
しかし桜川はそこにいた。
ちょうど廊下からは死角になる席に座っていた。
その背中は、いつもより、小さく見えた。
「カイト君」
俺が一言も発していないにも関わらず、桜川はしゃべり始めた。もちろん背中越しなので顔も見ていない。
「どうしよう、バレちやったね」
ありとあらゆる感情が欠落したような、乾いた声。
「まあクラスメイトだけだったのはラッキーだったかな。あははははは」
そう言いながらも、自分の激情を必死に抑えているのがよく分かるトーンだった。
そしてようやく、こちらを向いて立ち上がる。
「ねぇ、カイト君。人間ってさ、面白いよね。……何にも無くなっちゃうと、まるで無敵になったみたい」
「おい、待て」
ヤケを起こすな、とは口には出せない。
しかし桜川のそれは、自暴自棄そのものだった。
「ねぇ、カイト君」
1歩ずつ近づく。
「僕って、おかしいのかな。病気なのかな」
「……」
何も言えず、ただ聞くことしか出来ない。
「わざわざお姉ちゃんの制服借りてさ、こんなものまで着けて!」
乱暴にウイッグを外し、机に叩きつけた。
地毛はやや伸びていたが、長い黒髪が一気に短くなり、やや男寄りの顔つきになった。
「そもそもおかしいんだよね、『妹になりたい』なんて。バカみたい」
夏合宿のときに楓さんから聞いた話だ、と理解する。
そして桜川が、俺をもはや見ていないということも。
「ねぇ、カイト君」
呼ばれるのはこれで何回目だろう。
「こっち見てよ。今の僕を」
そう言われて、桜川を見据える。
「気持ち悪いって、カイト君も本当は思ってたんでしょ。父さんみたいに」
「……そんなこと、ねえよ」
「別にいいよ、今更嘘つかなくても。多分みんなも同じだと思うから」
「……なあ」
「どうしようか、もうこれ着られないよね」
「……なあ、桜川」
「その前に、みんなに説明するのか。本当は僕男の子ですとかなんとかって。でも分かってくれるわけないよね」
「俺の話を聞けっ!!」
涙で細い川を作りながら、目を丸くした桜川。
「ど、どうしたの?」
「俺はな……、俺はお前の女装が気持ち悪いなんて思ったことは一度もねえ」
「ウソだ」
「ウソじゃない」
「ウソだ!」
珍しく、桜川は叫んだ。
顔は洪水を被ったように濡れていた。
「それで僕を慰めてるつもりなの?」
「違う」
「そうでしょ、じゃあなんでわざわざ探しにきたの?」
「あんな不自然に部屋飛び出したら、追いかけるのがセオリーってもんだろ」
「いつものカイト君なら、そんなことしない」
弾ける音が、生徒会室に響く。
手のひらが熱い。
桜川は、左の頬をさすっていた。
「カイト、君……?」
「お前、いい加減にしろよ。さっきから何をうじうじとぬかしてんだ」
そろそろこちらの理性も限界だった。
「女装がなんだよ? したけりゃ堂々してれば良いだろ、笑いたい奴は笑わせておけよ」
「そう考えてるのは、カイト君だけだよ!! ほとんどの人間は気持ち悪いって思ってるんだよ!! 3組のみんなだってどうせそうだよ!!」
「分からねえだろ、そんなもん!!」
「分かるよ!!」
その叫びは、悲痛にも聞こえた。
「……もう、いいよ」
「おい、待て……!」
俺はただ、部屋から立ち去る桜川の背中を見つめることしかできなかった。
気がつくと、窓の外に映る空は黒をまとった灰色に変わっていた。
雨粒が窓ガラスを覆うのに、それほど時間はかからなかった。
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