01. 神語

 澄佳すみのかは、神語だ。大好きな祖母から習い覚えた歌を、大切に、胸に抱いて生きてきた。


 皇の住まう都からは馬車くるまを引いてもひと月はかかる辺境の地、見渡す限り草原くさはらの広がる地に育った澄佳は、何とはなしに、このままずっとこの場所で暮らしてゆくのだろうと思っていた。

 祖母はかつて都に暮らしていたのだと澄佳に語って聞かせてくれたことがあるが、澄佳の母も、澄佳の死んだ父も、みな草原から出ることなく生活を営んできたのだ。十六にして神語という特殊な生き方を選んだ澄佳も、草原で祈り歌や神の物語を伝え、やがて大地へ還るのだと信じて疑うことはなかった。

 澄佳は、草原が好きだった。どこまでも続くように見える緑の大地に、果てなく広がるように見える蒼穹に、世界に溶けあうような心地で歌うのはとても気持ちの良いことであったし、互いに支え合って暮らす草原の人々との生活は澄佳にとって、確かに「幸福」と呼べるものであった。



 時は、漸閤の御代。長く続いた戦もなりを潜め、民は穏やかな暮らしを享受して久しい時代。じき、雨期に差し掛かろうとするすいの月のことだった。



 澄佳が母、そして祖母と暮らす館に、都からの使者が訪れた。

 使者は神語を求める皇からの伝令と名乗り、美しい珠を差し出した。揺らめく焔のような、朱とも紅ともつかぬ色合いのそれがどんな意味を持っているものなのか、澄佳にはわからない。初めて見る都の人間に戸惑う澄佳をよそに、祖母は枯れた手でゆっくりとその珠を撫ぜ、そうですか、陛下が、と頷くと、

「参りましょう」

 そう言って、静かに微笑んだ。使者もその言葉に安心したのだろう。旅程の説明を始めようと声を上げた。

「では、こちらから――」


 けれど、澄佳は知っていた。


 つい十日前にも高熱を出し床に臥せていた祖母が、ひと月あまりもの長旅に耐えられるはずはなかった。草原の民は都の民より身体が丈夫で、長命であると言われてはいても、その天命に何十年、何百年もの違いはない。草原の民にしても長すぎる程の時を生きた祖母に、無理をさせるわけにはいかなかった。


 ゆえに、澄佳は大きな声でこう言った。


「あたしが行きます。あたしも、あたしも神語です」

「澄佳」

 祖母が呼んだが、澄佳は言葉を止めない。

「おばあちゃんは、体が弱いんです。だから」

 ――――だから、あたしのことを、連れて行って下さい。深々と頭を下げた澄佳と、それを見つめる老女の姿を暫しの間見守っていた使者は、やがて柔らかそうな布地の上に珠を乗せ、机の上に優しく載せた。澄佳は与り知らぬことだが、そのぎょくは皇からの信頼の証。カンテラの光を強く跳ね返し、澄佳の亜麻色の髪の毛を煌々と照らし出していた。


「三日後、お迎えに上がります。――お名前を」

「はい」

 顔を上げた澄佳は、さながら神の名を謳うように告げた。

「あたしは、澄佳。神語の、澄佳です」


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