第11話

「『銀月の夜』に『煙の王』が何をしたのか、ねぇ」

 そう言ってマダムが太一の前に置いたのは、小さな湯飲みだった。

 中にはほんのりと湯気を立てる緑茶が入れてあったが、バーカウンターに置かれる湯飲みというのはなんとも不釣合いなことこの上ない。

 しかしマダムは特に気にしていないようで、自分用の湯飲みをじゅるじゅると啜ってから、こう切り出した。

「簡単に言えば、吸う者吸わぬ者関わらず、たくさんの人を殺したわ。外の世界がどれほどひどかったのかは知らないけれど、キセル街道はもう地獄絵図よ」

「地獄絵図?」

 太一が眉を顰めると、マダムは今度はゆっくりとタバコを喫み、

「『灰被ハイカブり』って知ってるかい? 煙魔を喫めずに、逆に喫まれてしまった人間のことを言うのだけれど」

 その存在を見たことはなくとも、灰被り、という言葉には聞き覚えがあった。確か、愚道丸との戦いの時だ。

「煙魔に自我を支配されるとそうなっちまうんだろ?」

 愚道丸の言葉そのままに太一が言うと、意外と物知りだねぇとマダムは目を丸くした。

 若そうな外見のくせに、言葉尻やリアクションはいちいち年寄りくさい。

「『煙の王』には煙魔を自由自在に操る力があってねぇ。奴はキセル街道中、いやそれだけじゃなく、外の世界の煙魔も暴走させて、あらゆる人間に憑りつかせた。ひどいもんだよ。使い魔が暴走したせいで喫魔師から灰被りに堕ちた連中が、あちこちで暴れ回るんだ。そのくせ灰被りになった者を正気に戻す方法なんてないからね、殺すしか事態を収束させる術はないんだよ」

 だから友と友が、そして師と弟子が、昨日まで肩を並べて歩いていたことが嘘みたいに殺し合ったと、マダムは語った。

「辛うじて『煙の王』の力から逃れた喫魔師もいるけどね、果たしてそれが幸か不幸か誰にも分からんわけ。だって今生きている連中のほとんどは、灰被りになった大切な誰かを殺して生き延びているわけだからね」

 吸う者の中では『銀月の夜』、吸わない者の中では『喫煙者による連続無差別殺人事件』と呼ばれるこの出来事は、前者には赤丸銀次という個人への、後者には喫煙者という集団への憎しみを生んだ。

 結局のところ、赤丸銀次の弟であり、それと同時に喫魔師である太一には、吸う者吸わない者、どちらの世界にも居場所はないのである。

 だからこそ、そんな太一を彩煙座に引き入れようとするマダムの意図がより分からなくなる。

「あんたの髪色を見た連中はみんな噂してるよ。やれ『煙の王』の再来だ、やれまた『銀月の夜』がやってくるってね。その正体は何も知らないちんちくりんのガキだっていうのにねぇ」

 アッハッハ‼ とマダムは豪快に笑うが、彼女は厄介者の太一を仲間に引き入れた後のことを心配していないのだろうか。

 八ツ橋蝶児と出会った喫茶店での一件を鑑みれば、キセル街道での太一の評判はかなり悪い。太一の仲間だからという理由で、彩煙座にも何かしらの迷惑がかかったとしてもおかしくはない。

 だからこそ太一は改めて、かつて橙にぶつけたものと同じ質問をマダムにもぶつけてみた。

「お前らは何を企んでいる。俺なんかを彩煙座に引き入れて、一体何になる」

 ふぅ、とマダムが大きく息を吐くと、吐き出されたタバコの白煙は小さな蝶の形を模し、太一の肩にとまろうとして、解けるように霧散した。

「確かあんた、橙にも同じ質問をしていたね。まぁあの子は、勇者だとか魔王だとか適当なことを言って答えをはぐらかしていたようだけれども」

 チッ、とどこからか舌打ちのような音が聞こえた。

 それが誰のものなのかはマダムはとっくに分かっているはずなのに、特に気にすることなく話を進める。

「昨日――あんたが怪しげなメモを押入れから見つけたように、あたしも同じ日にメッセージを受け取っていたのさ」

「メッセージ?」

 マダムが差し出したのは、二つ折りの白い紙。開けば中には、「銀月の夜は再び訪れん」という簡素な一文が書かれている。

「あたしの場合は店のポストに入っていたんだけど。しかし一体どういうことなんだろうね、同じ日におかしな手紙を見つけた者が二人もいるなんて」

 あんたのにはなんて書いてたんだい? とマダムが言うので、太一はズボンのポケットから件の紙を取り出す。

「真実は煙の向こう側に、ねぇ」

 つまらなさそうに呟くと、マダムはその紙にタバコを押し付けて燃やしてしまったではないか。

「おい、何してんだあんた⁉」

「何って、知りたいことは大体分かったから処分してんのよ。いつまでもいらない物をとっておいても仕方がないでしょうに」

 太一が紙に燃え移った火を消そうとしている間に、マダムは別の紙にも火を点けてしまう。

「そういう問題じゃ……」

 マダムの横暴な振舞いに太一が唖然としている横で、二枚の紙はメラメラと燃え続ける。熱によってその形は歪み、萎れ、そしてやがては、まるで苦しみ、のたうつようにその身をよじらせ、耳をつんざかんばかりの断末魔を叫び始めたではないか。

「な、なんだよ、これは……」

 姿形は普通の紙と変わらないはずなのに、断末魔を上げ、まるでムシのように体をくねらせるだけで一気に嫌悪感が増してくる。

「この虫唾の走り具合、大方、愛煙結社の仕業だろうね」

 その言葉とは裏腹に表情一つ変えないマダムは、炎を纏う二枚の紙を躊躇いなく掴み、そのまま握りしめてしまった。

「騒がしいのは好かんのよ」

 やがて彼女が手を開けば、まるで花びらのように消し炭が宙を舞う。

 燃える紙を握ったはずの彼女の手は、火傷の跡一つなく、白く滑らかな肌を保ったままだった。

「やはり、あたしたち彩煙座はあんたを仲間に引き込まなければならないようね」

「どういうことだ」

「愛煙結社が再び動き出した」

 だから、とマダムは改めて太一の方を見据え、

「奴らを完全に潰すために、あんたの力が必要なのさ」

 かつて橙が言っていた言葉。

 —―君は『煙の王』の力を引き継いではいても、その意志は引き継いではいない。つまり力の使い道さえ間違えなければ、魔王だって勇者になれるってことさ

 彼の言葉の意味が、ここに来てようやくわかった。

 このマダム・シンデレラという女は、『煙の王』の力を引き継いだ太一を、恐れるでも憎むでもなく、敵を打ち滅ぼすために好都合だと招き入れようとしているのだ。

「かつて人々を恐怖のどん底に突き落としたその力なら、それと同じくらい、多くの人々を守れるとは思わないかい?」



「俺に愛煙結社の連中と戦えって言ってるのか?」

「嫌かい? 自分の兄貴がつくった組織を潰そうとするのは」

「そういうわけじゃねぇけど……」

 今まで気丈に振る舞っていた太一が、ここにきて初めて、その言葉を濁した。

 事実を受け入れるための許容量に、限界がきたのだ。

 行方不明になっていた実の兄が、喫魔師たちの世界では多くの命を奪った極悪人として恐れられている。

 自分が知る兄からは想像もできないその残虐な一面を知り、太一は現実から置いてけぼりをくらっているような夢想感に陥っていた。

 疑心暗鬼寸前の太一であったが、それでも、彼は一つだけ確認しておきたいことがあった。

「なぁ、本当に『煙の王』は――いや、俺の兄貴は死んじまったのか?」

 唯一の肉親である、兄の安否。

 たとえどれだけ残虐非道な行いを聞いても、どれだけ極悪人として恐れられているかを目の当たりにしても、赤丸銀次は太一にとってはただ一人の兄であり、家族である。

 殺されても仕方がないという思いが大半を占める一方で、生きていてくれたらという願いもあった。

 そんな太一の思いを知ってか知らずか、マダムは曖昧に言葉を濁す。

「さぁ? 周りの連中は死んだって言ってるみたいだけどねぇ。ほんとのところは何も言えんよ」

「他の連中の意見なんて聞いてない。あんたの考えを聞かせてくれ、マダム。赤丸銀次はまだ生きていると思うか? それとも死んだと思うか?」

 真っ直ぐな太一の視線を避けるようにマダムは目線を逸らし、一度橙の方を見る。

 そしてやけにゆっくりとした動作でタバコを吸い、

「生きてるわね、奴は」

「マダムッ‼」

 突然大声を出した橙を手で制し、彼女はカウンターに並べてある多種多様な置物の中から、占いで使われるような水晶玉を手に取った。

「長いことキセル街道に棲みついているからか、いつの間にかあたしのことを占い師だとか予言者だとか言う奴が多くてね」

「でも確か、俺が『煙の王』の力を引き継ぐって予言したのもあんたなんじゃねぇのか?」

「予言した? あたしがかい?」

 ふん、とマダムは鼻で笑い、水晶玉を太一に投げ渡す。

「その水晶を覗き込んでごらん? 何が見える?」

「いや、えっと……、俺の顔?」

 あたしも同じさ、とマダムは太一から水晶玉を取り上げて言った。

「占いも予言も、生憎あたしは一度もしたことがない。あたしのしていることは、ただ推測を述べているだけ。幸いなことに他の人よりもちぃっとばかし耳が良くてね、色んなことが耳に入っているわけよ。それらを元に思いついた推測を話していたら、いつの間にか予言だとか占いだとか言われるようになったってわけ」

 欲しけりゃあげるわよ、とマダムが水晶玉を差し出してくるが、太一は首を横に振ってそれを断る。

「そんなあんたが赤丸銀次は生きてるって言うってことは、それを言うに値する情報が入ってるってことなんだな?」

「まぁね。ただ今はその情報を言うつもりはない」

 交換条件といこうじゃないか、とマダムは太一との距離を詰めた。

「あんたは彩煙座として仕事をこなす。その見返りして、あたしはあんたに赤丸銀次の情報を与える。なぁに、あんたに頼みたいことは大体が愛煙結社絡みのことだからねぇ。一緒に働いていれば嫌でも奴の情報は耳に入って来るよ。どうだい? 良い契約だとは思わないかい?」

 橙はマダムのことを、キセル街道の中で一番恐ろしい人物だと言っていた。

 いつも何か企んでいそうな彼が気を抜いてはいけないと言う相手だ。警戒しておいて損はないだろう。

 ただ太一は、彼女のこの誘いに乗ることになるというのは、ずっと前から確信していた。

 喫魔界という、今まで自分が知る由もなかった吸う者の世界があることを知り、そして自分の兄である、赤丸銀次が極悪人として恐れられているという事実を目の当たりにしたその瞬間から。

「仕事ってのは、一体何をすればいい」

「それは後々話すよ」

 言って、マダムは笑った。

 端正な容姿から浮かべられた彼女の笑みは、魅惑的というより蠱惑的に見えた。

「『火継ぎの儀式』をしようじゃないか。橙のことだ。どうせそんなこともしていないんだろう?」

「火継ぎの儀式?」

「あたしら吸う者の中ではね、新しく同胞を迎えるときには、この火継ぎの儀式をするっていう昔っからのしきたりみたいなのがあるのさ。なぁに、そう難しいことじゃない。あたいから火をもらって、そのタバコを吸えばいい」

 カウンターに置いてあったライターを手に取り、マダムは火を点けてそれを太一に差し出した。

「喫まれることなく、常に喫まんとする者であらんことを」

 タバコを口に咥え、そのままマダムが灯す火に当てる。

 マダムからもらった火で吸うタバコの煙は、いつもより辛みが強く、けれど体を内側から目覚め起こすような、激しい熱さがあるように思えた。

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