第8話
あの時とよく似ていた。
タバコのほろ苦い香り。
視界を閉ざすかのように漂う、白濁色の煙。
満身創痍で地に伏し、あとは死を待つだけの惨めな状況。
(いつだっけ……、こんな感覚を味わったのは)
確か、あの路地裏だ。
千ヶ崎に殺されかけ、若葉に命を救われ――そして銀九狼に殺された、あの時。
夢か現か、それすらもはっきりとしない意識の中で、太一は自らの奥底から獣のような唸り声を聞いていた。
その声に誘われて、太一は潜り続けた。脊髄よりも深く、心すら掻き分け、魂の最果てにまで辿り着いて、漸くそれはその片鱗を覗かせた。
太一がもうこれ以上潜れない限界の更に向こう側で、白煙に包まれたその獣は、赤い目を爛々と輝かせている。
姿形は分からない。
その獣の名前も知らない。
それでも太一は、その血のように赤い双眼を見ていて、何故か銀次の面影を想起した。
――汝は何故煙を喫む
――汝は何故力を欲する
それはまるで自問自答のように、不意にどこからか声が聞こえて、
「俺は――」
太一がいくら声を張り上げても、嘘だと言わんばかりに獣の咆哮が彼の言葉を掻き消してしまう。
何度叫んでも、何度吠えてもその繰り返しで、その咆哮はまるで突風のように、太一の体までをも吹き飛ばそうとするのだ。
(離れたくないッ‼ せっかくここまで潜れたのに、戻されるなんて嫌だ‼)
それでも太一の体は脆く儚く、気づけば彼は、あの薄暗い地下室で目を覚ますのだった。
もうあそこには戻れないんだなという、一抹の後悔の念を抱きながら。
★★★
「ほうまだ立つか、小僧」
自分の周りに広がった血の量に眩暈がした。
体のあちこちで痛みが走る度に覚悟は揺らぎ、鈍くなった体の動きを自覚する度に、小な勇気がそぎ落ちていく。
だがそれでも、太一は立ち上がった。
「して、どうする? 貴様に拙者を倒すだけの力と術があるのか?」
愚道丸の言う通り、状況が好転したわけではない。
太一がしたことと言えば、ただ立っただけに過ぎないのだ。それも満身創痍の状態で。
(だから、一発で勝負を決める。愚道丸を喫んで終わらせる)
左手に携えたタバコはまだ生きている。これを愚道丸に押し当てて吸い込めば、太一にも勝機が見えてくるかもしれない。
「その傷で立ち上がった根性は称賛に値するが、同時に愚の骨頂と言わせてもらおう。なぜならほら――」
直後、愚道丸の姿が消えて。
そして現れたのは、
「次の瞬間にはもう絶体絶命だ」
太一のすぐ目の前。
その時には既に刃が振り抜かれており、体が真っ二つになっていないか心配になるほどの血が腰から溢れていた。
今度こそ致命的な一撃。
太一はもう立ち上がることはおろか、意識を保っていることすら難しくなってしまうだろう。
だが、同時に、この距離感。
(今が、最大のチャンス)
まだ倒れられない――太一は両足で踏ん張ったまま、懸命に腕を伸ばしてタバコの先端を愚道丸の首に押し当てる。
「ッ⁉ 貴様もしや……ッ⁉」
気づいたところで、もう遅い。
愚道丸の姿が風に吹かれた煙のように不安定に流れ、太一のタバコに引き寄せられる。
「忘れたのか愚道丸。俺は喫煙者。テメェら煙を喫むくらい、当然だろうがッ‼」
押し当てたタバコを今度は自分の口元に引き寄せ、思いっきり吸い込む。
「ぐっ、ぬおッ‼」
すると愚道丸の揺らぎは更にひどくなり、それこそまさに煙のように徐々にその肉体を虚ろわせていく。
(行ける‼ これなら、俺でも喫むことができるッ‼)
愚道丸の体を半分ほど吸い込み、彼の実体が上半身のみとなったところで、太一は絶望的な戦いの中に勝機を見出していた。
ちょうど、その時――。
ふっと、残っていた愚道丸の体がいとも容易く引き寄せられる。
あれだけ激しく抵抗していたはずなのに、まるで勝負を投げたかのように、愚道丸の力が一瞬で感じられなくなったのだ。
(諦めた? いや違う)
――勝負の仕方を変えた?
互いの鼻と鼻が触れるほど引き寄せられているというのに、愚道丸は場違いにも口元を不気味に歪ませ、こう告げた。
「拙者を喫むとは良い度胸だ、小僧。だが、せいぜい拙者に支配されないよう自我を保っておくんだな」
「ぶはぁッ‼」
太一が大きく息を吐きだすと、血生臭さが混じった煙たい臭いがした。
「喫めた、のか……?」
愚道丸の姿はない。辺りを見回せばいつの間にか陽はどっぷりと暮れていて、夜空を見上げれば三日月が浮かんでいた。
「生き延びたのか、俺は……」
あの絶望的な状況から。
あれだけ絶体絶命な目に遭いながら。
それでも太一は耐え忍び、今を生きている。
「やった、やったぞクソ‼ 生き延びてやったぞッ‼」
生まれて初めて「生きている」ということへの喜びを嚙みしめ始めると、今度は自分を嵌めた彩煙座への恨みが募っていく。
「くそ、橙の野郎、ふざけた真似しやがって」
愚道丸という力を手に入れたことで、どうやって復讐してやろうかというところまで発想がいくようになった。
今から連中の下に行き、目にもの見せてやってもいいが、
「血を、失い過ぎたか」
一歩踏み出そうとすると、足元がふらつく。
体が真っ二つになるかどうかというほどの斬撃を喰らったのだ。それでもまだ太一が意識を保てているのは、喫魔師としての力が発揮されている証拠なのだろう。
とにかく今は傷を治して態勢を立て直すのが先だ。太一がこの場を立ち去ろうとすると、地面に一振りの日本刀が落ちていることに気づく。
愚道丸の使っていた刀だ。錆も刃毀れもないその刃を見て、あれが今まで自分の命を奪おうとしていたのかと太一は恐怖を抱くが、今はそれを使う愚道丸はいない。
杖代わりにしようとその刀を手に取った太一は、そのまま自然な流れで、まるで己の首を刈り取ろうとするかのように自らへとその切っ先を向けた。
「ッ⁉」
寸前で刀から手を離したおかげで首筋を軽く切るだけで済んだが、あのままいけば確実に自分で自分の首を斬り飛ばしていただろう。
「なんだ、今の……」
違和感――まるで、自分の体に別の誰かが乗りうつったかのような、
『気分はどうだ、小僧』
「――ッ⁉」
愚道丸の声。
しかし周囲を見回しても彼の姿はない。
「あのままいけば貴様を殺すこともできたが、どうやらまだ貴様との肉体の同調がうまくいっていないらしい」
聞こえてくるのは、太一自身から。
まるで心の内側から囁きかけてくるかのように、
「何を驚いている? 言っただろう? 精々拙者に支配されないよう自我を保てと」
愚道丸の声が聞こえてくる。
「なんで、そんな……」
確かに、太一は愚道丸を喫んだ。
だから奴の姿はないし、太一は今こうして生きている。
それなのに、何故?
「勘違いしているようだから教えてやろうか。喫煙者全てが煙魔を喫めるわけではない。煙魔を喫めば誰でも喫魔師になれるとでも? 舐めるなよ人間風情が。貴様ら人間の脆き自我など簡単に支配し、『灰被り』に変えてくれるわッ‼」
体が勝手に動き、落とした刀を拾い上げる。
そして切っ先は、自らの喉元に。
「く、くそ、やめてくれ‼」
刀を離そうとしても体は全く言うことを聞いてくれない。
「あまりこういった形で勝負を決めたことはないのだがな……。まぁ、拙者の精神力の勝ちということだ」
つい先ほど生の喜びを噛みしめたばかりなのに、その数分後には刀の切っ先を自分の喉元に突き付けているとは。
なんと滑稽で、
惨めで、
そして残酷で。
「やめろ、やめてくれ……」
結局赤丸太一は、どう足掻いても力なき者のままなのか。
「やめろぉぉッ‼」
瞬間、猛烈な吐き気が彼を襲った。
最初太一は、その吐き気をあまりの恐怖によるものか、最悪、喉を掻き切った時に味わう感覚なのかと思った。
だがそれはどれも違くて。
刀の切っ先は、太一の皮膚に触れるかどうかのところで止まっており、彼が吐き出したのは胃液でも血でもなく、二つの「モノ」。
一つは、額から血を流す愚道丸。
そしてもう一つは、太一を庇うようにして立つ、新たな異形。
その姿は狼の如く、しかしその尾は妖狐の如く九つに分かれている。
半狼半狐の奇特な姿。
太一は、その異形の名をはっきりと覚えていた。
かつて自分を殺そうとした、最強の煙魔。
「お前は――銀九狼ッ‼」
喫み込めなかったはずの煙魔が、再び太一の前に現れたのである。
★★★
「一体、何がどうなっているの……?」
それは、若葉が橙の制止を振り切ってでも太一を助けにいこうとした、その矢先のことだった。
絶体絶命の太一の体から追い出されるようにして飛び出たのは、手負いの愚道丸と、太一を庇うようにして現れた、銀九狼。
しかし若葉の記憶によれば、太一は喫魔師にはなれなかったはずだ。
銀九狼を取り込むことができずに取り逃がし、故に彼がタバコを吸っても何も起こらない。
無力な喫煙者。それが赤丸太一の立ち位置だったはずだった。
それなのに――、
「なぜ?」
若葉は眼下の光景に眉を顰めた。
「これが、あんたが言う可能性だっていうの? 橙」
「そうだが……、一体何を驚いている?」
片鱗は既に見せていたはずだと橙は言う。
「八ツ橋蝶児との喧嘩を陰から見させてもらったが、太一は少し、いや異常に頑丈だったとは思わないかい?」
あの時蝶児はタバコを吸っていた。つまり喫魔師として、彼が使役する煙魔の力を使って太一を殴り飛ばしたということになる。
煙魔の力を宿す喫魔師は、勿論個人差はあるものの、その膂力は人間の常識を超える。特に蝶児に関して言えば、彼は完全戦闘型の喫魔師であり、その実力は彼一人で一個師団を楽に相手取ることができる程だ。
いくら手加減しているとは言え、一発殴られれば瀕死状態に陥るのは確実だろう。
それを太一は、二発も受けた。
砲弾のような拳を二発も受けて、ただの気絶で治まってしまったのである。
「つまり太一には、あの時点で既に銀九狼の力が備わっていたということになるわけさ」
喫魔師が煙魔の力を十分に使いこなせるのは喫煙中ではあるが、それ以外の時には一切力を使えなくなるというわけでもない。タバコを吸っていない時でも、身体能力はある程度の恩恵を受けているのだ。
銀九狼の力が備わっているのならば、あれだけの一撃を受けても生き延びられたのは納得がいく。
だがそれでも、若葉は目の前で起こっている現実に納得がいかなかった。
「じゃあ何? 私が最後に見た銀九狼は幻覚? 目の錯覚だったとでも言うの? それにあの時、あいつがタバコを吸っても何も起こらなかったのよ? それなのにどうして今になって……」
「それがボクの賭けようとしていた可能性というやつさ」
橙は屋上の手すりに背を預けて、若葉の方を振り返る。
「ボクが話していた可能性とは、太一に銀九狼の力が備わっているかどうかではなく、銀九狼の力を使いこなせるかどうかということだった」
「どういうこと?」
「君の話によれば、太一は一度、完全に喫み込んだ銀九狼を、一瞬で吐き出してしまった。だが果たして、銀九狼は本当に逃げ出すことができたのか」
そこで間を空け、ボクが思うにと橙は続けた。
「太一は無意識の内に、銀九狼が逃げ出せないほど、しかも自力では引っ張り出せないほど奥深くに、その力の一部を隠し持っていたはずなんだ」
それだけ、あの時の太一が必死だったということだろう。
ここで喫まなければ皆殺しになるという状況は、彼に今後その力を引き出すという考えを持つ余裕を与えず、ただ喫むことのみに集中させた。
その結果、太一は自分自身ですら気づかないほど奥深くにまで、銀九狼の力の一部をしまい込んだ。
「だからあんたは、太一と愚道丸を引き合わせ、無理やりあいつの奥底から銀九狼を引き出させようとしたのね」
「銀九狼を喫み込むほどの馬鹿力、今度は引き出すことにも使ってほしくてね」
もうこれ以上は話すことはないとばかりに若葉に背を向け、橙は再び眼下の光景へと目を移した。
「かつての王、赤丸銀次の弟が銀九狼を引き継いだか……。乗り遅れるなよ、薬獅子、若葉」
肩越しに二人を見ながら、橙はこう告げる。
「世界は今、再び動き出した」
★★★
突如、太一から銀九狼が飛び出してきたその瞬間。
まず始めに感じたのは、疑念。
(喫めなかったはずの銀九狼がどうして俺の中から?)
そして、不安。
(あの時みたいにここで暴れ出すつもりか?)
身構えた太一に銀九狼が繰り出したのは、意外にも冷静な問いかけだった。
「おぬしは奴を倒して何とする」
「――何?」
目の前には愚道丸がいるというのに、銀九狼は全く意に介すことなく太一の方を振り返った。
「儂の力を使えばあの程度の煙魔、容易く瞬殺することができるだろう。だがそしてどうする? 一部と言えど、これでも最強を誇る煙魔の力。揮えば大悪党にも英雄にもなれる程強大ぞ」
「お前を喫めなかった俺に、力を貸してくれるのか?」
話が思わぬ方向に転がって太一は微かな勝機を見出すが、喜ぶにはまだ早いと銀九狼は眼光を尖らせた。
「確かに、儂はおぬしから逃れきれずに喫まれてしまったが、そう易々と使い魔になるつもりもない。おぬしが戦う理由が、最強の力を揮うに不似合いな矮小なものであれば、転じておぬしの喉を掻き切ろう」
「――ッ⁉」
一歩、銀九狼は太一に、ただ近づくのではなく、勿論歩み寄るのでもなく、迫った。
「して、おぬしは何を望む?」
間合いは三メートル程。しかし喉元には刃を当てられているような殺気が感じられる。
力の一部というだけあって、銀九狼の大きさは一回りも二回りも小さくなり、大狼というより精々大型犬程度になっているが、それでも見る者を萎縮させる凄みは前と変わらない。
「俺は――」
太一の言葉に、銀九狼の体が僅かに動いた。一言一句をきっかけに、彼を殺しにかかるつもりなのだろう。
怖い――だが、ここで銀九狼の力を得られなければ、太一に生きる道はない。
「俺は、真実を知るためにこの街に来た」
どうして銀次が『銀月の夜』などという、おぞましい殺人事件を起こすことになったのか。
彼は一体、何がしたかったのか。
父も母ももうおらず、ただ一人残った肉親として、太一は真実を追い求めなければならないと感じた。
だから彼は、喫煙者として生きることを決め、
喫煙者として生き残るために力を欲し、
そして、
「その真実を知るために、俺には、どうしても戦わなければならない奴がいる」
太一が知る限り、彼は灰祓いで、更には最強として恐れられており、
そして彼はもしかしたら、赤丸銀次を殺したかもしれない男。
「田中太郎。俺はきっと、奴と戦うために、お前の力を使うことになる」
敵討ちとか、それ以前の話。
赤丸太一は喫煙者で、田中太郎は灰祓い。
両者が出会って、和やかな談笑が始まるわけがないだろう。
だから、力づくで田中太郎に話させる。
そしてその結果として、もしかしたら復讐のためにお前の力を使うことになると、太一は素直に告げた。
下らぬと、銀九狼は彼の喉を掻き切るか。
たわけるなと、彼の元を無情にも去るか。
意外や意外。
銀九狼は口元を大きく引き裂いて笑ったではないか。
「力と同様に記憶も一部しか引き継げなかったせいか、儂はこれまでのことなど何も知らぬが――」
瞬間、銀九狼の毛が大きく逆立ち、まるで荒々しいオーラのように激しく揺らぐ。
「田中太郎――その名を聞いた途端、儂の体がぶるりときたわッ‼」
おもしろいと、銀九狼はその怒気にも殺気にも見える気迫を纏まったまま、愚道丸の方を向いた。
「おぬしの行く末、この銀九狼が最期まで見届けてやろう」
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