第7話
「一つだけ確認しておきたいことがある」
店を出て行き先も告げずに歩きだした橙を、太一はそう言って呼び止めた。
「『煙の王』が俺の兄貴だっていうのは、本当なんだな?」
わざわざ振り返ることもせず、橙は前を向いたまま淡々と答える。
「そうだね。詳しく言えば愛煙結社の首領にして『銀月の夜』の首謀者さ」
「どうして兄貴は、人殺しなんてした」
そんなの知るかよ、と橙は歩き始めた。
相変わらずキセル街道は人でごった返していたけれど、若葉の時とは違い、橙が歩いていると周囲の人々がさり気なく道を空けるので大分歩きやすかった。
「我が物顔で歩くってのはこういうことを言うんだな」
「別に偉ぶってるわけじゃない。ただボクら彩煙座がこの一帯の管理、統括を受け持ってるから、普通より少し顔が知れてるだけさ」
少し有名なだけで、混雑した道が花道のように開かれるわけがないだろう。
奇異の目と囁くような声は橙に向けられているのか、それとも後ろを歩く太一に向けられているのか。
「お前地下室で、『銀月の夜』は首謀者である『煙の王』がとある灰祓いによって殺されたことで収束したって言ったな」
「言ったね」
「なら兄貴を殺した灰祓いはどこのどいつだ」
ピタリと、橙はそこで足を止め、そして暫し考えるかのように間を空ける。やがて彼は肩越しにこちらを振り返れば、
「田中太郎には気を付けな」
「何?」
「奴には近づくな。奴とは戦うな。奴と会ってもすぐに逃げることだけを考えろ。ボクら喫煙者が常に考えているのは、どうやって田中太郎という灰祓いを殺すことではなくて、どうすれば田中太郎という灰祓いと戦わないで済むかということなんだ」
「つまり兄貴は、その田中太郎とかいう奴に殺されたってのか?」
橙の迂遠な言葉回しを太一が端的に言い表すと、しかし彼は、さあ? と首を傾げた。
「ボクが知っているのは、赤丸銀次が田中太郎と戦ったということだけだよ。でもね、それで十分なんだ。たとえ喫魔師であろうと『煙の王』であろうと、絶対に彼には勝てない。田中太郎と戦ったという事実だけで、赤丸銀次が死んだという仮説は、ほぼ事実と等しいんだ」
だから復讐なんて考えるなと、橙は話をこう締めくくった。
「いくら兄貴だからと言ったって、あんな奴の弔い合戦なんて必要ない。それだけ奴は残酷なことをしたし、それだけ田中太郎は強すぎる」
大通りから少し脇道に外れただけで、太一たちの歩く道は人通りのない路地裏へと早変わりした。
一本道が違うだけでここまで変わるかと太一が驚いていると、廃ビルを乱立させたらたまたまできたようなか細い道の真ん中で、不意に橙は立ち止まった。
「ここだよ」
「ここに煙魔がいるのか?」
まだ夕暮れ時だというのに、辺りは薄暗く、視界はかなり悪い。人なんてほとんど通らないのだろう。街燈はあっても、とうの昔に電灯が切れてしまったらしく明かりはついていない。
唯一の光源と言えば、赤い光を放つ歩行者用の信号。横断歩道もなければ自動車用の信号もないはずなのに、その信号だけが絶えず紅く輝いている。
確かに何かでそうな雰囲気だと太一が警戒心を高めると、橙はこの場所から更に右手に延びた道の方を指差した。
「この道の果てに煙魔がいる」
「あのやばそうな信号を渡れってか?」
「青に変わるまで待つ必要はないよ。あの信号、ずっと赤のままだから」
特別車の往来が激しい場所でもないのに、太一は今になって赤信号の意味を深く噛みしめた。
――渡るなキケン‼
不気味に輝くあの紅い光は、きっとあの道の果てに何か恐ろしいモノがいることを警告しているのだろうか。
「俺一人で行けってか?」
「流石にそこまで鬼じゃないよ。薬獅子もサポートでついていってもらう」
「薬獅子? でもあの人、ここにはいないはずじゃ……」
いるはずないと思いながら何気なく後ろを振り返ってみると、
「よぉ、久しぶりだな、赤丸弟」
「――ッ⁉」
そこにいたのはヤクザ風の大男、薬獅子だった。
「ちょっ、あんた、いつの間に……⁉」
「そうビビるなよ、俺は背後から刺したりするような卑怯な真似はしねぇからさ」
と薬獅子はおおらかに笑うが、太一の中で彼への恐怖はそんなことで消えはしなかった。
(いつの間に俺の背後に……?)
今まで歩いてきたのは、太一と橙の足音がはっきりと聞こえるような静かな路地裏だ。
後ろからつけてきたのなら足音で分かるだろうし、この大柄な男が放つ異彩なプレッシャーは、たとえ姿を見なくても分かってしまいそうなほど濃い。
単純に太一がそれすらも分からないほど鈍いのか、それとも薬獅子がただ者ではないということなのか。
とにかく彼を警戒するに越したことはないだろうと太一が判断したところで、橙はここまでの話をまとめた。
「それじゃ、太一はこの道の果てにいる煙魔――愚道丸を喫むこと。薬獅子はそのサポートをするってことで、仕事を始めようか」
不気味な赤信号を渡っても、特に何かが変わった様子はなかった。
相変わらず路地裏は薄暗く小汚く、そしてか細い。最初はそんな雰囲気に恐怖を感じていたが、これから会う煙魔に比べればどうということはなかった。
「愚道丸ってのは一体どんな奴なんだ?」
前を歩く薬獅子に問うと、彼は僅かに間を空けて、
「煙魔にしては頑固というか、古臭い奴だろうな。普通、煙魔と言えばあちこちさまよって人間に憑りつきながら力を高めていくが、奴はこの道の果てで、自分に戦いを挑む者をずっと待っている。単に戦好きの奴なんだよ」
戦好き――できれば穏便に済ませたい太一にとってはあまり相性のよくない相手である。
「用心した方がいいぜ、太一。確かに銀九狼よりは弱ぇが、愚道丸はこれまで喫魔師を五十人以上殺してきた相当の手練れだ。生半可な覚悟だと一瞬で殺される」
今になって、自分の現状がいかに危険なのかを思い知った。いくら喫魔師である薬獅子のサポートがあろうとも、果たして太一が愚道丸を喫むことができるのだろうか。
喫むか喫まれるか。
喫煙者の世界を知れば知るほど、いかにタバコを吸うということが難しいかを痛感する。
「愚道丸はこの先にいる」
道の先に青白い光が見えてきたところで、薬獅子は言った。
「煙魔の喫み方は知ってるか? タバコの火の点いた方を煙魔に押し付けろ。そうすれば奴らの体は煙へと変わるから、あとは普通にタバコを吸う要領で思いっきり吸い込め」
「ああ、分かった……」
左胸に手を当てる。すると手には、胸ポケットに入ったライターとタバコの箱の感触がした。
(俺は喫煙者なんだ。煙魔を、煙を喫めなくてどうする‼)
「それじゃあ太一」
薬獅子は太一の準備ができているかを確認するかのように振り返って、
「行ってこい」
強引に、自らの前へと投げ飛ばした。
「――へ?」
一歩二歩――よろめきながら前へ出ると、そこは開けた空間だった。
前方と左右を廃ビルによって囲まれているが狭苦しい印象はなく、ポッカリと空いた都市におけるデッドスペースのようである。
妙に明るいと思えば、四隅には煌々とした輝きを放つ街燈がそびえ立っていた。
「おい薬獅子、何なんだよここはッ⁉」
振り返ってみても、彼の姿はない。
その代わり、とでもいうかのように、声。
「来たな、九十八人目の挑戦者よ」
前方。
そこには、一際強い輝きを放つ街燈が。
そしてその真下で、その輝きを一心に受ける落ち武者姿の異形。
「我が名は愚道丸。貴様にはこれから、百人斬りの糧となってもらおうぞ」
迸るは活気ではなく瘴気。
毛髪は全て枯れ果て、眼球があった場所は虚ろな空洞となっている。骨と皮だけという痩せ細った体で、上半身にはまるでミイラのそれのように薄汚れた包帯が、そして下半身には赤と黒のだんだら模様の大きな布が巻き付けてあった。
みすぼらしい身なりをしているが、右手に携えた抜き身の日本刀は、素人の太一が見ても一級品であるということは容易に分かった。持ち主の見た目とは対照的に、その刀身は一切の錆や刃毀れもなく、今にも血肉を斬らんとばかりに爛々と輝いている。
(あれを喫まなければならねぇのか、俺は……)
喫魔師である薬獅子のサポートがあればなんとかなったかもしれないが、命綱であったあの男は、太一をここに引きずり出した途端にどこかに消えてしまった。
(裏切られたってわけか)
それに気づいても、別段太一はショックを受けてはいない。
元々彼らを信頼なんてしていないし、特にあのグルグル眼鏡の男はいつかこういうことをしでかすだろうとは思っていた。
(やっぱ若葉の言う通りだな。俺の素性と予言を知ってる連中には気をつけねぇと)
せめてもの武器としてタバコに火を灯す。もしもの時は、愚道丸を喫んで強引に終わらせようという魂胆だった。
「小僧、貴様、拙者を殺しにきた喫魔師か? それとも拙者の力を求める喫煙者か?」
空気が抜けていくようなヒューヒューという掠れた音の混じった愚道丸の声からは、やはり生気や活力といったものは感じられないが、その言葉からは誰であろうと叩き切るという覚悟と自信を感じさせる。
「別にどっちでもねぇよ。胡散臭い奴らに騙されてきただけだ」
「ハッハ‼ 面白い小僧だ。迷った挙句にここに辿り着いた不幸な輩もおったが、誑かされてここに来たのは貴様が初めてだぞ」
しかし案ずるな、と愚道丸は日本刀を構え、
「拙者は特別心が広くてのう。貴様のような奴でも歓迎するぞ?」
言って一歩、まずは愚道丸が動く。
(来るッ‼)
太一に戦意はない。彼の最優先事項は生き延びることであり、そのためにここから逃げ出さなければならないのだ。
いかに実力差があったとしても、相手が本格的に動き出す前に背を向けて逃げ出せば不意をつけるかもしれない。
(だから、早く、逃げろッ‼ 振り返って……走り出せッ‼)
この空間からの唯一の逃げ道であるあのか細い道は、太一のすぐ真後ろだ。
振り返り、一歩二歩と歩みを進めればいいはずなのに、しかしそれができない。
振り返れない。
愚道丸から視線を逸らせない。
自分が目を逸らした隙に、何か致命的な出来事が起こるような気がして、単純に――怖い。
「覚悟は決まったか? 小僧」
蛇に睨まれた蛙の如く。
太一は一歩も動くことなく、愚道丸を刀の射程圏内にまで招き入れ、
「九十八人目ェ……」
一閃、遂に迸る。
★★★
橙と薬獅子は、とある廃ビルの屋上から太一と愚道丸を見下ろしていた。
「すまないねぇ、薬獅子。君に損な役回りをさせてしまって」
「オレの心配よりテメェの心配した方がいいぜ、橙。あのガキ、これがお前の仕業だって気づいていやがる」
「鋭いんだねぇ」
だからどうしたとでも言うかのように薬獅子の言葉を受け流す橙に、彼は続けてこう言い放つ。
「それと、若葉のお嬢にも気を付けな」
「……なんだって?」
橙の余裕の笑みに陰りが見える。対して薬獅子はそれを見て満足げな表情をし、
「ほら、来たぜ」
言った直後、屋上に轟音が響いた。
宙にはひしゃげた非常扉が放り出されていて、その轟音が一体何をして発せられたものなのかは、それを見れば容易に想像することができた。
「若葉、何もドアを蹴破って入る必要なんてなかったんじゃないのかな。鍵なんてかけてたわけじゃないんだし」
「あァ?」
屋上に入ってくるや否や、早速橙に殺気を滾らせている若葉に対し、彼はただ一言、ああ厄介だと呟いて困ったように笑う。
「何をそんなに怒っているんだい? 君の言い分を無視して事を進めたこと? 分かった。それなら後でじっくりとボクの考えを君に教えてあげるよ」
「後で? それは太一が死んで、もうどうしようもなくなった時のことを言ってるんじゃないでしょうね」
両者の間合いは十メートル以上離れている。当然、若葉の死ニ染メ紫の射程圏外ではあったが、橙の眉間にはピリピリとした殺気が注がれていた。
しかし彼は、
「誤解だよ」
あっさりと若葉に背を向け、ビルの下へと視線を落とした。
眼下では、愚道丸と太一の間で一方的な戦いが繰り広げられている。このままではあと数手で勝敗が決まってしまうだろう。
「何が誤解なのよ。何の力も持たない太一と愚道丸を戦わせれば、どっちが勝ってどっちが死ぬかなんて結果は目に見えてる。何の力も持たない人間を、あんたは見殺しにするつもりなの?」
橙はすぐには答えなかった。何かを考えるように、しかしその何かとはこの場にはどういった言葉が相応しいかではなく、自分の一言一句に若葉が一体どう反応するかということであり、彼は観察者のように冷徹で、しかし若干の嗜虐性も潜ませながらこう告げる。
「別にボクは太一を殺そうとしてはいないよ。ただ賭けたんだよ、彼の可能性にね」
「可能性?」
そんなのあるわけないじゃない、と若葉は鼻で笑った。
「アイツは銀九狼を喫めなかった。だから喫魔師にはなれなかった。ただそれだけなのよ。ただそれだけでしかないアイツに、一体どんな可能性があるっていうのよ」
そう、太一はただの人間だ。彼がタバコを吸ったとしても、何か特別な力が湧いてくるわけでも、従えた煙魔が出てくるわけでもない。
だから現に今、橙の眼下では太一が無残にも愚道丸に殺されようとしている。
結局は、彼の可能性なんて試すまでもなかったのかもしれない。
それでも橙は楽しそうに目を細め、
「絶対なんてないってよく言うだろう? 九死に一生、いやひょっとしたらもっと低いのかもしれない。万が一、億が一でも可能性があって、その一回が何か大きな意味を持っているのだとしたら、ボクは迷わずその僅かな可能性に賭けるよ」
まぁ見てなって、と橙は今にも太一を助け出そうとしている若葉を宥めた。
「もしもボクが言うこの僅かな可能性が当たるとしたら、この世界はきっと、大きく変わるよ」
★★★
「ッづ、アぁぁぁぁッ‼」
右肩から左胸にかけて焼けるような痛みが駆け抜ける。それでも何とか一命を取り留めることができたのは、太一の小動物並の恐怖心のおかげか。
「おいおい、寸前で逃げるなよ小僧。浅く斬っちまったではないか」
初撃で仕留められなくとも愚道丸に焦りは見えない。互いの間合いは依然として刀の届く範囲。次の一振りで決めればいいと思っているのだろう。
(まずは、奴の射程から逃れねぇと……)
思ったが矢先、早速愚道丸が刀を振り抜いた。
今度は縦。
下から上へと振り上げるような斬撃は、半身になった太一の鼻先を掠め取っていく。
「ッ⁉」
「よく躱した、良い反応だ」
遊ばれている。それが分かっていても、この状況を打開するだけの力がない。
この接近した間合い――一瞬、太一は愚道丸にタバコを押し当てて喫むことを考えたが、それは流石に無謀だと安全地帯へと逃れることを優先する。
「これも躱せるか?」
愚道丸がこれ見よがしに刀を振りかぶった。それを見た太一は、地面に身を投げ出すようにして斬撃の軌道から逃れ、そのまま転がるようにして距離を取る。
結果、愚道丸の射程圏内から逃れることはできたが、唯一の逃げ道からは遠ざかってしまった。
「逃げてばかりじゃないか、小僧。拙者が好きなのは戦であって狩りではないぞ」
「黙れ落ち武者。こっちだって生きるのに必死なんだよ」
「生きるのに必死、ね……」
ふっ、と愚道丸は静かに笑った。表情こそ変化は見られないが、その声色に、その息づかいに、明らかに侮蔑の色が見える。
「何がおかしい」
聞けば愚道丸は、またさっきと同じような笑い方をして、
「いや、貴様がこの先生き延びて一体何になるのかと思ってな。拙者から逃れ、生き延び、それでどうなる。力なき者に待つのは力ある者からもたらされる死だ」
「いつかは死ぬって言いてぇのなら、強さに限らず人間は誰でもそうだが?」
「だがその『いつか』は強さに比例する。弱き者ほどすぐに死に、強き者だけがより長く生きる」
覚悟がなっとらんのだよ、と愚道丸は言う。
「貴様の左手にあるその小さな灯火は、手にした瞬間覚悟を決めねばならんものなのだ。灰祓いと戦う覚悟。そして、我ら煙魔を喫む覚悟。貴様にはそれがない故に、世界の本性を知ったとしても尚、力ないままでいようとする」
愚道丸は片足を半歩退き、切っ先を太一に向けた。
「老婆心で言っておくぞ、小僧。この街は拙者のようなならず者が長く居つくほど、乱れ、そして荒ぶっている」
瞬間、愚道丸の姿がブレる。
(動いたッ‼)
思うと同時に太一は後ろへと跳んだ。右から来るか左から来るか、それが分からなければとにかく射程圏内から逃れることを優先するのが最適解だ。
しかし、
「ここまで言って、尚も逃げるか、小僧‼」
力強く踏み出した一歩――それが、愚道丸を予想よりも長く前へと押し進める。
「ッづあッ‼」
奔る斬撃、響く激痛。
最早どこを斬られたのかなんて気にしている暇はない。
とにかく今は逃げなければ、
この恐怖から逃れなければ、
赤丸太一は、ここで死んでしまう‼
「――これで、終いだ」
這う這うの体の太一には最早、愚道丸の斬撃を躱す術は残っていなかった。
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