第6話

 若葉に出会ったら、まず最初に助けてもらった礼を言わねばと太一は心に誓っていたのであるが、

「痛ぇな、いきなり蹴ってんじゃねぇよ。傷口開いたらどうするつもりだ」

「結果何ともないんだからごちゃごちゃ言うなよ男でしょ?」

 出会って早々蹴りを喰らわしてくる奴を命の恩人と崇めてもいいのであろうか。

 路地裏の一件から地下室にかけて薄々勘付いてはいたのだが、どうもこの百石若葉という女、生意気過ぎて一癖も二癖もありそうである。

 ツンデレ(というよりもツンツンし過ぎてただの嫌な奴)なのか、それともただのコミュ障なのかは分からないが、初っ端からこんな敵意満々では、いかに寛容な太一だとしても感謝の言葉は腹の底まで引っ込んで消化されてしまう。

 というかこの彩煙座とかいう集団、まともな奴が一人もいないのではと太一が思っていると、隣で若葉が勝手に話を進めていた。

「ってことで橙、今日からコイツは私の奴隷――じゃなくて助手ってことでいい? っていうかいい。私が決めた。そんじゃあ太一、飯に行くわよ。暫く何も食べてなかったからお腹空き過ぎて死にそう」

「オイコラ待て若葉。お前何勝手に話進めてんだ? もしやお前、助手と称して俺を奴隷扱いするつもりだな⁉ 絶対ぇお前なんかの助手になんざならねぇ。っていうか橙、お前が仕切ってんならコイツになんか言ってやれよ‼ 協調性とか微塵もねぇぞこの女」

「喫魔師って基本個人主義で利己的だからねぇ」

「ただのダメ人間の集まりじゃねぇか‼」

 そんなこんなで不覚にも、太一は若葉の奴隷、もとい助手になってしまったのである。



 キセル街道は道幅がとても狭くて、それなのに人の往来はとても激しい。

 夏祭りのようだと言えば賑やかそうで聞こえはいいが、歩いていると人に酔ってくらくらしてくる。それにあちこちで色んな人が色んな所で好き勝手にタバコを吸うので、まだタバコの煙に慣れていない太一にしてはかなり生きにくい環境だ。

「ちょっ、待てよ若葉。お前歩くの速過ぎっ……」

 キセル街道は街のつくりが碁盤の目状になっているのだろうか。道のあちこちに曲がり角があって、若葉は人の波にもがく太一を気にせず、ここを曲がって次にこっちを曲がってとひょいひょいどこかへ行ってしまう。

「あんの野郎、案内する気ゼロかよ」

 訪れたことも見たこともない街なので、ここで若葉を見失っては一大事だ。人の波にもまれながらも、必死で若葉の背中を追いかけていく。

 そうしてふっとその激しい荒波から抜けて、体が随分楽になったかと思えば、目の前にいる若葉は漸く足を止めていて、二人は何だか古めかしい、寂れた喫茶店に辿り着いていたのである。

「ここが、お前の目的の場所か?」

「そ。別に行きつけってわけでもないけど、今日の仕事場でもあるからついでにここで飯にしようかと思ってね」

 この喫茶店が仕事場ということは、若葉はここでウェイターでもやっているのだろうか。そう考えると、少し意外である。千ヶ崎と戦っていた喫魔師としての若葉を知っている太一としては、もっと物騒なことを生業なりわいにしていそうだったからだ。

「おじゃましまーす」

 中に入ると、少し苦みの強いコーヒーの香りがした。煙たさみたいなものも感じられたので、タバコの匂いも混じっているのかもしれない。

 人通りの激しい道に面しているということもあり、店内はとても賑わっていた。 外装は隠れ家的な落ち着いたデザインになっていたが、中は大衆酒場のようにひどく騒がしい。

 空いている席はないものかとあちこち店内を見回していると、偶然、手前の席に座っていた男性と目が合った。

 何となく気まずい思いをして太一が目を逸らそうとすると、その男は何か恐ろしいものでも見たかのようにギョッとした表情をして椅子から転げ落ちた。

 そして化物でも相手取るかのように太一のことを指差すと、大声でこんなことを叫ぶ。

「お、お前、その赤毛。もしかして……あ、赤丸銀次だぁぁッ⁉」

 その叫びに一瞬、店内が静まり返る――いや正確には、凍り付く。

 叫び声に驚いたのではなく赤丸銀次という名に怯えたということは、言わずとも客たちの反応を見れば容易く推測できた。

 皆同じ反応をしたのである。

 赤丸銀次という名を聞いた瞬間、ビクリと肩を震わせ、一瞬で表情を青ざめさせた。

「ああ、そうか。そういうことか……」

 太一から逃げようと客たちが席を立ち、一目散にこの店から出ようとパニックになっている中で、彼は静かに、理解した。

「兄貴が、そうだったのか」

 

 ――もしやと思いますが、お兄さんはいらっしゃいます?

 ――時に赤丸太一さん。あなた、お兄さんの銀次さんから何か預かっていたりするものはありませんか? 例えば、タバコとか、ライターとか


 灰祓いの千ヶ崎がやけに兄のことをしつこく聞いてくるなと思ったら、きっとこういうことだったんだろう。

 赤丸銀次は、『煙の王』。

 だから、『煙の王』の力を引き継ぐとされる太一に対し、兄との接触がないかを聞いてきた。

 その力とやらを、受け渡されていないかどうかを確かめるために。

 店内の叫び声はいつになっても鳴りやまず、ただ髪色が似ているだけの太一を本物だと誤解して、ここまで本気で怯えることができるなんて、

(兄貴は一体、どれだけのことをしてしまったんだろう)

 『煙の王』を兄に持つ太一がこの喫魔界にやって来たのが運命だというのなら、 彼がこの喫茶店に来たことでさえもそう断言できるのだろうか。

 この場を鎮めるでもなく店を出るでもなく、勿論太一を慰めるわけでもなく、ただ知らん顔して突っ立ているだけの若葉を見て、太一はふと、そう思った。

 


 自分がいなくなるまでこの騒動は治まらないだろうと、太一が喫茶店を出ようとしたところで、狂ったような悲鳴を掻き消すほどの怒声が店内に響いた。

「やかましぃっ‼ ギャーギャー騒ぐなぶっ殺すぞ‼」

 その一喝に、再び店内の客たちは凍り付く。

 赤丸銀次の名を聞いた時と同じくらい、いやそれ以上に彼らは青ざめた表情をし、今までパニックになっていた自分を恥じるように、その男に道を開けた。

「ちょっとアイツに似た奴が出たからってビビりやがって。煙魔を喫んだ喫魔師の名が聞いて呆れる」

 柄の悪い男だった。

 ドレッドヘアの髪型に、首筋には蝶の刺青。

 ひと昔前の暴走族が着ていたような特攻服を着ている。黒を基調としたその服には桜吹雪の意匠が施されていた。チーム名なのだろうか、背中には『夜郎衆』という金色の文字がデカデカと描かれている。

橋蝶児ハシチョウジ……」

 若葉が隣で小さく舌打ちをすると、八ツ橋蝶児は蛇のように舌なめずりをしながら、挑発的な笑みを彼女に向けた。

「よぉ、若葉じゃねぇか。ちょうどいいところにいた。3区の連中は一体どうなってやがんだ? どうでもいいことで大騒ぎしやがって静かに茶すら飲めねぇ。躾ができねぇのなら、代わりに俺ら夜郎衆ヤロウシュウが3区も管理してやろぉか?」

「黙れよ蝶児。アンタらの担当は5区でしょうが。アタシらの縄張りに入ってくんな」

 火花が散るような睨み合いを早々に切り上げ、蝶児は太一の方を向く。

「で? お前は一体何者? 髪色似てるけど、マジで赤丸銀次だったりする?」

「いや、俺は――」

 否定しようとしたところで、言う必要はねぇよと蝶児は太一の言葉を遮った。

「拳ぶつけてみりゃ、一瞬で分かっからよ」

 何をされたのか分からなかった。

 一瞬目の前が真っ暗になって、それから何かにぶつかるような音と衝撃。そして若葉が太一の名を叫ぶ声が聞こえて、痛みは最後にやってきた。

「な、なにしやがんだ……」

 顔面を殴られた――それを俄かには信じられなかったのは、全身が隈なく激痛を感じていたからだ。

「軽いな、軽すぎる。手加減して殴ったのにそんなに吹っ飛ぶとか紙かよお前」

 軽く殴って、太一の体を五メートル以上も吹っ飛ばす。無意識の内に寄りかかっていた壁を振り返ってみれば、へこみ、亀裂が走り、中央には大きな穴が空いていた。

 蝶児のことをよくよく観察してみれば、彼の口の端にはタバコが咥えられていた。恐らく彼も喫魔師なのだろう。

(っとに喫魔師ってのは、常識がねぇ奴らなんだな……)

 奇跡的にどこも怪我をしていなかったらしく、体の痛みに耐えれば立ち上がることができた。

「太一‼ ダメよ。動かないで‼」

 若葉が駆け寄って来るが太一は彼女を振り払い、胸ポケットからライターをタバコを取り出す。

「で? 分かったのかよ八ツ橋蝶児。俺が赤丸銀次なのか、いや、『煙の王』なのか」

 「赤丸銀次」だけでなく『煙の王』という単語まで出すと、再び客たちはざわめいた。

 しかし蝶児にとっては最早そんなことはどうでもいいらしく、手の関節を鳴らしながら太一に相対す。

「ああ分かったぜ。テメェがただ見てくれだけが似ている雑魚だってことはな」

「そうかよ、ならお前の目は節穴だな。どうやら俺は、『煙の王』の力を引き継いでるみたいだぜ?」

 タバコに火を灯し、煙を吸う。

 苦く喉が焼けるように痛むだけで最悪の感覚ではあったが、もしも太一が『煙の王』の力を本当に引き継いでいるのならば、タバコを吸えば蝶児と戦うことができる‼

「さっきのお返しだ」

 渾身の太一の拳。

 蝶児はそれを避けるでもなく防ぐでもなく、ただ顔面で、受け止めた。

「んだその拳は。喫魔師云々の前に、人並み以下じゃねぇか」

「――え?」

 呆ける太一の顔面に、再び蝶児の拳が突き刺さる。

 今度ばかりは流石に体が持たなかったらしく、意識は朦朧とし、体を動かそうとしても全く言うことを聞かない。

 ぶれた聴覚の狭間で拾った蝶児の声が、ぼんやりとした頭の片隅でぐるぐる回る。

「何勘違いしてんのか知らねぇけど。お前には何の力もねぇよ。ただの無力な、人間だ」

 意識と誇りを保っていられるのは、そこまでが限界だった。



「アンタ一体何考えてんのよ‼」

 目を覚ました途端、若葉に胸倉を掴まれてそんなことを言われた。

 ここはどこだと辺りを見回して、変わらず自分が店の端で伸びていたことを理解した。先ほどの騒ぎで客たちはみな出て行ったらしく、店内にいるのは若葉と太一だけであった。

 と、そんな風に周囲の状況を確認していると、私の方を見ろ‼ と今度は頬をぶたれる。

「いい? あんたは銀九狼を喫めなかったの。あんたは『煙の王』の力なんて引き継いでないの。あんたは『喫魔師』じゃないの。ただの人間なのよ‼」

 だからもう、あんな馬鹿な真似はしないで……と最後の方は胸倉を掴む手も緩み、まるで縋るように太一に訴えかけていた。

 不思議な子だと、太一は思った。

 自分の兄が『煙の王』であると悟った時点で、彼はとあることを確信した。

 それは、銀次への恨みが、太一にまで飛び火してくるということ。

 あれだけ恐れられているのならば、それと同じくらいひどく憎まれていても不思議ではないはずだ。

 そしてきっと、この百石若葉という子も銀次を憎み、その憎悪は太一にまで及んでいる。

 だから彼女は、太一を喫茶店に連れて行けばどうなるのかを理解しながらも敢えて連れて行き、そしてその結果を静観していた。

 でも、と太一はどう思う。

(どうしてこの子は、俺のことを思って泣いているんだろう)

 あのまま死ねばよかったのにとは蔑まずに、あのままだと死んでいたと本気で叱る。

 胸元で涙を流す若葉を見ていると、太一は自分の立ち位置が分からなくなる。

 いっそのこと、ただ純粋に自分のことも憎んでくれればいいのにと思うほどに。

「なぁ若葉、俺には本当に、何の力も備わっていないのか?」

 あるわけない、と若葉は太一の目を見て断言した。

「『煙の王』の力を引き継ぐということは、『煙の王』の使い魔であった銀九狼を喫んで喫魔師になるということ。でもあんたは喫むことができなかった。だからあんたは『煙の王』の力を引き継いでいないし、喫魔師ですらない」

「それならどうして橙は俺のことを彩煙座に……」

 太一が無力であることを若葉が知っているということは、彩煙座の仕切り役である橙も知っていることになる。それでも彼は太一を引き入れた。ただの無力な人間だと知りながら。

「気をつけた方がいい」

 そう言って立ち上がった若葉の涙はもう乾いていて、いつもの気丈な表情へと変わっていた。

「私が言うのもなんだけど、赤丸銀次への恨みをあんたにぶつけようとしている輩は多い。特に、あんたが『煙の王』の力を引き継いでいるって予言を知ってる奴には気をつけな」

「……ああ、分かってる」

 力は恐れを呼び、恐れは恨みを生む。太一を見ていた客達の目には、恐れの中に恨みや復讐心が渦巻いていた。

「ダメだなぁ、若葉。新入りの太一に嘘ばっかり吹き込んじゃ」

 と、そこで店の入り口から声が聞こえた。

 橙だ。

 相変わらずふざけたグルグル眼鏡をかけているが、今回ばかりは笑えない。

 不気味なのだ。

 粘着くような足取りも。

 毒々しいほど甘ったるい口調も。

 それらは全て前会った時とは何も変わらないはずなのに、今になって生存本能にまで警鐘を呼び起こさせる。

「太一、若葉の話を真に受けちゃあいけないよ。確かに君は力がない。君は喫魔師じゃない。でもそれは今までの話だ。これからは違う。大丈夫、君には可能性がある。お兄さんの赤丸銀次のように強くなる才能がある」

「何を企んでやがる」

「君に喫んでほしい煙魔がいるんだ」

 つらつらと、橙は目的の煙魔の情報を述べ挙げる。

「その名は愚道丸グドウマル。キセル街道3区、月島通りの果てに奴は潜んでいる」

 やってくれるね、と橙は太一に手を差し伸べた。

「ダメよ太一。乗ってはダメ。愚道丸はこれまで何人もの喫魔師を殺してきたのよ? あんたが喫めるはずがない」

 橙の後ろで若葉がそう主張するが、彼はうざったそうに彼女に向かって手を払い、

「ボクを信頼するしないは君の自由さ。だがどちらにせよ力が必要じゃないのか? 赤丸太一。力がなければ、君の知りたい真実に辿り着く前に、ボクみたいな悪い大人に騙されて死んでしまう。弁えなよ? 君は赤丸銀次の弟なんだ。良い意味でも、悪い意味でもね」

 橙が太一に差し出すのは、毒だ。

 それも毒は毒でも、とびっきりタチの悪い麻薬。

 欲しいんだろ? と誘いながら、奈落の底へと引きずり込む。

 乗ってはダメだと分かり切ってはいたが、太一はもう橙の手を取ることを決めていた。

「この際だ。どうせならもう、堕ちるとこまで堕ちてやろう」

 なぜなら太一はもう、タバコという毒に手をつけていたのだから。


 

 

 

 

 


 

 

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