第5話
冷たく暗い地下室にいるのは若葉と橙だけとなった。
手錠を解かれた太一がライターを拾ってお開きになったタイミングで、若葉が橙だけを呼び止めたのだ。
「本気で彼に『煙の王』の力が備わっていると思っているの?」
「ボクらのボス――マダム・シンデレラの予言は絶対さ。それに若葉、君は見たんだろう? 赤丸太一に銀九狼が喫まれた瞬間を」
「ええ見たわ。でも次の瞬間には、銀九狼は平然と私の前に立っていて、そしてどこかへ去って行った」
路地裏での出来事は、歴戦の喫魔師である若葉でも初めての経験だった。
突如、真っ白になった視界が開けたと思ったら、次の瞬間には再び辺りは白煙に覆われて、喫まれたはずの銀九狼が目の前に立っている。
「喫めなかったのよ、彼は。いえ、正確には、一度は喫めたものの、吐き出してしまった」
喫んだ煙魔を吐き出して取り逃がしてしまうという話はこれまで聞いたことはないが、最強の煙魔である銀九狼が相手であればそれも納得がいく。あの煙魔は、並大抵の常識で語ることはできない。
「マダムには悪いけど、彼は銀九狼を喫むほどの器じゃない」
つい先ほど仲間に入れたばかりの太一を散々こき下ろしにされて、しかし橙は相も変わらずその余裕の笑みを崩そうとはしない。
「何を言っているんだ、若葉。さっきも言った通り、マダムの予言は絶対さ。必ず当たる。それに彼を誰だと思っているんだい? 赤丸銀次の弟だよ?」
つまり言い換えれば、と橙は一拍空けてこう言った。
「『煙の王』の弟ってことなんだから」
★★★
先ほどまで太一が拘束されていたあの薄暗い部屋はやはり地下室にあったらしく、薬獅子に連れられて部屋を出たらすぐ、延々と階段を上る羽目になった。
「ちょっ、どんだけ長い階段なんだよ。さっきまでいた部屋は地下何階だったんだ?」
「地下32階だ」
ひぃひぃ言いながら階段を上る太一に対し、前を行く薬獅子は至って静かだ。何段上っても息を荒げることも、歩調を乱すこともない。
「っつーか何でこんな地下深くまで潜ってんだよ。いや潜ってもいいけど、それならそれでエレベーター作れ」
病み上がりにこの仕打ちはかなりきつい。喫魔師独自の魔法でも使ったのか、幸い千ヶ崎にやられた傷はすっかり治っているのだが、それでもまだ体に無理な運動はさせたくなかった。
これは新手の入団試験なのかと太一が色々勘ぐっていると、ぼそりと薬獅子は呟いた。
「防空壕って知ってるか?」
「え?」
「防空壕。穴掘っておいて空襲が来たらその穴に逃げるやつ。ほら、日本も戦時中そんなことしてたって学校で習ったろ?」
「そりゃ知ってるけど、なんでそれを今……」
これがその防空壕だからだよ、と薬獅子はぶっきらぼうに言った。
「ほんの10年前まで、俺ら喫魔師は戦争してたんだ。今は単に休戦状態なだけ。いつまた戦争が始まってもおかしくない状態だから、こうして今でもあちこちに防空壕が残ってんだよ」
恐ろしく地下深くまで穴を掘っていたのも、こんなに掘っているのに移動手段が階段のみという簡素な造りなのも、全て、敵が攻めてきたということを想定していたから。
地下深くまで逃げれば地上の爆撃は届かないし、エレベーターなんて作っても戦場じゃあてにならない。
戦争という単語が、どこか遠い国の、異国の言葉のように聞こえていた太一にとって、同じ日本人である薬獅子が平然とその単語を使っていることは非常に衝撃的で、ショックだった。
「戦争って、お前ら、誰と……」
「そりゃ決まってるだろ。灰祓い――吸わない者とだよ」
コツコツと、二人の足音だけが薄暗い階段に響く。
「まぁ知らなくても無理はねぇさな。喫魔師と灰祓いが吸う者吸わない者の代表みたいになってるけど、実際どっちも少数派だ。たまたま煙魔っていう化物を認識する特殊体質を持って生まれた異端者同士の、小さな戦争なんだから」
「煙魔が誰でも見えるわけじゃねぇのか?」
「んなわけねぇだろ。もしそうだったら、俺たち喫魔師や灰祓いが裏でコソコソ隠れられるわけがねぇ」
煙魔なんて幽霊みたいなもんだ、と薬獅子は言った。
「見えない方が幾分ましさ。吸う者にとっても、吸わない者にとっても。タバコから出てきた化物が人を殺してるなんて分かったら、そりゃ奴らだってたまったもんじゃねぇだろうし……、俺だって、簡単にタバコ吸えなくなっちまう」
歩調は全く変わらないくせにどこか項垂れるような薬獅子の姿勢を見て、後悔のようなやるせなさのような、うまく言葉にできない感情を太一は抱いた。
足が限界を迎え始めたところから、この階段は何段あるんだろうと気晴らしに500まで数えてもまだ終わりはやってこなくて、だからもう数えることすら諦めたところで、漸く終わりは見えた。
「あそこだ。あの扉から外に出られる」
「扉の向こうにもまた階段ってオチは?」
「ない。扉の向こうは『キセル街道』だ」
「え? キセル街道?」
耳慣れない単語に首を傾げる太一を放っておいて、薬獅子はまたどんどん進んでしまう。 最後の最後でおいていかれまいと太一も懸命に食らいついていくと、扉の前では薬獅子が待っていてくれた。
「よく頑張ってここまで上ったな、太一。そしてようこそ、喫魔師の街――キセル街道へ」
まるで太一を誘うように薬獅子が扉を開くと、眩い光が闇に慣れた太一の目をいっぱいに覆いつくした。
「っつ、まぶしっ」
視界は真っ白。
それでも肌ではひんやりと清々しい外の空気を感じるし、周囲からは賑やかな足音や人声が聞こえる。大通りにでも出たのだろうか。
視界も徐々に陽の明るさに慣れてきて、ぼんやりと、道行く人々のシルエットが見えてきた。
慣れ親しんだ雰囲気、ありふれた日常。
長いこと薄暗い地下室にいたせいで、外に出るという当たり前の行為が太一の心を躍らせる。
ただ、どこからかふわりと、慣れない香り。
それはほろ苦く、嗅ぐ者の鼻をつんと詰まらせるタバコの香り。
それは、太一の前を通り過ぎていくサラリーマンの男からするものか。
それともそれは、向かいの小さなアパートのベランダで煙を
それとも、それとも、それとも……。
気づけば道行く人々のほとんどが、自由気ままにタバコを吸っていた。
全国民禁煙政策が施行されているこの国では絶対に見ることができない、異質で、でもどこか気楽にも見える光景。
「喫煙自由都市キセル街道。全国民禁煙政策の適用範囲外であり、喫煙者しかいないこの街は喫煙やタバコに関して一切のしがらみがない喫煙者の楽園だ」
「すげぇ……」
人の目を気にせず、人々は自由にタバコを吸う。それだけでも太一にとっては非現実的な光景であるのに、街中には平然と煙魔たちが存在している。
雲とともに巨大な竜が空を飛び、各家の玄関ポストに翅を生やした小さな妖精が郵便物を入れていく。
「煙魔ってこんなにいたのか……」
ここまで煙魔が人間社会に溶け込んでいたのかと太一は驚くが、ここは特別だ、と隣で薬獅子が口を挟む。
「外の世界じゃタバコなんてほとんど誰も吸わねぇから煙魔が生まれるほどの煙の量も出ねぇし、生まれたとしても灰祓いがその都度駆除しちまう。その点ここの住人は全員喫煙者だし、それにこの街には大勢喫魔師がいるからな。使い魔になった煙魔があちこち飛び回っていても不思議じゃねぇんだよ」
ほえ~と薬獅子の説明に納得しながらも、そこであれ? と太一は疑問を抱く。
「外の世界じゃ煙魔は生まれにくいっつったけど、俺が路地裏で会った狼型の煙魔はどうなんだ? あいつ、俺がタバコを吸ったら普通に出てきたけど?」
「狼型の煙魔?」
耳慣れない単語を聞いたように薬獅子は首を傾げたが、やがて彼は、銀九狼のことか、と納得したように何度か頷いた。
「あいつの場合はお前のタバコの煙から生まれたっつーか、お前の煙に誘われてやってきたってところが正確だな」
「あの狼型の煙魔……あー、銀九狼ってのは、前からいた奴なのか?」
「いたも何も超有名で超最強の煙魔よ。なんたってあいつは『煙の王』の――」
と、薬獅子が言いかけたところで、
「いやはやいい天気いい天気。まことに仕事日和ですなぁ」
背後の扉から無駄に
「ちょっ、あんたいきなりなんだよ!」
「ん? 怪我の具合はどうだい太一君。彩煙座一の名医である薬獅子の治療は効いたかい?」
「あんた俺の話ガン無視かよ……」
こいつと話していると疲れる、とげんなりした太一は、改めて自分が出てきた扉の方を振り返る。
それは木造の小さな小屋に付けられた、簡素な扉であった。
防空壕を隠すためにつくった小屋にしては少し古ぼけすぎて目立ってしまいそうだが、キセル街道全体の雰囲気として、高層ビルの真横に民家があったり、そうかと思えばその向かいには大きな工場があったりと、チグハグな感じがあるので特に問題はないのだろう。
「あっ、そういえば橙。若葉は一緒じゃねぇのか? 俺、あいつに一言礼を言いたいんだけど」
「ああ彼女なら」
と橙は俺の背後を指さし、
「君の後ろさ」
「うし――ごぶぇっ!」
太一が振り返るや否や、鳩尾に重くのしかかるような蹴りが放たれた。
「な、何しやがるっ!」
胃液を戻しそうになる腹を庇うようにくの字に折れ曲がった太一を見下ろすのは、一人の少女。
透明感のある白い肌と、セミロングの黒髪。可愛いというよりもクールという褒め言葉の方が似合いそうな子だった。本人もそれを自覚しているのか、赤っぽいミニスカートに、髑髏マークのついた黒いパーカーというパンクな恰好をしている。
彼女の見た目に覚えはない。
「元気そうでなりより。お互い運と生命力だけは持っているようね」
ただ彼女の声には、聞き覚えがあった。
あの路地裏で、太一の窮地を救ってくれた黒兎にして、
「お前が、若葉だな?」
この世界に導いた喫魔師が、太一の前に立っていたのである。
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