第122話 脱出の準備
倒れているラクリマの前に、怒りをあらわにしたインヴェルノ伯が立ちふさがっている。眉間に筋が入り、目がつり上がった様は鬼のようだ。辛うじて理性を保った口調で、伯は聞く。
しかし、不気味なことに、門前に陣取った兵士たちは全く意に介していない。その兜の隙間からのぞく目は、実に冷ややかだ。
「伯の名声は我々もよく存じております。しかし、此度は陛下の命。小娘一人といえど、隠せばただでは済みませんぞ」
やはり、と晶は歯を食いしばる。あの兵をよこしたのは王だ。王はパーチェを信用してなどいなかった。
今思えば、あって当たり前の拒絶反応が少なすぎた。拒否しなかったのは、寛容だったからではない。ハナから聞く気がなかったのだ。あの場の誰よりも最初から目を瞑って完全拒絶し、パーチェを嘘つきとして糾弾したくてたまらなかったのは、王だったのだ。
だが、その真の姿を見せるわけにはいかない。仁に厚い名君が、感情にまかせて少女を罵るなどという正視に耐えないことをしては、臣下に不安を与える。だから闇討ちして、後からさんざん悲しんでみせるつもりだった。そんなところだろう。
しかしそれでも、パーチェならともかく、伯を捕らえるのなら相当な理由が必要に違いない。王に突然それを決意させたのがなんなのか、晶には分からなかったが、
──なら、自分がやるべきことは一つだ。
兵士の注意は、インヴェルノ伯に向いている。晶は使用人ですという顔で移動して、ラクリマを物陰へ運んだ。ちらっと門の方を見て、こちらに視線がないことを確認してから口を開く。
「……起きてますよね?」
「ええ。全く、優しさの欠片もない連中です。受け身をとらなかったら死んでいましたよ」
「良かった」
ラクリマは瞼を持ち上げる。やはり、寝ていたのは演技だった。それでも、晶は安堵で涙が出そうになる。
「追い返せそうですか?」
「できたらとっくにやっていますよ。卿はあくまで臣下の立場です、これをはねのけるのは難しいでしょう」
交戦できてもわずかな間、間もなく家捜しが始まるだろう、とラクリマは向こうをにらみながら告げる。晶はそれを聞いて唸った。
「パーチェはどこに?」
「急は告げてありますので、脱出の準備中かと」
「脱出?」
「あちらをご覧下さい」
ラクリマは横手を指さした。使用人たちが、日の当たる場所で木箱をいくつも馬車に積んでいる。
「あれは、書物を運ぶ定期便です。きちんと許可も受けていますよ」
ラクリマが晶の考えを見透かしたように言った。
「紙も貴重ですし、中の情報はそれこそ世の宝なのですが……運搬人たちは、あまり興味がないようで。まあ、いつ見ても同じようなものではつまらないでしょうね」
ラクリマに言われて、晶はぴんときた。いつも同じ中身。いつも同じ仕事。ということは……
「あんまり真剣に点検しませんよね。あそこが抜け出す隙になる」
晶が言うと、ラクリマが白い歯を見せて笑った。どうやら、正解のようだ。
「箱は小さいですが……パーチェなら入るでしょう。でも、窒息しません?」
「ちゃんと空気穴をあけた物が、台車と一緒に彼女の部屋に置いてありますよ。ここまで持ってきてください。急がないと、積み込みが終わってしまいます」
「分かりました」
「……若者に忠告です。彼女が入っていることは、作業員たちは誰も知りません。情報漏洩を防ぐためです。港で検閲に引っかかっても、彼らは頼りに出来ないと思ってください」
晶はうなずいた。
「かわりといってはなんですが、この前行った賭場の主人に協力を頼みました。彼に会ったら、指示通りに動いてください」
言い聞かせる口調で、ラクリマはさらに語った。
「ゆめゆめ油断なさらぬこと。少なくとも……」
息を詰める晶を、ラクリマは指さした。
「その変な服のままで、往来をうろうろしないように」
晶はそこではじめて、自分が制服を着たままだったことに気付いて唸った。
「アキラ、外はどうなって……って、何。その変な服」
屋敷の一階、その奥にある比較的小さな客室。大きな廊下から外れて、どの通り道とも直接接していない部屋に、パーチェはいた。
彼女は晶を見るなり、顔をしかめた。
「そんなに変かな、ブレザー……」
「まあいいわ、服のことを言ってられる状況じゃないし。ここに来た用件は何?」
「ラクリマが怪我をした。僕が港まで君を連れて行く」
晶が言うと、パーチェは黙って口唇をかんだ。ラクリマには世話になっていたのだろう、悔しい思いが伝わってくる。
「道、間違えないでよね」
それでも彼女は、すぐに立ち直った。
「念のために聞いとくけど、あの蝶の姿になってみたら? あれなら絶対ばれないよ」
晶の問いに、パーチェは首を横に振った。
「無理よ。自分で意図したわけじゃないんだもの」
自力で逃げられる可能性はなくなった。晶は室内に目を走らせる。
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