第120話 雇い主の女難

 なぎは指を唇に当て、予言者めいた顔をしながら言った。


「遠からずことが動く。俺も動くが、八方うまく納める自信はない。せいぜい息の根を止められんよう、頑張れよ」

「ご武運を」


 凪は不穏なことを言う。悪知恵の回る彼には、これも珍しいことだった。


 不安はあったが、パーチェをラクリマに託しあきらたちは立ち去った。これでしばらくは安全だろう。


 二人きりになってから、街の定食屋で思い切り飯をかきこむ。晶は昨日のことがまだ恐ろしく、焼いた肉は口に出来なかったが、凪は気にした様子もなく豚の丸焼きをばくばく食べていた。


「よく食べられるね……」

「あれとこれとは別物だ。どうしても気になるなら、清めの塩でもふっとけ」


 晶はその言い分に呆れて、のろのろながらも肉を口につめこんだ。


 腹がふくれてから、早馬を飛ばして来た道を戻った。焼け落ちた木々、それにすっかり灰になった下生え。それが、火勢の激しさを物語る。晶たちはその合間を進むことになった。


 できるだけ大股で進み、転がっている黒焦げの死体や所々に出ている白骨は、努めて見ないようにした。


 しかし凪は時々足をとめ、焼け焦げた装備の残骸にじっと目をやっていた。焼き肉のことといい、晶は時々この人の神経が信じられなくなる。


 焼け焦げの匂いがする中を急いで進むと、幸いにも見慣れた光があった。魔方陣だ。不思議な陣は無事だった。すすけて、いがらっぽい空気の中でも変わらず、黄金の輝きを保っている。


「あ、黒猫」


 そして陣の側で、黒くてでかい猫が香箱座りをしていた。朝の光の中で、前触れもなく現れた黒い猫は不思議な存在感を放っている。


 晶たちが近づくと、彼は風で灰を舞い上げながら大あくびをする。


「遅かったじゃないか。しかしここは嫌な匂いがするねえ、魔法を使わなければいられたものじゃない」


 いきなり現れてこの言いぐさである。肝が太い猫だ。


「てめえ、いい度胸だな」

「ストップ、ストップ。何か理由があるのかもよ?」


 憤慨して殴りかかろうとする凪を、晶は止める。


「助けにも来ず、どこで何してやがった」


 拳を空中でとどめた凪が聞いた。


「君たちのことは見てたけどねえ。風で火は消せないから。まあ、行き止まりに捕まったら吹き上げてあげようかなと」

「最初からそれやってよ!!」


 晶は本気で怒った。凪が無言で拳を打ち下ろし、猫がふっとんだ。


「で、罪滅ぼしにお迎えってか?」

「おお、痛。それもあるね──でも、本題は別」


 黒猫は重々しく言葉を切る。彼の目が、きらっと光った。


「釘をさしておこうと思ってね。やりすぎないように」

「問題ない」

「うまくいけばの話だろう」

「いかせるさ」


 凪と黒猫は、短い禅問答のような問いかけをする。何かを背負っている様子の二人はしばらく、そのままの姿勢でにらみあった。


「……なら、ひとまず君に任せるか」


 先に折れたのは、黒猫だった。


「おう。猫は猫らしく、とっととそこからどけ。晶が帰れないだろ」


 話の内容には目をつぶって、晶は聞く。


「凪は一緒に来ないの?」


 凪は固い表情のまま、しっかりうなずいた。


「晶。近いうちに戻る。それまでの間、できるだけパーチェの様子に気をつけていてくれ」

「分かった。そっちも気をつけて」


 凪が魔方陣から離れ、手近な石に腰掛ける。軽く背中を丸めたその姿は、誰かを待っているようだった。


「万が一俺に何かあったら、美形で慎み深く高潔、しかし金儲けはうまい男だったと触れ回るんだぞ」


 晶は雇い主を一瞥してから、うなずいた。


「分かった。美形で欲深くゲスい、借金だらけの店主のことは忘れないよ」

「あっ、てめえ」


 凪に捕まえられる前に、晶はその場を逃げ出し、陣に入っていく。


「あら、お帰り」

初穂はつほさん、本当にありがとうございました」

「あんた何そのボロボロな服。凪は一体なにさせてるのよ!?」


 険の混じった声を吐く初穂に頭を下げ、晶は言い訳に終始した。しかし火事に巻き込まれたことを白状してしまい、結局初穂を激怒させてしまった。


「へえ……あいつ、辰巳たつみ先輩の息子をそんな目に……いい度胸じゃない。帰ってきたら、たっぷり遊んであげないとね」


 拳をバキバキいわせる初穂を前に、晶は力なく立ちつくしていた。




 自宅で一晩寝ると、頭がすっきりした。そのままの姿勢で、晶は考えた。


 凪に頼まれたことは、やりとげなくてはならない。できることならずっとパーチェの様子を見ていたい。だが、地図は大きすぎて学校に持って行けない。一度挑戦しようとしたら、黒猫が見たこともない顔になったので諦めた。


「……あ、そうだ」


 晶は体を起こす。学校に遅刻の連絡を入れてから、自転車に飛び乗った。


「おや、坊や。何しに来た?」


 あいかわらず貫禄のある萩井はぎいが出迎えてくれる。彼女は破顔し、また研究室に入れてくれた。アポもとっていないのに、寛大な対処を受けて晶は感激した。


「で、凪は? とっととくたばった?」


 この人もなかなか容赦がない。凪と馬が合うだけのことはある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る