第118話 生きているから恥がある

 まだ混乱と興奮のさなかにあるカッペロが犬のように体を左右に震わせ、水分を振り払った。あきらは腕の力が限界になっていたので、それで振り落とされて川の中へ落ちた。


 全身が川の水に潜ったが、もがいているうちに足がつくことに気づいて晶は立ち上がった。髪や体からぽたぽたと水滴が落ちている。


「な、なんとか助かった……」


 晶はしばし呆然としてから、大きく息を吐く。あの呪いのような炎も、ここまでは追ってこられない。


 その安堵の声を聞いたように、長い髪を顔にべったり張り付かせたなぎが水の中から出てきた。


「生きてるか。晶、蜥蜴ども」

「はあい」


 晶は返事をした。カッペロたちは返事の代わりに、尻尾で水を巻き上げる。


「ダメ、まだ正面に火があるわ!」


 しかし、パーチェが恐怖の声をあげる。確かに前方を、橙色の炎が行ったり来たりしている。晶は瞬きをし、とっさに持ち物の袋を抱えた。


 しかし目の前にある炎は、さっきと動き方が違うように感じる。


「向こうのあれは、野火じゃない。松明だ」


 凪が言う。その言葉を信じ、河原を登って近寄ってみると、そこにいたのは農民たちの集団だった。確かに、手に手に松明を持っている。


 話を聞いた凪によると、隣の村へ使いに出していた若者が帰りに山火事を見たらしく、こちらへやってこないか様子を見に来たということだった。


「心配するな、川を超えてまでは来ねえよ。どっちかというと、神経使わないといかんのは隣村の方だな」


 凪が言うと、伝書鳩を飛ばそうかと村人たちは騒ぎ出した。彼らは兵士たちのことは何も知らないらしく、晶たちに襲いかかってくるような様子もなかった。


「パーチェ、あれは敵じゃない。地元民だから詳しいだろう。街への道を聞くぞ」

「分かったわ」


 今頃になって晶は寒さで歯の根が震えてきた。川に落ちたこともあるだろうし、くっついていたパーチェがいなくなったのも大きい。できることならあっちの世界に帰って、自分のベッドでゆっくり眠りたい。


「……陣、無事かな」

「見に行くわけにゃいかないだろ。今夜はこっちで休むぞ」

「うう……」


 うめいてみても、陣を通り抜けなければ元の世界には戻れない。晶はため息とともに硬い足を動かした。




 幸い、村の宿はあいていた。ぼろぼろになってあちこち裂けた防火服を手荷物にしまい、手足を引きずるようにして晶は床へ歩み寄る。


 部屋はがらんとして寒かったし、ベッドとは言えないほど固くて冷たい寝床に臭い布団であったが、疲れもあって晶はすぐに眠りに落ちる。


 次に晶が聞いたのは、馬の蹄の音だった。


「──ん……何?」


 自分がいたのはテンゲルだったろうか。おぼろげな意識の中で、今までの記憶を辿る。


「ピキ──ッ」


 甲高い鳴き声で、晶は我に返った。そうだ、自分は山火事にまきこまれたのだ。


 晶は上掛けをはね飛ばして起き上がる。既に朝日は昇り、丸裸になった山の方が窓から見えた。あそこにあった死体はどうなったのだろう、と考えてしまい、晶は身震いする。


 昨晩のうちに寝床にもぐりこんだのか、カッペロの子供が晶の頬をなめていた。晶が手をさしのべると、小さな体がおとなしく抱きとめられる。相当なつかれてしまったようで、着替えの際も散々邪魔してくれた。


「起きたか」


 なんとか晶が準備を整えて部屋を出ると、凪が宿の細い階段を降りてきた。


「じゃ、出発するぞ。その蜥蜴も親のところに帰さないといかんし」

「お腹すいたなあ……」

「街に着くまで我慢しろ。そしたらいくらでもおごってやるよ」


 凪はそう言ってから、ふと振り返った。


「その前に、お前パーチェを起こしてこい」

「なんで僕が」

「俺はあいつが嫌いだし、あいつも俺を嫌ってる」


 ためらいなく言われると、晶は言い返せなかった。晶の部屋の隣が、確かパーチェの部屋だったはずだ。


 ノックして入ったはいいが、入り口で晶は立ちすくんだ。窓の鎧戸は閉められていて、奥は暗い。それになんとなく、恐れ多い感じがする。蝶の姿とはいえ、寝ているのは女の子なわけだし。


「パーチェ、起きてる?」


 晶はライトで奥を照らしながら聞いた。


「ん……」


 パーチェの声とともに、空気が震えた。動き出した、むき出しの足が目に入る。パーチェはいつのまにか人間の姿に戻って──真っ裸のまま、布団の中にいたようだ。……確かに、昨日の夜に彼女の服は燃えてしまったわけで。着替えなんて持ってないわけで。


「ああ、アキラ。おはよう」


 彼女が体を起こす。晶は決定的な光景を見る前に、あわてて壁の方を向く。


「なに? 私の顔、そんなに変?」

「い、いや!? 僕はそんな、君を見ようなんてそんなつもりじゃ──」


 晶の口からとっさに言い訳が零れでた。


「おかしな晶。着替えがないから、宿の人に頼んで欲しいんだけど」

「う、うん。凪は出発の準備を始めてるから……終わったら外に来てね」


 警告でも怒りでもなく、不思議そうな声を発するパーチェに頭を下げて、晶はそそくさと部屋を出た。


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