第116話 最大のピンチ

「資料はなくなっても、諦めないわ。約束よ」


 握ったパーチェの手に熱がこもる。あきらもその意気に応じ、強く握り返した。


「さ、行きましょ。この後どうするかは決めてるの?」

「山を降りて、インヴェルノ伯に保護を求めるか。この刺客が誰にせよ、あの現実主義者の差し金とは思えないからな」


 あれだけ金に執着するなら、パーチェを見捨てて殺すようなもったいないことはしないだろう。晶も同意し、一行は山の下へ向かい始めた。


「くぴー」


 すると、カッペロの子供が晶の服の裾をしきりに引っ張る。


「どうしたの?」


 晶がいくらなだめても、子供カッペロは執拗に体を晶にすり寄せてくる。その間にも、強風が体を容赦なく冷やしていく。冬と言えるほど寒くないが、このままでは風邪をひきそうだ。


「寒いのかな? ああでも、毛布みたいなものは持ってこなかったよ……」

「待てよ……刺客に火、そして雨がなく、風が強い天候……」


 じっと周りを見ていたなぎがぶつぶつとつぶやき始めた。晶とパーチェは、訳が分からずそろって首をひねる。


「どうしたの? まだ何かいるの?」

「まずい。早くこいつらに乗れっ」


 苦い顔になった凪がせき立てる。説明もないまま、晶たちはカッペロのたくましい体をよじ昇った。


 凪は右手と足で器用に登り、反対側の手で子カッペロまで抱えている。晶たちはちょうど二枚の背びれに挟まるようにして座り、カッペロにしがみついた。


「しっかり捕まってろよ、落ちたら拾ってやれないぞ!」


 これまでぼうっとしていた凪がやけに殺気立っている。また追っ手が来たのだろうか。晶はヒレの間から、後方を覗く。


 すると、そこに恐ろしいものを見た。赤い炎と、それにあぶられて黒く焦げた人間だ。一人や二人ではない、死屍累々の光景。晶の体に戦慄が走り、喉から、ひ、ともえ、ともつかない奇妙な声が漏れた。


「馬の蹄の跡がある。騎馬の連中だけ先に逃げて、こいつらは間に合わなかったのか……」


 何故炎が外にまで広がっているのか。何故こんなに人が死んでいるのか。そういう大切なことを考える前に、晶たちの肌を焦がそうとするように、炎が迫る。パーチェが小さな悲鳴をあげ、晶の体にしがみついてきた。


「走れっ!」


 追ってくる炎を背に、凪の怒号が飛ぶ。言葉を理解しているカッペロたちが、全力で走り出した。


 逃げ惑うカッペロたちは、山を降りていく。道は狭い。木々にぶつかるのも気にせず、それを押しのけて彼らはひたすら下へ向かった。最初は落ちてくる枝を払おうとしていた凪だったが、大量の切り傷を作って早々に諦めていた。


 風がうなる。まるでそれを食べているかのように、闇の中で赤い炎はいっそう勢いを増した。


「くそ、風のせいで火勢が衰えねえ!」


 敵意をむき出しにした人間のように、すさまじい勢いで山肌を駆け下りてくる。その光は月さえも凌駕し、辺りは昼間のように明るくなった。


 魔方陣まではカッペロの足なら大した距離ではない。しかし、今や地面を這う炎のせいで、陣の光など全く見えなくなっていた。晶たちは絶対的に不利と分かっていながら、ひたすら炎の追っ手から逃れなければならない。もちろん、雨の気配など全くなかった。


「あいつら、まさか外にまで放火してたのか……僕たちを逃がさないために」


 気づけなかった自分が情けなくて、晶は唸り、白くなるまで拳を握った。


「いや、意図してやったことじゃない」

「だって、あいつらしかいないよ」


 晶に反論されて、凪は顔をしかめた。


「終いまで聞け。意図的にやってんだったら、火にまかれて死んでる歩兵がいるのはおかしい」

「あ」


 凪は低い声でささやいた。


「恐らく、原因は風による飛び火だと思う」


 襲撃者たちは館にしか火を放たなかった。しかし火の始末をきちんとしていなかったり、火事の際に強い風が吹くと、残っていた火の粉がそれによって運ばれることがある。


 そして落下地点に水気がないと、そのまま広がっていく。ゆえに、遠く離れた場所がいきなり炎上する羽目になるのだ。


「じっと外で待ってた奴らは、それに巻き込まれたんだ。山火事の炎の速度は、毎分数百メートルを超えることもあるからな。徒歩じゃ追われたら逃げ切れない」


 凪の言う通り、火はますます勢いを増して迫ってくる。風に混じって聞こえてくる不吉な燃焼音、そして木が倒れる音。晶は何度も生唾をのみ、後ろを見ないようにした。果たして、燃えるもののない岩場まで逃げ切れるだろうか。


 カッペロは何かに憑かれたように走りまくっていた。凪は顔をしかめて、前方の暗闇を見ている。


「何をしようとしてるの?」

「進む方向を決めなきゃな。今のところ、カッペロは自己判断で走ってる。俺も指示せず任せているが、崖に落ちたり袋小路に入ったら俺たちだって生き残れない。ああなるんだぞ」


 凪が指さす少し後ろの地点には、全身火だるまになった騎兵と馬の姿があった。崖の前の窪みに馬が落ち込んだところへ、炎が襲ってきたらしい。


 炎熱地獄の中で声もなくもがく彼らを、晶たちはただ置いていくことしかできない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る