第115話 思わぬ影響

 その方向へ突進した。何かを蹴り飛ばして、小さく舌打ちをする。窒息しそうになりながらも闇雲に伸ばした手が、落ちていた鉱石眼鏡に、そしてその隣の柔らかいものに触れる。


なぎっ、……ゴホッ、凪!!」


 あきらは叫んだ。パーチェの体は温かいし、動いている。間に合ったのだ。


 凪はすぐに来て、わずかにうめくパーチェを抱いた。晶は鉱物眼鏡を拾い上げる。


 床がたわみ、棚の上から落ちてきた小物がばらばらと晶たちの体を叩く。もうここに用はない。晶がそう思ったのと同時に、黒煙が追いかけてくる。どちらからともなく、二人は走り出した。来た道をひたすら、逆に辿る。


 炎が見えないのに、晶の全身がちりちり熱い。凪の声すら、聞きづらくなっていた。


「なんでこんなに床がきしんでるの!?」

「下から炎が来てるからだ! 床が焼けて抜けるぞ、ぼさっとすんな!!」


 凪が怒鳴った。晶はあわてて入ってきた窓から身を乗り出し、梯子を下りる。外の風と空気がこんなに心地いいと思ったことはなかった。


 次いで、凪がパーチェを窓から投げ落とす。蜥蜴が大きなヒレを広げ、クッションのように落ちてきた彼女を受け止めた。


 晶は凪の方を見やる。凪の後方から火柱があがり、真っ赤な火が室内を埋め尽くした。そしてその火が、凪の背中にうつっている。


「凪!」


 晶は驚愕の声をあげた。凪が今にも倒れるのではないかと、急に不安になる。


「ああ、くそっ!」


 凪が怒鳴りながら、窓枠に取りつく。


「凪も飛んで!!」


 考えている余裕はなかった。凪は空中へ身を躍らせる。大人一人分の体重でも、蜥蜴のヒレはゴムのように、被さるようにして受け止めた。凪は蜥蜴の背中を転がり回って、なんとか火を消す。


「……ひどい目にあった」


 凪の声がする。彼は激しく身を震わせていた。今度ばかりは、傍若無人な店主にもこたえたようだ。晶はようやく、自分の手足を、焦げた洋服をまじまじと見つめる。


「生きてる」


 全身を冷たい風がなでると、さっきまでののぼせが嘘のように消えていく。晶の体が急に冷えてきて、何度もくしゃみをした。


「……ん」


 その音がうるさかったのか、パーチェが目を覚ます。


「……なにが起こったの? ここは天国?」


 パーチェは半目のまま、首を回す。まだ意識がはっきりしないようだ。


「おい、しっかりしろよ」


 熱でぼさぼさになった髪を整えながら、凪が言う。パーチェはじっと声の方を見つめた。


「……やっぱり、違うわね。天国ならこいつがいるはずないもの」

「何だと。このちんちくりん」

「うっさいわね、詐欺師」

「ああ、また始まった」


 晶は天を仰ぐ。しかしとにかく、パーチェが元気で本当に良かった。忌まわしい記憶がトラウマになっていたら、どうしようかと思った。


「ぐるる」


 またカッペロがうなる。彼らの目は、闇の中に向けられていた。そして程なくして、のしのしとその中へ行進していく。闇の中から悲鳴と殴打の音が聞こえるまで、そう長くはかからなかった。


「おうおう、もっとやれ」


 晶たちが様子を見に行ってみると、また黒鎧がたたきのめされていた。どうやら、様子を見に戻ってきていたらしい。


「ねえ、こいつらはどうするの?」


 晶が言うと、凪とパーチェはようやく喧嘩をやめた。


「……とりあえず、今すぐ一発殴らせて」


 息があがっているのに、パーチェの気が強いのは相変わらずだ。


「もうのびてるよ。それより、今のうちに身元をつきとめないと」


 殺されかけたパーチェは、怒りがさめやらぬ様子だ。凪はもう少し落ち着いている。


「こらえろ、馬鹿。今、こいつらの所持品は少しくすねたが、詳しいことはここじゃ分からない。さっさと隠れた方が賢いぜ」


 言われてみれば、その通りだ。


「なるほどね……ナギの案ってのが気にくわないけど、そうしましょ。もうすぐ家が倒れるかもしれないし」


 パーチェはそう言い、振り返る。そして炎の塊になった自宅を、はじめて正面から見つめた。


 晶はもちろん、凪もどう声をかけたらいいのか分からずにいる。


「大事な本だけでも、今後のために持ち出せればよかったけど」


 しばらくしてから、パーチェはぽつりとつぶやいた。


「無理だったのよね。足音を聞いてすぐ、隠し戸棚に潜ったから」

「それで良かったんだよ。見つかってたら、どんな目にあってたか分からない」


 晶がはげますと、パーチェがこちらを凝視してくる。異性に見つめられて、晶は口ごもった。


「えと……」

「ありがと。取り残されてた私を助けてくれて。二人ともだけど、特に晶」


 晶は、思考が混乱してきた。


「ほとんど凪のおかげだよ? 僕は全然……」

「そういう意味じゃなくて。晶、言ってたでしょう。研究者が死なない限り、研究は終わりじゃないって」


 パーチェはそう言って、笑いながら晶の手を取った。


「それを聞いてなかったら、私はもっと本や機材に執着して──近付いてきた奴らに殺されてた」


 不審な男たちが部屋に踏み込んできたのは、パーチェが隠れたほんの数秒後だという。まさに、とっさの判断が生死を分けたのだ。

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