第112話 蹂躙の序章

「発表者は実際にその菌を飲んで、自分の説が正しいと証明しなければならなかった。それでようやく風向きが変わったってわけだ──笑えるだろ、これは中世でもなんでもなく、たった四十年前の話だぞ」


 あきらはその近さに、息をのむ。二重にショックな話だった。


「人間ってのは、残念ながらあんまり進歩しない生き物だな。何十年学んでも、新しいものには馴染まない。どこか外から来た人間がいて、初めて風穴があくのかもしれん」


 なぎはだるそうにソファに転がりながら続ける。


「そう考えると、黒猫が再び地図を作った気持ちも分かるな。俺たちが世界を変えるとまでいかなくても、そのきっかけになってほしかったんだろう」


 良い物がすぐに脚光を浴び、表舞台に立てるわけではない。その芽を逆風から守り、徐々に賛同者を増やしていける息の長い支援が必要なのだ。


「英雄じゃなくて、その守護者が欲しい──か。分かる気がする」

「さて、これで王の興味も底をついたはずだ。さし当たっての問題は、最後にパーチェがどうなるかだ」


 晶はうなずいて、地図に見入った。もし万が一のことがあれば、また割って入る覚悟はできている。


「……よく分かった。皆、そこまでだ」


 王が制止をかける。その顔には意外なことに、穏やかな笑みが浮かんでいた。


「言いたいことは多々あろうが、勇敢な彼女は全てを公開した。彼女の父が正気であったとは言いがたいが、私は許そうと思う」

「しかし、陛下っ」

「何も今すぐ、オーロに与えようと言っているわけではない。研究の不完全さは、彼女自身が認めている。今後の展開に期待したい」


 寛大な言葉をかけられて、パーチェの頬にわずかに赤みがさす。インヴェルノ伯は、相変わらず拳を握っていたが、晶はなんとか切り抜けたことに安堵した。


「パーチェよ。もう少し、精進を重ねてから来るのだな」

「は、はい。ありがとうございます」


 パーチェが慌てて返事をし、より深く頭を下げる。王との謁見は、ここで終わった。傷ついた表情の彼女と伯が王宮を出るのを見届けて、晶の胸に安堵が広がる。


 しかしその思いの中に、ほんの少しだけ割り切れないものが混じっていた。そのわずかな引っかかりが、晶を苦しめる。学者たちの言い分が理不尽だったからだろうか? 一から作戦を練り直さなければならないからだろうか? 


 いや、それは違う気がする。感情をうまく言葉にできなくて、晶は宙をにらむ。すると、凪が不意につぶやいた。


「……明日、予定あるか?」

「ないよ」


 そう答えた晶に対し、凪は険しい顔で言った。


「じゃあ、ここに泊まれ。明日は一緒に、異世界に行くぞ」


 晶は身を震わせた。あちらの世界で、日常が途切れ、何かが起ころうとしている。それだけは確かだった。




 次の日の夜、晶は凪から一着揃いの服を支給された。


「……凪、これ何?」


 紺色の服はえらくごわごわした素材でできている。厚手の服を羽織り、晶はため息をもらした。


「防火服。お前の身を守るためのもんだよ。三層構造、高かったんだぞそれ」

「どこで手に入れてきたの、こんなもの……」

「聞くな。その下に着てる服は合成繊維じゃないだろうな」

「大丈夫だよ。でも、戦にでも行くの?」

「似たようなもんだ。……最悪の事態なら、必要になる。カタリナへの言い訳は黒猫に任せたから、お前も絶対にしゃべるなよ」


 凪の答えに不安を感じつつ、晶は考えを巡らせた。何が起こるかわからないなら、晶もできるだけ準備した方がいい。色々、普段は持っていかないものを携えて、魔方陣をくぐった。


 前と同じ場所に出た。ここからパーチェの屋敷まで、歩いて三十分くらいだろうか。


 月が出ている。夜が深まっているため、空気が冷たく澄んでいた。ピンクの岩も月の青い光を受けて灰色っぽくくすんで背景にまぎれている。日中とはまるで違う、神秘的な眺めだった。


「パーチェに会いたいの? それなら、もっと屋敷の近くにすればよかったのに」


 凪は答えない。晶は困ってしまって、何の気なしに岩に手をついた。


「え、何?」


 突然ぬるっとした液体が手に絡みつき、晶は声をあげる。雨にしては粘り気があるし、生臭い。おそるおそる自分の手を見つめた。暗がりの中でも、血でべったり汚れているのがわかる。


「……っ」


 大声をあげそうになるのを、辛うじてこらえる。臆病者とは思われたくなかったし、この犯人がまだ近くにいるかもしれない。


 凪が無言で、水で濡らしたタオルを渡してきた。それで手をぬぐいながら、晶は周りを見る。


 折れた枝、踏み荒らされた大地、そして閉所に追い詰められて首を切り裂かれたり、頭を割られたカッペロの死体があちこちにあった。その転がる死体を検分しながら、凪がつぶやく。


「切断面に、無駄なためらい傷はない。一撃だな、少なくとも兵士級に訓練を受けた奴に、次々やられてる」

「一体、誰が……カッペロたちと戦ったの?」

「わからん」


 凪は短く言って首を振った。

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