第111話 この世の理不尽
男たちの中でも、最年長と思われる者が言われるままに歩み出た。年はとっていても、背中に針金でも入っているかのように姿勢がよく立ち振る舞いに隙がない。この男がリーダー格なのは疑いようがなかった。
「読ませていただきました。私、三十年は医学に携わっておりますが、こんなに吐き気がした書物は久しぶりです」
フレッドは、パーチェに向かってノートの束を放り投げた。あまりにあけすけに言われて、パーチェが息をのんだ。晶も期待が吹っ飛び、思わずフレッドの顔を二度見してしまった。
「生きた動物の腹を切り裂き、その中をかき回す。それだけでもおぞましいというのに、さらに臓物を煮出したなどと!」
フレッドは、そこまですることないだろうと言いたくなるほどのオーバーリアクションで、体をよじる。
「あまりにも認められぬ博士は、気が狂ったのだろう。理性がある人間が、あんなことを言うはずがない」
「同意します。汚らわしいものを、王太子様になど与えられるわけがないでしょう。おお、恐ろしい」
「普通の人間に、こんな所行ができるわけがない。あれは、本当の治療法を知らせまいとする偽書なのでは?」
「この娘は、今すぐ首をはねるべきです。そしてインヴェルノ伯にも、何らかの処罰が必要でしょう」
学者たちはフレッドの報告に満足した様子で、次々と尻馬に乗り始めた。意見がまっぷたつに割れるどころか、全面的に責め立てられてパーチェの顔が蒼白になった。
あれだけ実験した結果があるのに、まるで信じられていない。晶はその事実になによりも動揺した。
こいつらはどれだけ偉そうなことを言っていても、今まで何の成果もあげていないのだ。それなら、自分たちが間違っているかもしれないと思い、パーチェの説も検討してみるべきだろう。なのにこのオッサン共はひたすら「汚らわしい」だの「信じられない」だの、感情論しか言わない。そっちの方が、どんな頭脳をしているのか。
「おい、顔が真っ赤だぞ」
「……こうなるって分かってたの?」
意外にも
「ああ。サリーレ博士とパーチェの理論は進みすぎてる。凡人の脳味噌じゃ、理解できない。与太事にインヴェルノ伯が乗って恥をかいた、くらいにしか思われないさ」
脅威に思われなければ、大鉈を振るわれることもない。その理論に納得しつつも、晶は腹が立っていた。
「この人たち、いいトシしてなんでこんなに馬鹿なの」
「唸るな唸るな。怖がってるからさ」
晶がむくれると、凪があっさり答えた。
「怖い? 何が?」
「今までやったことない、知らなかったことに手を出すのがさ。常識に従っていれば、怪我することも火傷することもない。上手くいかなくても、自分の生活がつつがなく過ぎればそれで満足だ──若い頃ぐずぐずしてて、下手な年の取り方をしたオッサンによくある思考だよ」
凪の舌は全く容赦がなかった。
「……僕、こっちの世界に生まれてよかった。データがあれば、みんなが納得してくれるもの」
晶が嘆息しながら言うと、凪が苦み走った表情になった。
「そうとも限らん。こっちでも、オッサンたちを笑えないことが時々起こる」
「似非科学とか?」
確かに、「ありがとう」で水の結晶が変わるだの、水素水が体にいいだの眉唾ものの話はいくらでも出回っていた。凪はよく、そういう特集に悪態をついている。
「ああ、それは完全にアホの所行だから無視しろ。悲しいのは、専門家同士のあげつらいだ。正しいことを言った奴が業界から見捨てられるなんて、ままあるこった」
晶は自分の耳を疑った。自分が目指す研究者という立場の人々は、何よりもデータと科学性を重んじると信じていたからだ。それなのに、同じ研究者を標的にするなんて。
「それは昔のこと?」
「最近でもゴロゴロあるわ。有名なので言えば、ピロリ菌の発見あたりか」
凪の話が聞きたかったので、晶は地図から顔を上げる。
「ピロリ菌は知ってるよな」
「うん。胃がんの原因になる菌だよね? こんな形の」
晶はメモ用紙に、ペンを走らせた。ソーセージに三本の毛が生えたような形が、ピロリ菌の特徴だ。
「そうだ。今や除菌のための薬剤セットまで売ってるくらいメジャーな存在だが、発見した奴は相手にされないどころか、同業者から散々馬鹿にされた」
「なんで」
「胃の中ってのは強酸性なんだ。そこで生きていられる菌なんているはずがない、という主張が多数派だったからな。胃がんの原因はストレスだとされていたし」
「だからって……」
晶が言いよどんだ。一瞬静まりかえった室内の空気は重い。
「発表者がお偉いさんじゃなかったこともあって、批判の声はだいぶ経っても消えなかった。そこで、彼は行動を起こす」
凪は目を伏せた。
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