第107話 大物との勝負
パーチェは
晶は思わず立ち止まった。顔のほとんどを覆っていた眼鏡がなくなると、百合の花が開いたような色気が漂う。髪の毛が前に落ちてしまったせいで、あらわになった首筋が生々しい。
「……あら、アキラ?」
パーチェがようやくこちらに気付いた。目が見えない様子は微塵もない。晶の顔を見るのに、努力している風情すらなかった。
「あ、え、あの。眼鏡、落ちてて。なくても見えるの?」
「……今はちょっとまぶしいけど、日の光ほどじゃないから。悪いけど、眼鏡はそこの机に置いておいてくれる? 端に置いてたら落ちちゃったみたい」
「う、うん」
「で、なんの用?」
「ふん、変なの」
パーチェが笑うと、口元から白い歯がのぞく。晶は何も言えず、その場から逃げだして厨房に入った。
「……凪なら一体、どうしたかなあ」
野菜を慎重に切りながら、晶はつぶやく。
パーチェが暗闇の中、眼鏡無しで本をすらすら読めることはわかった。だが、その仕組みが分からない。
食事が終わって部屋に帰っても、夜明けまでずっと、晶はそのことを考えていた。
それから何日か日を重ね、数日後の夜を迎えた。インヴェルノ伯に、サリーレ博士とパーチェの研究内容を説明する日である。
伯はパーチェの家の下にある村まで迎えをよこしてくれた。晶たちは連れだって、馬車で伯の家を訪れた。
「このような夜半に面会の場を設けていただき、誠にありがとうございます」
マントをまとって正装した晶と凪は、そろって目の前の伯に礼をした。作法が分かっていないパーチェだけが、一拍遅れて真似をする。
今日の彼女は、うって変わってとても弱々しく見えた。立っている時も身じろぎ一つしないし、いつもの毒舌の攻撃能力もほぼない。
「死ぬほど緊張してるなあ……パーチェ」
しかし、無理もない。内々の話で、大したもてなしはいらないと伝えてあったにもかかわらず、案内された伯の私室は目がくらむほど煌びやかだった。
落ち着いた色合いのタイルで覆われていた王宮と違い、部屋中に金細工が溢れている。そして何より特筆すべきは、絵の多さだ。
生命力を暗示するように、果実がたわわに実った樹木のモチーフが最も多い。次によく見られるのは、伯の肖像画だった。微妙に美化されてお腹がシュッとした佇まいなのは、画家の忖度というやつだろう。
耳をすませると、なにか車輪がこちらへやってくる音が聞こえる。
「ご主人様、お食事をお持ちしました」
「待っておったぞ。早く並べてくれ」
瞬く間に、テーブルの上がごちそうで埋め尽くされる。肉も魚も果物もある。香ばしい匂い、甘い匂い……あらゆる食欲を刺激する香りに、晶は思わず生唾を飲みこんだ。
「ははは、そう固くならずもっとこっちへ寄らんか」
インヴェルノ伯は友好的な雰囲気だったので、彼に運命を託す晶はほっとする。知らせを受けて内心穏やかではないはずだが、そんな気配を感じさせないのは流石だった。晶の心拍数が、やっと元に戻る。
「じゃあ、そろそろ本題だ。しっかり、伯を説得してこい」
「わ、わかってるわよ」
ようやくきりっとした顔になったパーチェが進み出て、学術発表が始まった。最初は興味深そうにしていたインヴェルノ伯だったが、動物の臓器が登場した時点で明らかにまばたきの回数が増える。そして抽出物の話になると、重い顔をして完全に黙り込んでしまった。
「……聞かなければよかった。おお、おぞましい」
戦の経験もあり、もちろん肉食もしているインヴェルノ伯がそんなことを言うのが、妙におかしい。晶が遠回しにそう指摘すると、インヴェルノ卿は青い顔のまま口を開く。
「臓物には、全ての穢れが詰まっておる。よって、狩りはしても触れず、絶対に捨てるところなのだ。……この研究だって、彼女の思い違いなら良いと思っているよ」
モツでもなんでも美味ければ食う今の日本人には信じられない話だが、衛生環境の悪い時代はこれが常識だったのだろう。つくづくサリーレ博士の意識は、何歩も先をいっていた。
「生食に感染症の危険があるのは本当だけど、うまく抽出できれば奇病の特効薬になるのは間違いないわ。お金になるわよ」
話すうちに力を取り戻したパーチェがきっぱり言う。インヴェルノ伯はそれを聞いて、再び資料に目を落とした。本当に嫌そうな顔をしながらも、読み進めていく。
あまりにも長く感じる時間が、ようやく終わった。
「……分かった。これを元に、奴に揺さぶりをかけてみる」
待ち望んだ答えが出た。大役を果たしたパーチェがその場にへたりこむ。ぼんやり立ちつくしていた晶は、あわてて駆け寄った。
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