第106話 人類の怠慢
「ホルモンの説明はこの前したな」
「うん、聞いたよ」
「そういう生命維持に欠かせない物質を作っている仕組みをまとめて、内分泌っていう。これが原因の疾患は多い。貴族たちの病気も、そうだろうな」
次々ページをめくっている
「昔の病気の原因って、やっぱり……」
「俺は糖尿病だとみてる。今のオーロと同じ症状だ。ただ、大体は二型だろうがな」
凪はため息をついた。
「医者が何人かかったって特定できないはずだ、内分泌疾患の概念を誰も知らないんだからな。その中で臓器に目をつけただけでも偉いよ、サリーレ博士は」
「でも、博士は亡くなったって。それに、研究も途中だって」
「ああ、そりゃしょうがないな。膵臓だったんだろう、彼が目をつけた臓器は」
「膵臓……」
「外分泌と内分泌、両方の作用を持った珍しい臓器だ。インスリンもそこから出ているから、つくづく博士は正しかったことになるな……」
そう前置いてから、凪は何かにとりつかれたように話し出した。
「膵臓は胃の後ろ側にある。横に長い、全長二十センチほどの臓器だ。膵臓の役割は、大きく二つある。食物の消化液を出す外分泌作用と、ホルモンの産生を行う内分泌作用だ」
「あ……取り出せなかったのって、もしかしてその消化作用のせい?」
晶が聞くと、凪はうなずいた。
「そうだ。下手をうつと、自分の消化液で臓器そのものを消化してしまうからな。抽出どころじゃない」
「へえ……じゃ、現実世界ではどうやって取り出したの?」
「事前に仕込みをしたんだよ」
一九二○年代になると、膵臓に外分泌能があることはすでに周知の事実だった。よって、内分泌に関わる未知の成分を取り出すために、ある処置をすることを思いついた人間がいた。
「どうやったの!?」
「外分泌管──消化液が出てくる管のもとを糸でぎゅーっと縛っただけ」
興奮し、さぞかし美しい解決方法なのだろうと期待していた晶は一気に冷めた。
「そんなんでどうにかなるの?」
「生体ってのは合理的にできててな。使わなくなったものは、やがて退化し他の部位に吸収されるようになってる。そうやって邪魔な外分泌細胞をなくしてから、抽出したんだ」
正解を聞いてしまえば、子供でも分かる理屈である。しかし膵臓に注目が集まってからここまでに数十年かかったのだと凪は言った。
「誰か気付けよ、人類……」
かつてないほど、晶は人類に失望した。
「まあ、そう言うな。新しく何かをやるってのは大変なんだ。だからサリーレ博士が生きていたとしても、死ぬまでにここまで到達したかは分からない。しかし、惜しいことをしたもんだ」
凪は長いため息をついた。
「……パーチェが、それを引き継ぐって。僕にも何か手伝えるかな」
晶がつぶやく。途中で凪の厳しい視線に気付き、あわてて手を振った。
「僕からは、実験方法とか膵臓のことを言ったりしないよ。ただ、あんなに目が悪いと、お父さんの残した書物を読むのも大変そうだなと思って」
「そうでもないと思うぞ? 俺はあの女の正体、だいたい想像ついたがな」
凪は、晶の心配を一蹴し笑いかけた。
「台所へ戻るなら、ついでに研究室を覗いてみろ。今なら、面白いものが見られるかもしれん」
凪に背中を押される形で、晶は研究室へ向かう。おそるおそる開いた資料室の扉の向こうは、真っ暗で、そしてとても静かだった。何も見えない分、頑張って目を見開く。しかし闇があるだけで、無駄な努力だった。
晶は奥へ進む。それと同時に、足の小指が固い物に当たった。
「……っ」
悲鳴をあげるほどでもないが、平静でもいられないこの微妙な痛み。晶はなんとか、歯を食いしばってこらえた。
その間に、徐々に目が暗さに慣れてくる。
『私、明るいと見えないのよ』
確かにパーチェはそう言っていたが、ここまで「暗い」のを徹底する必要があるのだろうか。彼女は一体何者だ。
その時、外で風が吹いた。窓を覆っていたカーテンが動き、わずかに月の光が入ってくる。部屋の中が、ぼんやり白い光で満たされた。まぶしさに目がくらんだ晶は、とっさに下を見る。
「あれ?」
晶がつまずいたのは、パーチェがかけていたごつい鉱石眼鏡だった。それは不要品のように、床に放り出されている。
「パーチェ? どうしたの?」
父が近視だったので、彼が眼鏡をなくしたときの困惑具合を覚えている。晶は眼鏡をとりあげ、パーチェを探して、二階を見つめた。
その時、さらに強く風が吹く。月を覆っていた雲が完全に流れ、青白い光がどんどん室内に広がっていった。黒一色だった室内が、灰色に変わる。その中で、パーチェの鮮やかな髪がうねった。
日光の強さの中では、けばけばしさが目立つ。しかし夜の暗さを含んだ中にあると、なんとも言えない艶がある。
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