第105話 立ちはだかる壁
「臓器の分泌物が取れれば、奇病の治療は確実に進む──そう思ってた時期もあったんだけどね。結果は全滅よ」
パーチェは悔しそうに吐き捨てた。
「どうしてダメだったの?」
「ほら、さっき言ったでしょ? その臓器を除くと、消化ができなくなるって」
「あの臓器が消化液を出してるから、分析しようとして臓器を切り刻むと、有効な成分も一緒に分解されちゃうの。何回抽出作業をしても、結果は同じだったわ」
これには流石のサリーレ博士も匙を投げ、実験は中止となった。晶も考えてみたが、有効な方法などさっぱり思いつかない。
「再開はしなかったの?」
「パパが夜盗に殺されたから、そのままよ」
暗い声でパーチェが言った。晶はあわてて口をつぐんだ。
「お金なさそうなことくらい、見れば分かるでしょう。馬鹿な夜盗もいたもんだわ」
晶は黙って、パーチェの気持ちが落ち着くのを待った。下手な同情の言葉など欲しくないことは、身内を失った者として、身に染みて知っている。
パーチェはやがて、顔を起こす。そして晶の横顔を見ながら言った。
「……変な奴」
「なんで」
「パパのことを言うと、『大変だね』って口先だけで心配されたり、『そんなことじゃダメだ』って叱られたりするから。なんにもうろたえない奴なんて、本当に久しぶり」
「僕はそういうことはしない。父さんが死んだとき、同じ目にあったからね」
晶が言うと、パーチェは瞳を大きくした。
「殺されたの?」
「ううん、病気。朝起きたら寝床でいきなり死んでた。……僕がもしもう少し早く起きて、声をかけてたら死ななかったかも」
建前を忘れて自虐的なことが言えるのも、同じ境遇だからこそだ。
「……どうやって立ち直ったの?」
「立ち直れたかすら、今は分からない。本当は乗り越えてなんか、いないかもね」
時々夢にも見るし、後悔することもある。完全に以前の精神に戻ることを「立ち直った」というなら、そんな日は永遠に来ないかもしれない。
「でも、きっと時間が解決するよ。それまではやり過ごすしかない」
波がおさまるまでは、ただ港でじっとしていればいい。無理に元気を出して出航しようとしても、ろくな結果にならないだろう。崩壊を食い止めるための休みなら、必要なことだ。
「そうね」
晶の思いが通じたのか、パーチェはうなずき、ノートを閉じた。
「また、やり直してみるわ。パパの研究だもの、完全に間違ってはいないはず」
「そうだね。研究者が生きてる限り、終わりじゃないよ。頭の中のものまでは、誰のも奪えない」
その言葉を聞いた彼女は立ち上がり、ついでのように口を開く。
「……今晩は泊まっていってちょうだい。どこも埃だらけで手入れが万全とはいかないんだけど、適当に使って」
その後に、小さく「ありがと」と聞こえた気がしたが、確証はもてなかった。
晶はパーチェの言葉に甘えて、台所へやってきた。彼女も使っているのか、客室よりはこぎれいにしてある。
大ぶりの包丁を緊張しながら作業台まで運び、まな板を用意する。今日は疲れたから、食材を適当に入れたスープでも作ろうか。
しかしここで晶は問題点に気づいた。彼女の備蓄食料はたっぷりあったが、調味料のストックがない。香料に使えそうなハーブはあるのだが、塩や醤油にあたりそうなものが全くなかった。
大根や蕪、アスパラに似た野菜。それに干し肉。いずれも素材のまま食べるのはきついな、と晶はためらった。
「あ、そうだ」
戻ってみると、凪は客間のひとつを占領していた。彼は埃が舞うのも気にせず、ベッドに腰掛けて一心不乱にサリーレ博士のノートを読んでいる。
「凪、凪」
凪の方を見やり、何度か声をかけても、反応がない。体を揺すって、ようやく視線が合った。
「凪、岩塩持ってない? あと、昆布とか出汁になりそうなもの」
「どこかにはある」
凪は軽く身をよじっただけで、手を止めすらしなかった。何かに情熱を燃やしているこの人に、それ以上の答えを期待してはいけない。晶は、黙って凪の荷物をかき回し始めた。
「晶。サリーレ博士だがな」
捜索を続ける晶の背中に、凪の声が降ってきた。
「うん。なに?」
「色物なんてとんでもない、彼は天才だ。独学だけで、他の医師の遥か先まで進んでる。あのパーチェとかいう娘、よくこの資料を守り抜いてくれたもんだ」
凪が、ここまで手放しで人を褒めるのは珍しい。晶は思わず、手を止めて顔を上げた。
「そんなに?」
「同時代の医者がひどすぎるってのもあるがな。内臓の役割を把握しようって奴が、ほとんどいないんだよ。文字通り、身の回りにあるものなのにな」
流石に、心臓が止まったら死ぬとか胃には食物が入る、くらいのことは周知の事実だ。しかし、体内をくまなく巡る神経や内分泌に関する知識は、こちらの人間にはほぼないと凪は言う。
「内分泌?」
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