第100話 本気の追いかけっこ

「わざわざ危険を犯すことはねえ、陣に戻って屋敷の前に出直すぞ」

「ぴ」


 なぎが腰を上げたとき。そうはさせない、と言いたげなさえずりが聞こえてきた。あきらと凪は、目を見合わせる。


「ぴくー」

「これ、は」

「子供か……蜥蜴共の」


 相手に見つかってしまったが、まとわりついてきたのは晶の膝くらいまでしかない蜥蜴だ。鱗もまだ完成しておらず、柔らかそうなつるつるした体に、小さなヒレがついている。


「ちょ、静かにして」

「ぴくっく」


 なんとかあっちへ行ってくれ、と手を振るが、幼体は晶の当惑も知らずまとわりついている。


 そしてついに、恐れていた事態が起きてしまった。


「グルル……」


 大人の蜥蜴が、ついに目を覚ます。そしてむっとした様子で、晶たちを見つめた。幼体を見つけた瞬間、その瞳から友好的な色が消える。大事な我が子の安全を脅かしたな、と顔に書いてあった。


 今更やっても無駄だとわかっていても、晶は息を殺した。


 違うんです。追ってきたのは、お宅のお子さんのほうなんです──と、蜥蜴に理解してもらうにはどうしたらいいのだ。どんな言葉を使えばいいのだ。


「グオオオッ!!」

「晶、後ろへ逃げろ!!」


 成体が吠えるのと、あわただしく荷物をひっつかんだ凪が叫ぶのがほぼ同時だった。ずるずると尻尾が地を這う音、次いで怒りのこめられた唸り声が聞こえる。


 晶は振り返るが、すでにそこにも地面を揺るがしながら集まってきた蜥蜴がいる。数珠つなぎになって退路をふさぐ蜥蜴の生臭い吐息が、晶の背中にかかった。


「凪、だめだ。仲間を呼ばれた!」


 こうなると、行けるところは一つしかない。


「まだ前方の方が少ない。ありったけの力で、屋敷まで走れ!!」


 走り出した凪は速かった。晶は歯を食いしばってそれについていく。なんとか、蜥蜴の尾の直撃を避けて前の道にまろび出た。


 師弟二人で、天然の岩のトンネルをくぐる。完全に戦闘態勢に入った蜥蜴たちが、うなり声をあげ走ってきた。押しつぶされて殺される──晶は、一瞬脳裏に浮かんだ恐ろしい光景を無理矢理追い払う。


 凪が先を走る。晶は酸素不足で目の前が真っ暗になりそうだった。


 今はとりあえず蜥蜴のいないところを目指して、二人は屋敷までの山の中を迷走し始めた。それでも地の利のある野生の蜥蜴たちは、執拗に追いかけてくる。


「くそっ!」


 凪めがけて、一体が接近してきた。まだ大人の半分しかない未成熟体だが、走るスピードは十分に速い。怒りに狂った若い蜥蜴は長い尾を回し、それを凪に向かって放つ。


「うおっ!」


 凪はギリギリのところで右に折れてそれをかわす。大人よりリーチが短いのが幸いした。つまずいて凪は地面に転がる。


 だが彼はそのまま倒れてはいなかった。足を引き、絶叫する蜥蜴の喉元を狙って蹴りを放つ。


「いてっ!」


 しかし、一瞬の後にダメージを受けたのは凪の方だった。蜥蜴の鱗は、徒手空拳ではとても破れない。


 凪はすぐに攻撃を諦め、逃げに転じる。だが、気がついたときには、晶たちはすっかり囲まれていた。


「行け、晶!」

「一体、どこへ!?」


 精神的疲労でパニックになりかけた晶を叱るように、凪は叫ぶ。


「上へ行け!」


 短く言われて、晶ははっと我に返った。手近な岩柱にしがみつくようにして登り、狭いてっぺんに立った。凪も続くが、蜥蜴がその足に食いつこうとしている。


 晶は今度は恐怖に負けず、岩の上から蜥蜴に向かってナイフを投げる。凪にみじめな死に方をさせるわけにはいかない。


「当たって!」


 二本は外れたが、三番目で蜥蜴の目付近に命中した。巨体が転び、周りを巻き込む。凪はその隙に、ありったけの腕力を使って晶のところまで登ってきた。


 これで終わりか。いや、違う。


 晶は生来の負けん気をふるい起こす。まだ激しく脈打つ心臓に、もう一度鞭をうった。


 苦境は終わっていない。蜥蜴たちが、岩柱へ体当たりを始めたのだ。もろい岩は、たちまち嫌な音をたててきしみ始める。二人はそろって全力疾走を始めた。


「あいつら、賢いよ!」

「おまけに何だ、あの動きの速さは!」


 凪がぼやくのも無理はない。地図で見た時はどの個体もカタツムリのようにのたのた腹を引きずっていたのに、今日はどいつもこいつも陸上選手のようにダッシュしてくる。今日のように動いていたら、楽なところだなどと、決して思いはしなかったのに。


「話が違うぞ-!!」

「そうだ、ズルいぞお前ら!!」


 晶たちは無我夢中で逃げ続けた。しかし、とうとう飛び移れる岩すらないところまで追いつめられてしまう。投げるナイフも底をついた。通りがかる人間などいるはずもない。万策尽きたと晶が思った次の瞬間──


「晶、口塞げ!」


 次の瞬間、目の前が真っ白になった。凪のお手製煙幕だ。


「こっちへ来い!」


 煙の中から、凪の手が見える。晶はそれを頼りに、岩のくぼみをつたって降りていく。その時に風がなかったのは、信じられないほど幸運なことだった。

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