第94話 一筋の光明

「ああ、後から言われても困るので伝えておくがの。『インスリン』の概念を、こちらから教えて回るというのも理に反するぞ。これに関しては、黒猫も異論はあるまい」

「そうだね」


 黒猫はいくぶん伸び上がってうなずいた。


「どうして? それをきっかけに、新しいものが生まれるかもしれないじゃない」


 あきらがようやく言うと、カタリナが鼻で笑った。


「晶よ、人間の本性を教えてやろうか。『楽できるなら、いつまでもどこまでもサボりたい』じゃ。わざわざ便利なものを教えてくれる連中がいるというのに、自ら手を動かし汗を流そうという奴などおらん」


 カタリナはさらにたたみかける。


「まあ、お主が便利だとわかれば、国と国の間で戦くらいは起こすかもしれんがな。そうなれば今度は、そのために大量に人が死ぬ。それでもいいなら、逃げずにやれ」


 この時、晶はふいに父と交わした会話を思い出していた。


 父の会社は慈善事業として、アフリカの辺境への技術提供をしていた。しかしそれがうまくいかないと、落ち込んでいたのだ。


『トラブルって何? 材料が届かないの?』

『いや、井戸の機械自体は無事に完成したんだよ。村の人たちも、水くみが楽になったと、とても喜んでくれた』

『なんだ。だったら、成功じゃないの』


 そう言った晶に向かって、父は寂しそうに笑ってみせた。


『いや……かえって良くなかった。ひとつの村にだけ機械があるのを羨まれて、逆に他の村からの略奪にあってしまったんだよ。僕たちが引き上げた後でね』

『え』


 父は絶句する晶に向かって言った。


『晶、よく覚えておきなさい。与えるなら、最後まで責任を持つこと。放り投げて去ってしまっては、結局何も残りはしない』


 父の言葉の意味が、今になってようやく分かった。晶の背が、自然と丸くなっていく。カタリナは、固まった晶をよそに姿を消し、黒猫は晶の膝を離れ、ため息をついた。


「お前、今日はもう帰れ。セータのことは、なるようになるさ」


 なぎが声をかけてくれたが、晶はこのまま壁に落ち込んで消えてしまいたかった。




 結局自分には、何もできなかった。助けてあげられると思って、勝手に行動した結果がこれだ。


 晶は気力をなくして、休日だというのにぼんやりとベッドの上でまどろんでいた。昨日は眠ろうとしても眠れなくて、疲れがヘドロのように体にたまっていた。同じ姿勢のままでいるから、そろそろ背中も痛くなってきている。


 自己嫌悪で頭がいっぱいだった。最低限のけじめとして、セータには真実を告げなくてはならない。そして結果的に騙すことになってしまった王妃にも、償いをしたかった。……できるわけもないのに。


 自分はあの世界で、何の地位もない。凪ほどあちこちに行ってもいないし、コネもなかった。あくまで、ただの高校生なのだ──


「ん?」


 晶の胸に、ひっかかるものがあった。頭の中で、何かがひらめく。


「あるじゃないか、コネ」


 晶は小さく叫んで、ベッドから飛び上がった。オットーとレオの兄弟、それにクロエ。なぜ今まで忘れていたのだろう。彼らの力を借りれば、なんとかうまい手が見つかるかもしれない。


 そうとわかったらゆっくりはしていられない。晶は自転車を飛ばし、店まで駆けつけた。合い鍵で中に入ると、着替え途中の凪と鉢合わせする。


「なんだ、休みの日に慌ただしい。金なら貸さないぞ」


 身構える凪に、晶は遠慮無く詰め寄った。


「金はいい。体を貸して」

「お前……どこでそんな言葉を……」

「労働力って意味だよ。異世界まで、一緒に来て」


 凪は店を無人にすることに渋っていたが、初穂はつほが来てくれるというので、とうとう折れた。


 そして二人は着替えて地図を広げ、すでに見慣れた、ゴルディアの大門前に立つ。


 市場は、前の領主であるアルトワ統治の時より活気に溢れていた。この国は、もともとの由緒正しき領主を殺した部下に乗っ取られていたのだが、少し前に領主の血筋が国の統治権を取り返したのだ。晶たちは、その時に手助けをしたのである。


 一時は戦で焼かれた建物がそのまま残っていたりしたものだが、今となっては完全に暗かった時代の名残はない。このところ暗いニュースばかり聞いていた晶は、ようやく気持ちが明るくなる。


「オットーさんの統治、うまくいってるみたいだね」

「ああ。もうすぐ祭があるそうだ。昨年とは違って、盛大なものになるぞ」


 商人たちの大きく景気の良い呼び込みや、吟遊詩人の歌声、それに子供たちのはしゃぐ会話を聞きながら、晶たちは中央広場までやってきた。するとそこに、明らかに金がかかった馬車がとまっている。車体にはしっかりと、獅子の紋が刻まれていた。馬車の周りを、護衛の騎馬兵たちが取り巻いていた。


「あれって、まさか……」


 晶が凪の袖を引っ張ると同時に、見張りの騎馬兵もこちらに気づいた。


「レオ様、いらっしゃいましたよ」


 兵が叫ぶと、馬車の扉が開く。そして中から、金色の塊が飛び出してきた。


「アキラ!」

「レオ様!」

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