第92話 病魔の正体

 あきらは唾をのみ、うなずいた。黒猫も近寄って来て、晶の膝に乗る。


「まず、糖尿病について解説するか。ぼんやりとしか理解してない奴が多いからな。食事で取った糖は、血中から各臓器に入ってエネルギーになる」


 なぎの講義が始まった。


「血中の糖には血管障害性があるから、通常はいっとき高くなっても、インスリンというホルモンの作用で体内に吸収され、いずれ一定値以内に納まるようになっている。食事で糖を取り過ぎたり、インスリンが足りなかったりして、それがうまくいっていない状態を『糖尿病』という」


 そこで何かに気づいた様子の力石りきいしが、片眉をつり上げた。


「変なことを言うな。尿に糖が出たら、じゃねえのか?」


 凪は首を横に振る。


「典型的な勘違いだな。その症状が出るのは、かなり病気が進んでからだよ」

「そうなのか……」


 ショックを受けている力石を置いて、凪は先に進む。


「あ、ちょうどいいから質問」


 ここで初穂はつほが、話の流れに逆らって手を上げた。


「そもそも、ホルモンって何? 言葉自体はよく聞くけどさ」


 確かに晶も、そこの認識があいまいだ。凪はうなずき、口を開いた。


「体の動きを調節する化学物質をまとめてホルモンという。体のあちこちで作られてて、全部説明すると面倒だから省く」

「要するに、その中の『インスリン』がおかしくなると、血液の中の糖取り込みができなくなるのね」

「そうだ。その結果、肝臓にも全身にも糖が回らなくなると、様々な症状が出てくるんだが……」


 凪はそこで卓上の水差しをちらっと見た。


「これは全ての病気に言えることだが、初期で治療が開始できるのが一番いい。しかし、残念なことに糖尿だとそれが珍しい」

「なんでだよ。初期でも、病気なんだから症状あるんだろ? 自分の体なんだから、よく目を向けてりゃ分かるって」


 力石が口をすぼめる。凪がそれを半目で見た。


「じゃあ、糖尿病の症状について教えてやる。まずトイレの回数が増える。小さい方な」

「おう」

「後、喉が渇く。水が欲しくなって、多めに飲む」

「そういうこともある。ラーメン食べた翌日とかな」

「そのうち、食べる量は変わってないのに体重が減ってくる」

「いいこともあるもんだ」

「──以上が、糖尿病のの自覚症状だ」

「ええっ」


 力石だけでなく、室内の人間全てが声をあげた。黒猫やカタリナまで驚いている。その中で凪だけが、感情の読めない平坦な表情をしていた。


「嘘つけ。それが初期症状じゃないっていうのか?」

「ついてどうすんだ。こういう症状が出て、尿に糖が混じる頃には、すでに血糖値は通常の倍くらいになってる。これが、糖尿の最大の怖さだよ」


 本当の初期で発見しようと思えば、血液検査をしないといけないのだと凪は言う。恐怖の空気が、室内を覆った。


「……恐ろしいわね。そもそも、インスリンはどうして働かなくなっちゃうの?」

「ああ、それについては話してなかったな。身も蓋もないが、半分は遺伝だ」


 背に高い低いがあるように、インスリン分泌も多い少ないがある。当然、先天的に少ない人の方が糖尿病になりやすい。


「日本人は、全体的に少なめだからな。余計に、糖尿病には注意しないといけない。……これは余談だが」


 残りの半分は、脂肪や筋肉量に左右される。そのため、食生活や運動改善が大事なのだと凪は続けた。


「しかし、Ⅰ型──オーロのかかった型だと、この理屈が通用しない」


 初穂と力石が、「オーロって誰?」という顔をしたが、晶は迷った末、教えないことにした。


「特別なの? そのⅠ型っていうのは」

「日本でも、全糖尿病患者の一割もいない。発症原因は、自己免疫機能の崩壊といわれている」


 免疫。


 通常は体に入りこんだ異物を排除してくれる、頼もしいガードである。しかしそれが何らかのきっかけで暴走すると、おぞましいことに、自分の体を攻撃し出す。これが原因の病気は自己免疫疾患と呼ばれている。原因が自分であるだけに完治は難しい。


「現代医学すら克服できてない、デカすぎる山だ。糖尿病Ⅰ型では、この攻撃によってインスリンを作る膵β細胞が破壊されてしまう」


 凪がそうしめくくった。軽く身を震わせた力石が口を開く。


「つまり、体にとって大事なものが全然作れなくなるってことか? それで病気になるってことなのか?」

「そうだ。Ⅱ型──よくある糖尿病は、インスリンの働きが悪くなってるだけだが、こちらは『完全にない』んだ。治療法は、ひとつしかない」

「む、難しいのか?」

「いや。インスリンを体外から注射してやれば済む」

「あ、それならうちの義父も使ってるわよ。慣れればすぐ使えるし、不便はあるけど、生活ができないほどじゃないって」

「なんだ、脅かすなよ。そんな地獄の鬼みたいな顔で言うから、不治の病かと思ったじゃねえか」


 事情を知らない力石と初穂が、ほっとした表情になった。晶だけが、その事実の奥にある本当の深い闇を悟って、口をつぐんでいる。

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