第91話 検査の結果
「どれくらいかかります?」
「うちじゃわかんないねえ」
「そうなんですか?」
「ここは薬剤設計がメインだから、分析は生化学の研究室に頼まなきゃ。ま、とりたてて特別なものでもないから、数日で済むと思うけどね」
生化学分野の部屋なら、自動分析器があるので簡単だという。そのあたりを知らなかった晶は、驚きながら話を聞いていた。
「すみません、お手間をかけて」
「そうでもないよ? あそこのジジイには弱みがあるからね」
萩井は平然として、指でカメラの形をつくった。何故彼女が
長居してもいいことはなさそうと判断し、晶は腰を浮かした。それを見て、萩井が笑いながら言う。
「何だ、もう帰るの? 紫外可視分光光度計とか、ガスクロに興味ない?」
追いすがる萩井をようやくかわし、晶は廊下へ出た。ようやく危険な荷物がなくなった安心感で、空間が広く感じる。
何の気なしに、立派な実験室を覗いた。白を基調にした色味の大きな機械が、いくつも並んでいる。低い駆動音が部屋にこだましている。
これがあればすぐ分かることが、向こうの世界では永遠の謎になる。頼もしい機械を眺めながらも、晶の胸に苦いものがこみ上げてきた。
解析が終わった、と報告があったのは、それから三日後のことだった。今日もまた
「はい、頼まれてた結果。子供のだって言ってたね?」
なんの前置きもなく、萩井が書類を差し出した。そして晶に聞く。
「こんなに早く、ありがとうございます。十二~三歳くらいだったかな」
記憶を探りながら、晶が答える。すると、その礼の言葉を聞いていなかったかのように、萩井の目がつり上がった。
「悪いことは言わないから、すぐ病院につれて行きなさい。この子は、糖尿病だ」
「え?」
唐突に命じられて戸惑う晶の目の前で、萩井は細長い紙を広げた。そこには文字と数字がびっしり詰まっている。何も考えていなかった晶は、突然の展開に戸惑った。
「他にも不思議なことが山盛りなんだけどねえ。赤血球の形は違うし、リンパ球の数はおかしいし。持病が複数ある可能性は捨てきれない……その場合可能性が高いのは……」
千秋は脈絡のないことをぶつぶつとつぶやく。似てはいるが、オーロの血はやはりこちらの人間と全く同じ血液ではないようだ。晶はどうしたらいいか分からず、萩井の出方をうかがった。
「おっと、話がそれてしまったな。私が見てほしいのは食後血糖値──410mg/dlとHbA1c──10.1%だ。間違いなく未治療の糖尿病、しかも末期だ」
萩井は検査値の一部を指さす。
「末期?」
小難しい数字はほとんど分からなかったが、物騒な単語はわかった。晶はぎょっとして目を見開く。
「ああ。もう少し進行すれば、心臓や脳がパンクする。自覚症状も相当あるはずなのに、ここまで手当せず放置とは……親が育児放棄してるんじゃないか? 両親はどんな奴だ」
「……難しい人ですね」
「俺様気質?」
「王様ですね」
名実共に、と晶は心の中で言い添える。萩井はデータの紙を持ち上げながら、ため息をついた。
「しかし、いくら王様でも恐怖心はあるだろう。子供への情もあるだろう。今度会ったら、聞いてみなさい。Ⅰ型糖尿病が発症しなんの治療もしなかった場合、どれくらい生きられるか知っているのか、と」
千秋の目は、怖いくらいに真剣だ。不吉な予感がした。おそるおそる、晶は彼女に聞いてみる。
「その場合、どのくらいなんですか」
「二年」
信じられない結果に、晶は何度もまばたきをする。しかし、それは厳然たる事実だった。気丈な初穂も力石も、言葉が出てこず黙り込む。
その日は結局、晶たちは調査結果を持って引き下がるしかできなかった。
「……ちょっとあんた、何か言ってやりなさいよ」
ラボから帰宅した晶は、激しく落ち込み無言だった。考えれば考えるほど、胸のあたりがむかむかしてくる。心が悲鳴をあげているのがわかった。
社会的には剛の者である力石も初穂も、内心は晶と同じなのだろう。うなだれ、ばつが悪そうな顔をしていた。
しかし凪は何も言わず、ぎくしゃくした空気の中でデータに目を走らせている。見かねた初穂が苦言を呈しても、彼は淡々としていた。
「状況は分かった」
力石が怖い顔で詰め寄ろうとした時、ようやく凪が動き出した。相変わらず、彼の顔に笑いはない。
「晶。聞きたいなら、あの子に起こったことを全て話してやる。先に断っておくが、救いようのない話だぞ」
凪がわざわざ前置きしてきた。綺麗な顔がいつもより白く、化け物じみている。聞いたらもう、なかったことにはできない。──だが、知らないまま終わることが、今の晶には最大の恐怖だった。
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