第90話 イキイキした変態
「よく分かった。勉強になったよ」
「練習して、女の子を口説くチャンスに使え。ただし乱発すると、効かなくなるぞ」
「今、
凪に血液を分析機関である大学へ届けるよう頼まれた夜、晶はろくに眠れなかった。どう考えても凪が行った方がいいと思うのに、雇い主は断固として意思を曲げなかったのだ。褒美にバイト料上乗せをちらつかされて、晶は結局それに乗ってしまった。
「うう……気が重い」
大した重量ではないはずなのに、背中のリュックが妙に重く感じる。そこには、王太子の血液が入っているのだ。しっかり保冷バッグに入れたのを確認しても、緊張は緩まない。
警官に会いたくない。挙動不審なところを見つかったらアウトだ。飛び出してくる自転車や小学生にも注意しなくてはならない。
交番に連行されたり、事故にあうイメージと脳内で戦いつつ、晶はゆっくり歩き続けた。なんとか目的地に到着する。
「うわあ……」
大学と聞いていたから、無機質なコンクリートの建物を想像していた。しかし目の前にあるのは、緑の芝に囲まれた純白の校舎だ。S字を描いたようで、造りもおしゃれである。
これから実験なのか、白衣姿の女性たちがかしましく喋りながら建物に入っていく。晶は彼女たちについていった。まだまだ来る学生たちに囲まれるようにしながら、晶は大学の研究棟に入った。
玄関ロビーにも煌々と明りがつき、立派なカーペットがしいてある。もちろん、エレベーター・エスカレーター完備。
ここが特別なのか、それとも大学全てがこうなのか。区別のつかない晶は、しきりに目をしばたいた。
「えーと、製剤研究室……三階か」
似たような名前の研究室が多いのに戸惑いつつ、晶はエレベーターに乗った。
三階は、大きな窓がある廊下からたっぷりの日光が降り注いでいる。備え付けの机の上で、皆レポートを書いたりネットをしたりして気ままに過ごしていた。
晶はそれを横目に、どこまでも続いていそうな廊下を進み、凪に聞いた教室の横引きドアを開ける。
「失礼します。お約束していた火神ですが、
椅子に座って雑談をしていた学生たちが、一斉にこちらを向いた。話を遮られた彼らだったが、晶に向けられた視線は好意的なものだった。
「お客さん?」
「あら可愛い」
「こないだの凪さんといい、助教授って美形の知り合い多いですよねー。なんでだろ」
学生たちが興奮気味に囁きあうのを聞きながら、晶は部屋の中へ進んだ。
円陣の中央に、でっぷり太った女性が腰を下ろしている。年齢はわからない。なにやら論文の精査をしていたらしく、赤ペンを握った丸い指が忙しなく動いていた。
女性は晶を見ると、にやりと笑ってみせた。肉で埋もれていた細い目が、ますます細くなった。
「来たね。じゃあ、別の所で話をしよう」
彼女が立ち上がると、背後でフラッシュが光った。晶はとっさに目を閉じる。
再度瞼を持ち上げると、全身黒ずくめの痩せた男が、満足そうにデジタルカメラをのぞいている。彼はうやうやしくお辞儀をしたが、カメラから手を離そうとはしなかった。
「この人は……?」
「助手の
「分かりました……」
ここ、イキイキした変態しかいないのか。晶はそう思ったが、我慢した。そもそも凪の知り合いなのだから仕方無い。
研究室のすぐ横に、教授のための個室がある。六畳ほどの部屋の壁面は、全て本棚で埋まっていた。机の上では、珈琲メーカーからぽたぽたと出来たての珈琲がポットに落ちている。居心地の良さそうな、研究者の穴蔵だ。
萩井はそちらへ晶を手招いた。
萩井と並ぶように晶は椅子に座った。ミルクを入れた珈琲を晶の前に置いてから、さっそく萩井が手を開く。その表情は、どこかうっとりとしていた。
「で、分析してほしい試料ってのは?」
晶はバッグを萩井に渡した。さっそく中を改めた彼女は、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「普通の血液か。あの男が頼んできたにしては、面白みがないね。……全く、研究者の貴重な時間を奪いやがって」
萩井の声が沈んでいる。おかしな期待をされていたらしい。結構な苦労をしてもぎとってきたものなのだが、その経緯を全て話すわけにはいかなかった。
「血液検査をしてほしいだけなんです。ただ、依頼主が特殊な立場の方で……」
「誰だい」
「と、とあるやんごとなき方で……」
なんとか伝えようと晶が苦労していると、萩井の目が光った。しかし彼女はすぐに、その好奇心を引っ込める。
「ま、若いのを虐めるのはやめとこう。古狸に、貸しは大きいから覚悟しとけって伝えて」
「はあ……」
そう言う萩井はとてもわくわくした表情だった。凪、頑張れ。
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