第89話 大胆なトリック
「……血液は取れたの?」
「おう。これだけあれば十分だ」
凪は注射器の中身を蓋付きの試験管に移し始めた。晶の人差し指ほどの長さの管が四本、血液で埋まる、血まみれの注射器とその試験管は、何重にも布で包んで再びケースにしまわれる。向こうに帰ってから医療廃棄物として処分するそうだ。
とりあえず、なんらかの成果はあった。晶は一旦息をつく。
「……それはそれとして」
「なんだよ」
「何なの、あの爆発は! 僕に爆弾でも持たせてたの!?」
本気で怖かったことを訴えると、凪は困った様子で頭をかいた。
「人聞きの悪いことを言うな。あれは金属ナトリウムの固体だよ」
金属ナトリウム、と聞いて、晶の頭が回転し始める。
常温では銀白色の固体。水との接触で水酸化ナトリウムと水素を生じ、その時生じた大量の熱により容易に爆発する。
ささいな科学の知識として知ってはいても、現実に見たことはなかった。たったあれだけの量で、あんなに派手な反応になるとは思わなかったのだ。
「お前なら知ってると思ってたんだがな。説明しなかったのは悪かったよ。ああ、炎の色が変わった仕掛けは……」
「それは一目で分かったよ。炎色反応でしょ」
中学高校のうちに、一度は体験する実験だ。花火もこの原理を利用して、鮮やかな色を出している。
物質は高温になると、原子という小さな単位になる。すると、一時的にエネルギーが高い特殊な状態になり、これを励起という。
しかし、この状態は非常に不安定なため、物質は常に元の状態へ戻ろうとする。その際に放出されるエネルギーが、色のついた光となるのだ。
ちなみに何色の光が出るかは、物質によって決まっている。紫ならカリウム含有物──ミョウバンか何かだろう。
「じゃあ、今回の呪術は全部、高校レベルまでの科学の応用なんだ。すごく恐ろしい物に見えたけど、それでどうにかなっちゃうんだなあ……」
怒るだけ怒って発散した晶は、ため息をつく。凪がうなずいた。
「『高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない』──誰の台詞だったっけなあ。俺たちの世界はここと比べて、進みすぎてるんだよ」
「そうだね。それが良いことかは、分からないけど」
人は動物の中で、飛び抜けた進化をとげてきた。しかし、昔より幸せになったとは言えないだろう。化学の発展で犠牲になったものも、たくさんある。
「晶」
うつむく晶に、ゆっくりと凪が声をかける。
「俺は、それでも人類は幸せになってると思う」
晶は驚いた。凪は普段から言質をとられないよう、断言を避けるきらいがある。その彼がここまで言うのだ。なにを試みようとしているのだろう。
「どうして?」
凪は何かを言いかけて、やめた。
「いずれ分かる。嫌でもな」
晶の背筋を、寒気が駆け抜ける。凪の言葉の本当の意味を知ったら、もう戻ってこられない。そんな気がした。
だから懸念から逃げて、別の質問をした。そんなことをしても、後が辛くなると分かっているのに。
「凪。王妃様のカードは、どうやって消したの? 不思議でしょうがないよ」
「そんなことかよ。あれは単純な手品だ。魔術もなにもありゃしねえ」
凪は晶の問いに、無感動な様子で答えた。
「消すべきカードすら教えてもらってないんだよ? 手品でそこまで特定できる?」
「特定なんてしてねえ」
凪はあっさり言った。晶は言葉の意味がわからなくなって、首をひねる。
「正確に言えば、消すべきカードの記憶すらする必要がなかった」
「どういうこと?」
「俺は一枚だけ消したんじゃない。束ごと、ごっそり取り替えたんだ。全部別の絵柄の束とな」
晶の喉から、あっと声がもれた。確かにそれなら、特定できなくてもカードを消せる。それに、目的の何枚かを消すよりスムーズに動けそうだ。
「いつすり替えたの」
「指を鳴らした時。一瞬でも右手に注目してくれれば、誰も左手は見ないからな。簡単だったぞ」
晶は嘆息した。
「でも、それは最初からカードがあると分かってないと成立しないような……」
「地図から王妃の部屋を覗いた。贈り物で子供をモチーフにしたカードがあったが、王妃はろくに触ってない。看病で忙しいからな」
地図から見下ろすと、異世界のことは赤裸々にわかる。それは王族だろうと庶民だろうと、実に公平なものだ。
「これは利用できるってんで、
「……よ、良くバレなかったね」
いくら見慣れていなくても、絵が丸ごと違うのだから、微妙な違和感はあるはずだ。王妃に指摘されたら終わりである。
「だから最初に選んだカードを思うようにしつこく言ったんだよ。人間、一つのことに集中すると他がおろそかになるからな」
幸いあのカードは白黒で、微妙な色の違いも出にくかった。それが晶たちには幸いしたのだろう。
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