第88話 魔術と化学

 あきらは窓の外を見る。そこにあったのは、目を疑う光景だった。池からはもうもうと白煙があがり、水面に橙色の炎がたゆたっていた。


 王妃は勿論、衛兵たちも体を強張らせて、窓の外の光景から目が離せなくなっている。この世界では、爆発などめったに起こるものではないため、耐性がないのだ。世界の終わりかと、本当に思っているような怯えた表情で、皆がしばらくそうしていた。


 やりすぎたかもしれない。しかし、これならしばらくは、なぎの思い通りだ。晶は天幕に駆け寄る。


 晶の考えを裏付けるように、凪が笑いながら黒いケースを服の中に隠すのが見えた。あの中に、血液を採取した注射器が入っているのだろう。わからないよう、王太子の腕を圧迫して止血している。


「やはり来たか、私を狙う悪霊めっ」


 凪が深く息を吸い込み、叫ぶ。その声を聞いた王妃がオーロに駆け寄り、金切り声をあげた。


「王妃様、安心なさいませ。王太子はご無事です。誰か、大人で体調が悪くなった者はいるかっ」


 呼びかけに応じて、呪術師の一人が手を上げた。


「お……俺の体が……」

「どうした」

「冷たいんだ。さっきから何を触っても、なんにも感じねえ。こ、これも呪いなのか!?」


 男は泣き出しそうな顔でわめく。それを聞いた凪は厳しい顔で指示をとばした。


「よし。全員が取り憑かれる前に、ここを離れるぞ。相手は得体の知れぬ霊、王族の方に万が一があってはならぬ!」

「は、はい」


 凪の指示に従い、男たちが一斉に帰り支度を始めた。その時、ようやく顔に赤みがさしてきた王妃が、凪の前に立ちふさがる。


「お待ちなさい。この子の治療はどうなるのです!」


 王妃は今にも泣き出しそうだ。彼女に向かって、凪はすまなそうに言う。


「申し訳ございません。しかし一旦戻って身を清めねば、悪霊が体を欲してあなたや王太子に害を与えます」

「私の体を囮になさい、そのくらいならくれてやります! あの子が病気になってから、そうしたいと思わぬ日などありませんでした」


 ついに王妃がぼろぼろと涙をこぼした。声がかすれ、何度も同じ願いを繰り返す。


 晶は彼女に真実を明かせないのを、歯がゆく思う。しかし、ぐっと歯を食いしばって我慢した。


「なりません。王太子が、それを望みません」


 凪がゆっくりと、暖かい声で言った。王妃は、唇を噛んで下を向く。さっきの会話を思い出しているのだろう。


「……必ず、戻ってくるのですよ」

「はっ。我が神に、そして王妃様に誓って」


 王妃はおずおずと凪に道を譲った。術士たちは連れだって部屋を出ていき、早足で市街地まで辿り着く。帰り道の光景を、晶はほとんど覚えていなかった。


「ああ、生きてる……」


 緊張が解けて、晶は息をついた。術士たちは、人気のない路地にへたりこんでいる。あまりにさっきの衝撃が大きかったのだろう。


「とりあえず終わってよかった」

「お前は呪われてないから、そう言えるんだよ! どうしてくれるんだ、俺のこの手をよ!!」


 さっき叫んでいた男が、早口で言う。同じようにして座っていた男たちが、思い出したようにその男から距離を取った。自分も同じ目にあってはかなわない、と思ったのだろう。


「呪いなんかあるか、阿呆」


 それを凪が切って捨てた。そして、首を振って、呪いを受けたという男に向き直る。


「あと数時間……長くても一日もすれば元通りだから、心配するな」

「え」


 意外な言葉を告げられた男は、子供のように口をすぼめる。


「呪いじゃ……ないのか?」

「分からん奴だな、本気で信じてたのか」

「凪、どういうこと? 何が原因なの?」

「ははは。晶、薄々気付いてるくせにぼかすなよ」

「……前準備の時も、王太子の時も……自分でクリーム、塗らなかったね。もしかして、あれが原因?」


 晶が気づいたことを言うと、凪は白い歯を見せた。どうやら着眼点は正解らしい。


「あのクリーム、毒だったの?」


 晶は低い声で聞いた。凪はひきつった顔で、尻で地面を後ずさる男を指さしながら言う。


「人聞きの悪いことを言うな。あいつのクリームにだけ、局所麻酔が混ぜ込んであったんだよ」

「キョクショマスイ?」

「薬に触った部分を、一時的に痺れさせてるだけだ。その証拠に、足とか尻の感覚はあるだろ?」

「あ……」


 男が、急に静かになった。足で地面を何度も蹴って、嬉しげにその感触を確かめている。呪いではないと分かって、他の呪術師がようやく男の近くに寄ってきた。


「なんだ、偉そうなこと言ってたけど、それだけか」

「それだけって言うな。薬の効き始める時間と、十分な量を計算しなきゃならんから、面倒なんだぞ」


 凪と晶がこそこそと言い合っていると、呪術師たちがこちらを覗いてきた。


「呪いじゃないとすると、あの派手な音はどうやったんだ?」

「うるせえ。知ってどうすんだよ。用は済んだから、お前らとはお別れだ。くれぐれも俺のことを言いふらすんじゃねえぞ」

「……分かったよ」


 凪が言うと、呪術師たちはうなずき、無言のまま路地へ消えていった。全員が猫背になっていて、この数時間でぐったりしおれた様子である。

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