第87話 鳴り響く音

 術士たちは気を遣って、外に出た。天蓋の布がおろされ、中に入った王妃は影しか見えなくなる。しかしわずかに親子の会話が、漏れ聞こえてくる。


「母様」

「はい、母はここにいますよ」


 息子の呼びかけに、王妃は優しい声でささやく。


「……いつも、いてくださいますね」


 そう言ったオーロの声には、喜びだけでなく憂いも混じっている。


「あなたをひとりぼっちにするわけがないでしょう?」

「僕がずっとこんなだから、母様もどこにも行けませんね」


 オーロは自分だけでなく、母も病気のもたらす苦しみに耐えていると知っている様子だった。それを見てとった王妃はすぐに、明るい声で話し出す。


「分かっていませんねえ」

「え?」

「今の母は、オーロといるのが一番楽しいのです。子供が要らぬ心配をするものではありません。あなたが大人になって、妃をもらって、お子が沢山出来たら──その時は堂々と、あちらこちらに足を向けましょう」


 少しの沈黙の後、オーロが言った。


「……そうですね。しかし母様は、街に出てしまったら、迷子になっていらっしゃる気がします」


 母と子が、同時に笑い出した。その時はお互い病を罵る様子もなく、本当に……ただの親子だった。


「ほほ、その通りでしょう。でも、あなたが探しに来てくれるのよね?」

「ええ……必ず……その役目は……」

「おや、眠くなってきたの? では、後でね」


 王妃はゆったりした歌を口ずさむ。それは徐々に小さくなり、消えた。天蓋の布が左右に開き、両手を胸の前で握り締めた王妃が顔を出す。


「眠りました。──どうか、お願いいたします」

「全力を尽くしましょう」


 神妙な顔になったなぎが、一礼してから天蓋に入る。そして初めて、オーロと向かい合った。ぐっすり眠っている彼の口元は、少し微笑んでいるように見える。


 しばらくオーロの肌の色や血管を確認してから、凪は寝台の横に跪く。


「……お手をとっても?」


 傍らに立つ王妃がうなずく。凪がそのまま触診にとりかかった。


 まずオーロの掌を広げ、そこをゆっくり何度か指でなぞる。凪の眉間に皺が入った。


「直ちに儀式に入ります」


 凪はオーロから手を離し、もにゃもにゃと呪文──般若心経を唱え始める。そしてそれが終わると、塗り薬の壺を取り出し、他の術士を呼ぶ。


「塗ってさしあげなさい。私が呪文を唱え終わるまで、手をさすり続けること」


 凪はそれを確認すると口を閉じ、金属椀に入れた白粉を謎の液体で溶く。


「燭台をこちらに。布に当たらないよう気をつけて」

「はい」


 凪が何をしようとしているか、あきらには想像がついた。天蓋の布が高くあげられ、燭台の準備ができると、凪は懐から金属の棒を出す。


「それは何ですか」


 身を固くした呪術師たちが、燭台をのぞく。逆に王妃は最前列に陣取っていた。晶はつきとばされないように、外側にまわる。


「神託の宝具にございます。私の能力が最大限に高まっていれば、赤い炎は紫へと変わるでしょう。王妃、もう少し下がっていただけますか」


 王妃はしぶしぶ、一歩だけ下がった。本当は近くで見たくて仕方無いのだろう。


「……では、参ります」


 凪がためを作る。室内の視線が、ちらちらと揺らぐ燭台の赤い炎にうつった。


 凪が炎の中に、金属棒をつっこむ。するとすぐに、赤かった炎が鮮やかな紫色へと変わった。


「おおっ」


 王妃より先に、術士たちが大きな声をあげる。


「準備は上々。では、くれぐれも私どもの邪魔をなさらぬように」


 それから凪は、延々経を唱える。晶の足がしびれてきたところで、ようやく凪が足を二度鳴らす音が聞こえた。待ちかねていた合図だ。


 晶は天蓋を出て、荷物を探る振りをしながらじりじりと窓枠に近づく。幸い、みんな炎と凪に気をとられていて、下僕に注目する者などおらず、誰にも止められなかった。


 窓際まで辿りついた。外に池があることを確認する。背中に当たる壁のタイルが冷たい。晶は肘で、それを音が出るように叩いた。


 衛兵がちらっとこちらを見て、また顔を正面に戻す。それと同時に晶は腕を外へ出し、包みを投げた。


 ちゃんと落ちたか、不安がよぎる。一拍おいて、ぽちゃんと間の抜けた音がした。──しかし、それ以上のことは起こらなかった。


 凪に対する期待はますます盛り上がっている。これで何も出来ません、では済まない。晶はちらちらと視線を天幕に向けた。胸元で握った手が震えてくる。


 これでは本物の奇跡が起きなければ、ここから帰れない。男たちを道連れに、みんなであの石牢に逆戻りだ。晶の背中に、嫌な汗がわいてきた。


「カタリナ……!」


 晶は焦るあまり、小さな声で番人を呼んでみた。しかし、「自分のことは自分でしろ」と普段から言い放つ彼女は、見ていたとしても物音すらたてない。


 こうなったら、いっそ奇声をあげて変な踊りでも踊ってやろうか。衛兵に喧嘩でも売ってやろうか。


 晶がそんなことを考え始めた時──背後で轟音と、階上にまで届く水しぶきがあがった。その場にいた晶と凪以外全員が、頭を抱えてうずくまる。

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