第62話 そしてその先へ
「胸糞悪い事件だったな」
「……だねえ」
「んにゃー」
残された
「ずっと、あんな風でしたから。もう変わろうと思っても、無理なのかもしれません」
「ま、これからのあんたにゃ無関係だ。そうだろ?」
「はい」
晴海がきっぱり言う。その姿はもう、立派な大人の風格だった。これがきっと、本来の彼女なのだ。
「これから大変ですね」
「色々やることが多すぎて。名字って、どうやって変更すればいいのかな……」
「あ、じゃあ僕に任せて」
「偉そうに。どうせやるのは高橋のおっさんだろ」
「ネタばらしするのが早いよ」
晶がむくれると、晴海が初めて吹き出す。それを見て、今晩初めて、晶も大声で笑った。
☆☆☆
それからの話は、
晴海は力石と凪が貸した現金を使って、新しい家に引っ越した。母がいなくなって自由になったため、順調に体重を落としているそうだ。
晶たちにもいい風が吹いた。火災保険も無事におり、夏じゅうかかって工事をした結果、店が元通り綺麗になったのだ。
しかし、晴海の母に大量の貯金があることを知った凪は、これで満足しない。高橋に頼んで、速攻で民事訴訟を起こした。
「やられたらやり返す」
せめて修理代金分は必ずあの女からもぎ取ってやる、と凪はひたすら息巻いている。晶は学校もあるため、こちらには一切関知していない。ま、本気になった凪なら取りっぱぐれもないだろう。
今日も凪は二階にこもって、ぶつぶつ法律用語をつぶやいている。声をかけても返事がないので、晶は自分の仕事をすることにした。
「はい、そこどいて黒猫」
「その箒が遠慮すべきだと思うね」
「掃除のときはこっちが優先なの。ほら、あっち行って」
晶に退くつもりがないのがわかると、黒猫はのたのたと窓枠へ移動した。そこで、優雅に昼寝を始める。
「七賢人なのに、ずっとここにいていいのかな……」
事件が終わってから、カタリナに加えて黒猫まで店に居着くようになった。時々買い置きのハムやソーセージが食われているのは、彼の仕業に違いない。
「カタリナ。黒猫に帰るように言ったら? あっちの世界に支障が出ても知らないよ?」
晶が呼びかけると、カタリナがソファーの真上に姿を現した。彼女は、焦るどころか実に楽しそうに笑っている。
「そいつは普段からフラフラフラフラしている。いなくても皆心配せんどころか、白猫様の仕事がはかどるわ」
これを聞いた黒猫の耳が、ぴくっと動く。素早く起き上がった黒猫が、カタリナの前に躍り出た。
「そんなことを言っていいのかな。どうせ最後は私が丸く収めることになるのだよ」
カタリナが即座にかみついた。
「貴殿はいつも、事態をややこしくするだけじゃ。眠り猫ともども、七賢人から除籍されたとしても私は驚かん」
「除籍? やれるものならやってみたまえ。にゃー」
「何じゃと」
「ふぎゃにゅうう」
居間を舞台に、大人げない追いかけっこが始まった。取り残された晶は、下手に動くことも出来ずに立ちつくす。
「掃除したいでーす」
主張してみたものの、二人とも当然のようにこれを無視する。分かってはいたが、空しい。
二人が遠くへ行ったのを見計らって、晶は階段を降りる。どうせ喧嘩で散らかるに決まっている室内を無視して、玄関の掃除から始めることにした。
雑巾を固く絞って、玄関扉の表面を拭く。あらかた終わって一息ついたところで、誰かがやってくる足音が聞こえた。
「こんにちは。茸、またいただきに来ました」
「ああ、いらっしゃいませ」
晶は雑巾をバケツに放り込んで、立ち上がった。すっかり雰囲気の変わった晴海が、店の前の小道に立っている。
「再開店、おめでとうございます。少ないですが、どうぞ」
晴海は手に持っていた、ケーキの箱を差し出した。肉でまん丸だった手は、関節が分かるまでになっている。ワンピースも黒一色から、秋らしいボルドーに変わっていた。
「その服いいですね」
「ありがとうございます。十キロ減ると、流石に少し着られるものが増えました。お邪魔してもいいですか?」
「あー……」
二人の喧嘩はもう終わっただろうか。そして凪は、金をむしり取る算段を終えているだろうか。ケーキの箱を抱えながら、晶はあいまいな笑みを浮かべる。微力ながら、時間稼ぎをすることにした。
「お仕事探しはどうですか?」
「無職が長かったので、正社員はなかなか。今はアルバイトでつないでます」
「色々大変ですね」
「女性支援の団体から紹介してもらった仕事なので、大目に見てもらってるところも多いと思います。役に立てるのは、これからでしょう」
「頑張ってくださいね」
晶が必死に店の醜態を見せまいとしているのに、扉の向こうでカタリナと黒猫が騒ぐ音が聞こえてきた。
やむをえん、最後の手段。晶は玄関をあけ、もらったケーキを室内につっこんだ。
「これが食べたかったら大人しくして!」
室内のどたばたが、ぴたりとやんだ。箱が丁寧に晶の手を離れ、どこぞへ消えていく。いぶかしむ晴海をしばらくもてなした後、晶は再度店内をのぞきこんだ。
すると、さっきまで走り回っていた二人がきちんとテーブルの前に鎮座している。皿やフォークもちゃんと出され、店としての体裁が整っていた。
「凪は?」
「知らぬ」
ケーキがすでに、一つ消えていた。カタリナの口元に、クリームのかけらがくっついている。晶は思わず、吹き出した。
「呼んであげなきゃ、後ですねるよ。あ、晴海さんどうぞ」
晶は明るい声でそう言いながら、晴海と一緒に生まれ変わった店に入っていった。
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