第33話 夏空と黒煙

 そう言ったはいいが、あきらはその後が出てこなかった。玄関先に立っていたのは人間、というより球体に近い造形の客である。全身にくまなく肉がつき、ひっきりなしに流れる汗を薄汚れたタオルでぬぐっていた。


 かろうじて着ている黒いワンピースで女性とわかる。ワンピースよ、よくぞ裂けずに持ちこたえていると褒めてやりたいほど伸びきっているが。


 とりあえず彼女に椅子をすすめ、晶はなぎを呼びに行った。ソファのスプリングがぎしっと嫌な音をたてたが、聞かなかったことにする。


「凪、お客さんだよ」

「お、珍しい。今日は一体どんな子かな」

「……とりあえず、心の準備をしてからどうぞ」


 この悪気なく容赦ない男が、いきなりさっきの女子と対面してしまったら、何を口走るかわかったものではない。


 晶は待合につながる扉を薄く開け、そこから覗くようにと言った。


「…………」


 好奇心から素直に覗きこんだ凪が、しばらく黙り込む。やがて、大きく深呼吸してから扉を開いた。


「やあいらっしゃい、店主の不死川 しなずがわ なぎです」


 完璧といえる声のトーンと張りで、凪は女に語りかけた。流石遊び人、伊達に場数は踏んでない。


「……こんにちは。松阪晴海まつざか はるみです」


 今にもかき消えそうなかすかな声で、女がつぶやく。彼女の長い前髪が揺れ、汗まみれの顔に張り付いた。


「今日はどんなご相談で?」


 凪が話を切り出しても、女は手を組んだままもじもじしている。カタリナが「めんどくさい娘じゃの」とつぶやくのが聞こえて、晶は目をつり上げた。


「あ、あの、やせたいんです」

「女性の永遠の悩みですね。今、具体的に何かされてます?」

「……いえ、特には」

「運動とか、昔やってたりは」

「すぐ膝が痛くなるので……全然、何もしてません」

「食事は一日何回くらい?」

「大体、四・五回……」


 凪はにこやかに女の話を聞いていた。そんな生活なら異世界の品を使わなくても、少し頑張れば勝手に痩せるだろう。


 手間がいらない仕事だな。この時は、晶はそう思っていた。


「食事の回数は減らせそう?」

「いえ、それは無理です! 食べるのは減らしたくありません!」


 凪が問いかけた。すると、今まであれだけおどおどしていた女が、やけにきっぱりした口調で言う。


 いや、ダイエットで食事減らしたくないって、どういうことなの。喉元まで言葉がせり上がってきたが、晶は努力して飲み込んだ。


 彼女の巨体を考えると、食べる量をなんとかしなければどうにもならないと思うのだが。


「運動にも興味はないですか」


 少し眉間に皺を寄せながら、凪が聞く。しかし、彼女はこの質問にも、首を横に振る。


「……はい。家を離れるのは、嫌なので」


 流石に凪も、ここで予防線を張ることにしたらしい。


「お姉さん、それだとやせるには時間がかかるかもしれませんねえ」

「でも、出来るんですよね?」


 女は凪をにらみつける。顔の肉に埋もれた瞳に、一瞬だけ力がこもった。


に私を痩せさせてください」

「……なかなか難しいですよ。その条件なら、お代は百万いただきます」


 凪は高額報酬をふっかけた。どうせこの条件なら断るだろう、という思いが顔ににじみ出ている。


 しかし女は、胸に顔がつくんじゃないかと思うくらい、深くうなずいた。


「わかりました、お支払いします。絶対に」


 晶は驚く。凪も彼女の顔を見つめながら、せわしなく指でテーブルの表面をなでていた。



☆☆☆




 凪が依頼を引き受けると、女はそそくさと帰っていった。彼女がいなくなってから、力石りきいしがぼやく。


「なんだ、あの無茶苦茶な女は」

「自己主張が強いと言うか、ワガママと言うか……」


 晶は晴海の使ったカップを片付けながら、力石の言葉を肯定した。


「どっからうちのことを知ったかはわからんが、変わった客だな。しかし、一件で百万は捨てがたい」


 晶たちの諦念をよそに、凪は一人で考えを巡らせている。彼の顔は晴れやかだった。


 ああ、金に目がくらんでいる。


「危険なことはしないでよ」

「どんな手を使っても現金が欲しい」

「大人なんだから、もうちょっと本音をオブラートにくるもうね」

「今オークションに洋剣が出てるんだ」

「まだ懲りてねえのか、てめえは」


 力石がすぐ横から釘を刺した。


「そもそも、出来るはずがないだろ。食うのをやめるのも嫌、運動も嫌。そんなんでやせるはずがねえ」


 凪がちらっと力石を見た。力石はさらにたたみかける。


「百万だって、ホントに払ってくれるかわかんねえぞ。たぶん、あの様子じゃ無職だろうしなあ」


 力石にここまで言われても、凪はまだ涼しい顔をしていた。


「ご忠告どうも。だが、痩せたいってんならまだやり方はある。……ただ、彼女の場合、どーも問題はそれだけじゃなさそうだが」

「ん?」

「わかんないならそれでいい。しばらくはこっちに任せてくれ。出来るだけ客の希望に添えるよう、努力はしてみる」


 力石はそれを聞いて、太い首をすくめた。


「頼むから、ヤバい橋は渡るなよ。この仕事やって長いが、知り合いに手錠かけるのはあんま良い気持ちじゃねえんだ」

「分かった」


 さっきまでさんざヘラヘラしていたくせに、凪が急に真剣な顔になった。その顔は、同性の晶でも息をのむほど凜々しい。


「……だからてめえと会うのは嫌なんだよ」


 力石がその顔を見ながら、自虐的につぶやいた。



☆☆☆



 力石の巨体が店の外に消えると、カタリナが姿を現した。


「ようやく帰りおったか、あの猿」

「ずっと見てたの」

「なかなか面白い見世物であったからな」


 くくく、と低く笑うカタリナに向かって、凪が声をかけた。


「おい、カタリナ。もうすぐそっちへ行くからな。今回はあまりうるさく言うなよ」

「うるさく言わずに番人がつとまるものか。前科一犯のくせに」


 他の世界から来た人間は、カタリナの守る地に深く関わってはならない。それが以前から彼女が主張していることだ。


 文明の発展度が全く異なるので、過剰な干渉をしてしまうと健全な発展を損なう。それは、晶にも理解できた。晶たちは過去に一度、異世界で騒動を起こしている。カタリナからすれば、ちくちく嫌味を言いたくもなろう。


「まああの時はあの時でな。今回の依頼人は深刻そうだし、邪魔しないでくれ」

「やけに入れ込むの。ああいうのが好みか?」

「好みじゃねえけど、似てるだけだ。昔の俺に」

「え?」


 やりとりを聞いていた晶は目を丸くした。


 神に祝われたとしか思えないほどの美形かつ、いつも過剰なほど自信たっぷりの凪。


 脂肪で全身が覆われ、美しくなることを放棄し、背中を丸めてぼそぼそ話していた依頼人。


 何から何まで正反対にしか見えなくて、晶は考え込む。その間に、凪が立ち上がった。


「さて、行くか」


 異世界に行くと決めたら、凪はしばらく戻ってこない。じっくり話を聞くのは、当分無理そうだ。


 晶は残念に思いながら、雇い主と一緒に店の階段を上がった。店舗の二階には凪の私室があり、そこには大人数人で囲めるくらい大きなテーブルがある。


 その卓とほぼ同じ大きさの地図が無造作に広げられている。凪が地図の一地点をさすと、黄金の魔方陣が浮かび上がった。ここが、異世界への入り口だ。


 魔方陣に入った凪の鎧が、金の光を浴びて鈍く輝く。彼の姿は、すぐに見えなくなった。



☆☆☆




「……一緒に来い、とは言わなくなったなあ」


 凪が異世界に行って、すでに数日。晶は店の掃除をしながら、つぶやいた。異世界に行くのは凪の仕事で、晶は留守番。最初からその約束だったし、晶も危ないことはしたくない。


 ただ最近、向こうで会った人たちがどうしているかが気になっている。


 領主が変わって、街はにぎやかになっただろうか。レオ、オットー、クロエ。テスラ、ナイム、ホルケウ。彼らは元気だろうか。


 行けば楽しいことばかりではないが、それでも妙に懐かしい時があった。


(ちょっとなら、行っても)


 自分の中の悪魔がささやいた。しかし、地図に触れると、晶の中の天使が超高速で目を覚ます。


(いやいやいや、地図に何かあったら凪が帰ってこられなくなるし。それに、前回あんな危ない目に遭ったじゃないか)


 晶は首を振って、悪魔を追い払った。過ぎた日は、必要以上によく見えるモノ。自分は仕事をこなし、金がたまればそれでいいのだ。


 気合いを入れ直すために、晶は両手で頬をたたき、部屋の片付けを始めた。凪が散らかしまくった部屋がようやく綺麗になった時、階下から焦げくさい臭いが漂ってくる。


「ん?」


 晶は顔をしかめた。さっき茶は飲んだが、それは作り置きの冷茶だ。今日になってから、台所は一回も使っていない。


 だとしたら、この臭いは一体なんだ?


 晶は階段まで行き、下をのぞき込む。すると、一階から真っ赤な炎が吹き上がっていた。


 頭の芯が冷たく凍り付く。晶はとっさに、手提げ金庫と地図を取りに戻った。


 逃げなければ。しかし、店に階段は一カ所しかない。それは今燃えている場所の正面だ。晶は仕方無く、二階の窓を開けた。


 窓の下は土ではなく、隣のレストランの裏口になっている。飛び降りれば怪我をするだろうが、屋根と屋根の間が近く、つたって降りるには困らない。


 晶はまず重い金庫を下に投げ、それから建物づたいに降りようとした。


「!」


 しかし、晶は見てしまった。

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