第34話 山羊は雄ですか雌ですか
自分が投げた金庫に、すっと近づいてきた人影。その人物は、真っ黒なパーカーをかぶり、サングラスとマスクで顔を隠していた。
怪しい。明らかに怪しい。
(まさか、店の火事って、放火……?)
火元は毎日、
まずい。金庫はともかく、この地図だけは誰にも渡せない。
晶は黒パーカーが金庫に気をとられているうちに、反対側へ回り込んだ。こちらは小さな雑貨店になっていて、店と店の間がかなり離れている。しかも店はたまにしか開店しないため、通報を頼むこともできない。
(飛ぶしか……ないか)
晶の手に汗がにじんできた。くじけそうになる自分を、必死に奮い立たせる。
(大丈夫だ。あの時の木と、大体同じ高さだ。熊もいないし。落ち着け)
息を大きく吸い、吐く。ぐっと足に力を入れ、隣の屋根をめがけて飛ぶ。……しかし、伸ばした足は屋根をわずかにかすめただけだった。
失敗した――。
晶の頭を、絶望が埋め尽くす。目を開けているのに、景色が何も見えなくなった。
☆☆☆
「う……」
晶はうめきながら、身じろぎする。指先が、つやのある何かをかすめる。首を動かして横を見ると、青々とした草が辺り一面に広がっていた。
「!?」
晶は驚き、体を起こす。喉がからからに乾いていて、思わず唾をのんだ。コンクリートではありえない、青臭いにおいがむっと押し寄せてくる。
靴は泥で汚れていたが、体の痛みはない。晶は立ち上がり、周囲を見渡した。草原が、地平線の彼方まで続いている。遠くには山があるが、霧に隠れててっぺんは見えなかった。
民家らしきものは、全く存在しない。広い草原のあちらこちらで、山羊と羊がのんびり草をはんでいた。
「まさか、ここは……異世界?」
どう考えても、そうとしか思えない。いきなり家の周辺に、こんな大草原は影も形もなかった。
「魔方陣を踏んだつもりはないけど……」
しかしあの時、晶は地図を持っていた。屋根から落ちたときに地図が開き、近くにいた晶が巻き込まれたとしたら――ありえない話ではない。
めえ、と呑気に山羊が鳴く。その呑気さに、晶のささくれ立った気持ちが少し楽になった。
あのまま現実世界にいたら、確実に黒パーカーに見つかっていただろう。落ちたときに骨でも折っていたら、その場で殺されていたかもしれない。そういう見方をすれば、晶は運がよかった。しかし、他方から見れば、とんでもないことになっている。
「地図……どうなったんだろう」
晶は青くなった。なにせ、横では家が燃えている。犯人が特に地図好きでもなければ、火の中に放り込まれて終わり、ということも十分ありえる。
「とにかく一回、帰らなきゃ」
どれくらい気を失っていたかはわからないが、ある程度時間は経過したはずだ。他の犯罪と違って、火事は目立つ。
いつまでも犯人が店に張り付いていられるとも思えないし、野次馬も集まってくるはずだ。地図が無事か、確かめる時間はある。
しかし、帰り道であるはずの魔方陣が、どこにも見当たらない。草をかきわけてもかきわけても、見慣れた光は発見できなかった。
「……やっぱり」
最悪の予想が、晶の頭をかすめた。地図はもう、この世に存在しないのではないか? だから、世界と世界をつなぐ魔方陣が消滅してしまったのでは?
だとしたら、晶は嫌でもこの世界で生きていかなくてはならない。しかし、家どころか人すらいないこんなところで一体どうしろというのか。前回の旅が生やさしく思えてくる。
「でも、泣いてたって死ぬだけだからなあ」
晶は無理矢理、鬱に傾く思考を切り替えた。弱気になっていてはいけない、とにかく喉の渇きと空腹をなんとかしよう。
目指すは、凪との再会。とりあえず今は、生き延びることだ。
晶は近くにいた草食動物たちを見つめた。確か、山羊のミルクは飲めると聞いたことがある。
「メス……メスはどこだ……」
不審者そのものの台詞をつぶやきながら、晶は角の小さい山羊を探し回る。しかしながら、向こうも当然警戒するわけで、なかなか捕まってくれない。
苛立ちで頭をかきむしりたくなった時、後方から聞き覚えのある動物の足音がした。山羊でも羊でもない、もっと大きくて速い――
「そこの子供。うちの家畜に、一体何してる」
振り向いた晶の目の前には、見事な茶毛の馬が十数頭、ずらりと並んでいた。やや小柄だが、引き締まった体つきの男たちが乗っている。
男たちは揃いのゆったりした上着をまとっている。着物と違って、L字型の襟元が特徴的だ。裏に毛皮がついているのか、袖口からちらりと白い毛先が覗いている。
「一人……か。盗んでもたいして連れていけんだろうに」
奥から、男が近づいてきた。この男だけ特に眼光鋭く、馬も大きな黒馬に乗っている。おそらく彼が、この集団のリーダーだろう。
「ぬ、盗んだりしません」
「さっきの動きは明らかに不審だったが」
「うっ」
「言い訳が下手な盗人だな。それになんだ、その妙な服は」
「うううっ」
晶は思わず言いよどんだ。前回は着替えてくる余裕があったのだが、今回は現代のブレザー姿で来てしまった。男たちが次々に馬を下り、じろじろと晶をなめるように見てくる。
「なんだこのみすぼらしい服は……刺繍も施せないような家なのか?」
「しかし、この金の腹帯はなかなか立派だぞ。この細かい彫り込みを見ろ」
「俺にも見せてくれ」
男たちは、ベルトのバックルに異常なまでの食いつきを見せた。このままボトムまで取られてなるものかと、晶は必死に抵抗する。
そのとき、不用意に近づいてきた男に、たまたま肘鉄が入ってしまった。
「このガキ!」
「うわっ、わざとじゃないんです!」
肘鉄がちょうど鼻に当たってしまったらしく、男は鼻血を出している。晶が謝っても、男は聞き入れず腰の刀を抜いた。
「頭。こいつの首もらいます」
「ひいいいいい」
しかし、頭は静かに首を横に振る。
「やめておけ。子供相手に調子に乗ったお前も悪い」
刀を抜いた男だけでなく、その場の全員が顔を歪めた。頭はさらに続ける。
「粗末な服に、似合わぬ金の腹帯。だが、そこそこ身のこなしは悪くない。となると、身の上は大体予想がつく。家が没落して売られた奴隷が、主の私物を盗んで脱走してきたんだろう」
盛大に間違っているが、さっき助けてもらった手前、訂正もしづらい。
「奴隷ならよく働くだろう。これから忙しくなる、男手は一人でも欲しい。……俺の言っている意味が分かるな」
「う……」
頭がすごむと、男たちは顔を真っ赤にしてうつむいた。
「分かったらとっとと刀をしまえ」
頭に言われて、今度こそ男は折れた。刀をしまい、馬上に戻る。他の男たちも、彼にならった。晶は胸をなでおろす。
「おい、坊主。安心してるとこ悪いが、お前の盗みは許したわけじゃないからな」
「だから盗むつもりはないんです! 絞るつもりはあったけど」
「一緒だろうが。しばらく村で生活してもらうが、今度家畜に手を出したらただじゃおかんぞ」
晶はしぶしぶうなずいた。この集団を逃したら、次はいつ人間に巡り会うか分からない。頭は晶が了承したのを見て、口を開いた。
「馬には乗れるのか」
一度、乗ったことならある。しかし、それは大分前のことだし、ちゃんと手綱がついていた。男たちの馬には、それがない。
(手綱なしでも乗れるモノなんだな……)
男たちの技量に感心しつつ、晶は頭に「乗れません」と伝えた。あからさまに頭ががっかりしたのが分かるが、どうしようもない。
「ではこうするしかないな」
頭は馬につけていたずだ袋から、長い縄を出してきた。晶の腰に縄をくくりつけ、それをさらに黒馬に結ぶ。まるで荷物のような扱いだが、抗議する自由はなかった。
「よし、家畜たちも十分草を食っている。帰るぞ」
頭が言うと、後ろの男たちが口笛を吹く。草むらの中から、白毛の犬が数頭現われた。犬たちに追われて、バラバラだった家畜たちがまとまり始める。男たちは民謡らしき歌を口ずさみながら、器用に群れを追い立てていった。
(僕、これからどうなるんだろ)
楽しそうに歌う男たちとは反対に、晶だけが死んだような顔で地平線の彼方を見つめていた。
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