第28話 自信が汝の鎧なり
翌日、
決戦会場には、映画館のような赤イスがずらりと階段状に並んでいる。ケーキを映すための大きなスクリーンもあり、後ろの方の席にも見えやすいよう配慮がされていた。
晶たちは
まだ勝負開始まで時間があったので、晶たちは飲み物を買いに外に出た。普段は見かけない、ごついカメラを下げたカメラマンや、記者たちの多さに晶が目をとられていると、「あんまりキョロキョロするなよ」と凪に笑われた。
「気を付けるよ。……でも、やっぱりちょっと異空間だな」
晶が肩を落とす。
「飲まれるな飲まれるな。コーラでいいか?」
凪が晶を置いて、自動販売機へ近づいていく。するとそこへ、横から全身黒ずくめで、おかっぱの女が近づいてきた。女はがりがりに痩せているため、まるで針金が服を着ているようだ。その後ろにはちきれそうな腹をした、年配の男が立っている。女とは対照的に、男は純白のコックコートとコック帽を身に着けていた。
「あなた、今日のために雇われたスタッフ? きれいな顔してるわね、女の子にうけそう。あの子と手を切って、うちと契約しない?」
「あの子?」
凪がわざとすっとぼけると、女は胸を張った。
「とぼけるの? 今日の対戦相手、
この女が悠里の対戦相手か、と思いながら晶は美姫をじっと見つめた。確かに、目元はわずかに悠里に似ている気がする。ということは、後ろの年輩の菓子職人は裏切り者の
「うちならこれからどんどん大きくなるわよ。向こうのチーフシェフもこちらについたくらいだから。とりあえず今からこの会場を出て、約束をすっぽかしてくれればいいわ。勝負が終わったら連絡するから、番号ちょうだい」
当然教えるものだと信じ込んでいる様子で、美姫が携帯を取り出した。その後ろで恵比寿顔のまま、五室がうなずいている。二人そろってバカ面をさらしている姿に、晶は怒りがこみ上げる。
「……大きくなるのかねえ。ろくに腕もないのに人の店を奪ってまでやりたがる職人もどきの経営者に、年甲斐もなく金儲けの話に飛び付いて何とも思わない軽はずみなチーフ。勝つ前提で話をしているが、派手にすっ転ぶ予感しかしない」
「なんですって!」
自信たっぷりに凪に言われて、美姫と五室の目が思いっきり三角につり上がる。
「賭けてもいい、あんたらは今日負けるよ。吠え面見るのが楽しみだ」
「あんな子が勝てるわけないじゃないの。自分がどれだけ恵まれた環境にいるか知りもしないで、いっつもめそめそべそかいてばっかり。何かあればおじさんの影に隠れればなんとかなると思ってるんだから。それにあの不細工な髪はどうやったって……」
美姫が猛然と口を開いた。行きかうカメラマンたちが、彼女の声の激しさにぎょっとして振り向く。
五室がさすがに止めに入ったが、美姫は完全にそれまでの上品そうな顔を捨ててわめきたてている。どうしたものかな、と晶と凪が困っていると、ふいに背後から悠里の声がした。
「あら、美姫さん。お久しぶりです」
今さっきの罵声が聞こえていないわけないのに、悠里は涼しい顔をして堂々と胸を張っている。
「な、あ、な」
悠里を見て、美姫が外れんばかりに口を大きく開いた。
さらに一夜、精油を使用したことで、悠里の髪は完全なストレートヘアーになっていた。腰まで伸びた、黒翡翠のごとく艶やかな髪を見せびらかすように、悠里は大きく首を傾ける。
「な、なによ。急に、偉そうに」
明らかに、美姫の眼が泳いでいる。晶は残酷なまでの容姿の力を思い知った。美しいということは、それだけで一種の鎧となるのだ。
元のままの悠里がいかに必死に訴えたとしても、美姫は歯牙にもかけなかったに違いない。しかし今は、堂々としたライバルとしての物言いだ。
「……美姫さん。ひとつ聞くわ。そこまでして大きくなって、一体何がやりたいの?」
「も、もっとたくさん店を出して有名になるのよ。決まってるじゃない」
「答えになってないわ。有名になって、何がしたいの」
悠里の問いに、美姫は答えることができなかった。無理もない。彼女の中にあるのは、自分がちやほやされたいという最終結果のみ。そもそもなにをしたいかという、芯の部分がすっかり抜け落ちているのだ。
「あんたはどうなのよ。さぞかし、立派な考えがおありなんでしょうね」
想像通り、美姫は質問には答えない。かわって相手に返答させようとした。しかしそれも、悠里の想像通りだろう。
「無駄な物を、世界で一番美味しくしたいの」
「無駄?」
「そうよ。お菓子って、無駄なものでしょう」
米やパン、肉に魚、野菜に果物。バランス良く栄養素を摂取できるものを食の優等生とするなら、ケーキは完全に落第生だ。カロリーも脂肪分も高く、栄養はほどんどない。別に食べなくたって、死にはしない。
「それでも望まれるのは──無駄こそが、余裕であり幸せだから。祝いの場、和みの場にしか、お菓子の居場所はないの」
だから、甘味は美味しくなくてはいけない。楽しい場を彩るものの使命として、『場』を汚すわけにはいかない。もし期待を裏切ったら、食品としての出番はなくなってしまう。
「だから少しでも、先に行きたい。これが、私の答え。メディアや全国展開なんて、ただのおまけ」
「…………」
自分が一番欲しかったものをあっけなく足蹴にされて、美姫が立ちすくんでいる。
「でも、そのためには足がかりがなきゃね。だから、父の店は譲らない。絶対によ」
悠里は胸を張った。その目はすでに、未来を見ている。
「今日はくれぐれもフェアにいきましょう。申し訳ないけれど、その方はうちがご招待した大事なゲストなの。お話は今度にしてください」
悠里は一瞬目だけ動かして五室を見た。しかし、何も言わずにくるりと背を向ける。美姫と違って、裏切り者には言葉もいらぬということだ。晶と凪は足取りも軽く彼女についていく。
あまりに女王然とした悠里に、結局美姫も五室も何も言えないままだった。人影のない廊下にきてから、晶は口元に笑みを浮かべて凪に聞く。
「見た? あの顔」
「おうよ。いやー、面白いもん見せてもらった」
凪に褒められて、悠里は軽く肩をすくめてにこにこしている。
「源さん、緊張してる?」
「自分でも意外なんですけど、今まで一番落ち着いてます。やれることをやりつくしてしまったので。存分に戦ってきます」
悠里は愛おしげに自分の髪を手ぐしで梳きながら言う。今までの自分たちの仕事は、全てこの一瞬のためにあったのだ、と晶は思った。晶と凪は、無言のままがっちり悠里と握手を交わす。
「源さん、そろそろお時間です」
廊下の向こうから、巨大な赤い蝶ネクタイをつけた男が走ってきた。男は今日の司会者だと名乗り、悠里に会場へ移動するよううながす。彼女の背中に向かって、晶は叫んだ。
「観覧席から見てるからね!」
悠里は背筋を伸ばし、堂々とした姿のままホールの中へ消えていく。それを見送ってから、晶たちは戦いを見逃さないよう、あわてて自分たちの席に戻った。
☆☆☆
勝負の開始時間になった。七百名の観客を収容できるホールは、招待客で埋まっている。取材陣もいたが、大半は美姫が金にまかせて呼んだ応援であることが、ホール内の会話を聞いているとよくわかる。暇なこって、と凪がよく通る声で言うので、晶はどぎまぎした。
幸い、客と言い争いになる前に会場の照明が落ちた。スポットライトが当たり、司会者がしずしずとステージ中央へ進み出てくる。
「お集まりいただきありがとうございます! パティシエ世界大会において、チョコレート部門で優勝した源シェフの開いた名店、マリナーレの後継者に相応しいのは誰なのか? その問いに答えを出すべく、これより、ケーキ対決を行います」
司会者が勢いよく告げると、会場から一斉に拍手がおこった。
「味に関しては、グルメ雑誌の雄、ミークが選んだ三人の食通による採点です。味部門では、各自持ち点五十点、合計百五十点が最高となります。残念ながら、店主の
司会者に紹介され、痩せた男性が車椅子の上から軽く会釈する。悠里の父、和也は面長な顔の優しい顔立ちの男だったが、今は顔がひきつっていた。これからの娘のことが気になって仕方ないのだろう。
「そして、今回のコンテストはこれだけでは決まりません! 情報が溢れる現代において、お客さんが注目するだけのインパクトを与えられるかというのは、店が生き残るための大きな課題となりつつあります」
ここで言葉を切り、司会者はぐるりと会場を見渡した。
「そこで今回は、外観・アイデア・アピールを高く評価いたします。こちらの審査員は、国内で高い評価を受けるパティシエ三名。彼らには、五十点ずつ持ち点が与えられます。さらに、編集部が選んだ一般審査員百人にどちらが印象的だったか、投票していただきます」
司会者がさっと舞台袖に向かって手を差し出すと、年齢層がばらばらな男女が、ぞろぞろと出てきた。
「彼らの票、一票につき二点として計算します。味と外観の点数を合計し、得点が高い方が勝利となります! では、若きパティシエ二人と、彼女たちのケーキに入場していただきましょう!」
司会者が声を張り上げるのを聞きながら、凪が冷めた声でつぶやく。
「もしパーフェクトが出れば五百点か。そのうち三百五十点がデザイン性とパフォーマンスにかかってる。思ってたより外観の比重が高いな」
晶もうなずきながら、会場の準備が整うのを待つ。まず悠里と美姫がステージ中央に進み出て、観客に向かって一礼した。明らかに美姫にかけられた歓声が多かったが、悠里は余裕の表情のまま、感情を顔に出すことはない。
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