第26話 逆境こそが華の素

「薬ってのはな。どんなにいいものでも、とりすぎると毒になって副作用が出るんだ。体の中でうまく処理できなくなるんだな。お前だって、ケーキ一個勧められたらありがとうって思うけど、一回に百個食えって言われたらおかしい奴だと思うだろ」


 なぎに言われて、あきらはうなずいた。


「多ければいいってものじゃないんだね」

「少なすぎてもだめだけどな。体の中でちょうどいい濃度になるような量を選んで使わないと、今度は全く効かないってことになる」


 凪は晶に説明しながら、精油をぽたぽたとキャリアオイルの中にとかしていく。


「ちなみに、有効量の幅がえらく広い薬品と狭い薬品があってな。危険性が高くなるのはどっちだ?」

「狭い方」

「よくできました。そういう薬は血中濃度を測りながら、使う量を決めたりする。専門用語でTDMだな」


 凪は人差し指を立てた。その間にもう一方の手で、茶色の遮光瓶に完成したオイルを手際よく流し込んでいく。


「ちなみに、体の中にだらだらいられる薬と、すぱっとなくなる薬があってな」

「長い薬が、一日一回飲めばいい薬とかになるわけね」

「飲み込みが早くて結構。今じゃ一週間に一回とか、一ヶ月に一回でいい薬もあるんだ。医学の進歩だな」


 今度は、凪が水とエタノール、精油を透明なボトルに入れて振り混ぜた。終わったら、スプレー口を取り付けて、さっきのオイルと一緒に紙袋に入れる。


「ま、初級者講座イチはこんなとこだ。ためになったか?」

「はい」


 珍しく晶は素直にうなずき、二人で階段を下りていく。一階の時計を見ると、時刻はようやく七時半になったところだ。ようやく窓の外が明るくなっている。


「玄関の掃除、してくるよ。もう少ししたらみなもとさんに連絡して」


 晶は早くも寝る体勢に入った凪に声をかけてから、玄関を開けた。その途端、外から冷たい空気が一気になだれこんでくる。


「うー……さむ」


 晶は首をすくめながら、たまった玄関の綿ごみをはこうとした。が、そこにいるはずのない人の姿を見つけて一瞬絶句する。


「み、源さん?」


 店の前の冷えきった石段に腰を下ろして、呆けたような顔をしているのは確かに悠里ゆうりだった。我に返った晶が恐る恐る声をかけると、悠里の大きな目からぼたぼたと涙が溢れ出す。


「わ、わたし、わたし……何がいけなかったんでしょうか」


 それだけ言って、悠里はただ泣きじゃくっている。晶はとりあえず、彼女を店の中につれていき、ソファに座らせた。奥の部屋で船をこいでいる凪を引きずるようにして自分の横に配置し、晶は悠里が話し出すのをじっと待った。


「……すみません、取り乱して」

「よっぽどのことがあったんでは?」


 凪が水を向けると、悠里はせきを切ったように話し出した。


「今まで私は、自分の外見やプレゼン方法は気にしていましたが、料理の味や加工技術は絶対に負けることはないと思っていました。……それが、今朝。一番古株で、父が特に頼りにしていた職人さんが、店をやめて従姉妹につくと言い出して」

「なんで!!」


 土壇場にきて、このありえない展開に晶は思わず立ち上がった。凪にぎろりとにらまれ、あわてて座り直す。


「それじゃ約束が違うよ。あくまで悠里さんとその従姉妹の対決だったはずだ」

「……店の人間は手出し無用ですが、この職人はもう店をやめるのだから問題ない。それにあくまで細部を手伝うだけだと言い張られまして。私もアシスタントさんは使いますから、そう言われるともう理論的には反論できなくて」

「えらく向こうが強気に出てきましたね。寝返りの動機は金ですか?」


 凪が遠慮もくそもない聞き方をする。悠里の顔が、さっと赤くなった。


「もちろんそれもあったみたいです。けれど、それが全てではないと。将来性がある方を自分は選びたいし、その手伝いをしたいのだと言われました」


 ひどい言い方だと晶は拳を握った。同意を得ようと凪を見たが、凪の顔はあくまで落ち着いている。


「そのおやめになった職人さんは歳いくつですか」


 しばらく黙り込んでいた凪が、いきなり悠里に聞いた。晶はなぜそんなことを聞くのかがわからず、首をひねる。


「今年、六十です。ちょうど還暦のお祝いをさし上げたところなので……」

「なるほどねえ。これでわかった。その職人が、従姉妹さんの将来性うんぬん言ってるのはただの言い訳だから気にしなくていい。単にそいつが金につられて裏切ったってだけだから」

「そうなの?」


 晶は目を丸くして聞いた。


「世界大会で通用するほどの腕がある職人が、味がまずくてチェーンに押される店のポンコツパティシエに将来性なんぞ感じるかよ。本気で確信してるとしたらそいつの頭がおかしいぞ。それなりに名のある職人が、単に金で横っ面はたかれたとは言いづらくて見栄をはったんだよ」


 凪は自信たっぷりに言うが、晶はまだ信じ切れなかった。


「でも、そんなベテランの職人さんがお金につられて裏切るなんて」

「長くいるからこそ裏切ったんだよ」


 凪が吐き捨てる。悠里が青い顔をしながら、唇をかむ。


「長く職人やってるってことはな、それだけ働く残り年数が短いってことだ。若い連中なら、大事な勝負時にさんざん世話になった店主を裏切ったやつというレッテルを貼られたら、これから何十年も悪い噂がついてまわる。

 だが、長く見積もってもあと数年で引退する職人ならどうだ? どうせ俺はもうすぐやめるんだし、後はどうなろうと知ったことか。金さえもらえればって考えがあってもおかしくないだろ。よっぽどの忠義者以外は、年食ってる人間が一番買収しやすいんだよ」


 凪は悠里に近づき、じっと彼女の目をのぞきこんだ。


「悠里さん。今回の件では、自分がなにかまずいことをしたんじゃないかと気にする必要はない。彼はあなたと金をはかりにかけて、金をとった。

 大人の世界はそういうことも多々あります。悪いことは言わない、もうこうなったことは仕方ないと諦めて、勝負に全力を尽くすことです。それとも、勝負自体を諦めますか?」


 あけすけに言われて、悠里はぎゅっと口をつぐんだ。そして、勇気を奮い起こして声をあげる。


「やります」


 これで悠里の腹は決まった。もう涙は乾いている。猫背になっていた彼女の背中も、今はまっすぐに伸びていた。

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