第20話 思い出の中の君

 あきらは背負われたまま、ちらりと下を見る。そこにいたのは、まさに屈強な森の王だった。


 立ち上がれば全長数メートルは下らないであろう、巨大な熊が晶たちがキャンプしていたところをのしのしと歩いている。ふさふさとした茶色い毛が、燃え残った焚き火の火をうけて輝いていた。


 肉の臭いはするのに、誰もいないのが不満なのか、熊は低くうなる。そのままうずくまったかと思うと、熊はいきなり天幕に飛び付いて一気に引き倒した。


 早い。


 あれだけの巨体なのに、重量があるのが嘘のように、熊は飛ぶ。熊の体当たりを受けて、屈強な男たちがたてた天幕が、あっという間にただのぼろ布と化した。熊が移動しているだけなのに、地が震えるような激しい物音がした。


 憎しみをぶつけるように、熊は天幕の布をずたずたに食いちぎって、地面にばらまいていく。火を怖がるどころか、堂々とたき火の残りに近づいて、種火を踏みにじる。


 何者にも止めることができない、圧倒的な力。まさに『森の王』と呼ぶにふさわしい迫力に満ちた姿だった。


「あれが、堕ちた王だ」

「堕ちた?」


 晶がさらにホルケウに聞き返そうとしたところで、熊が大きく吠えた。周囲すべてにとどろく王の咆哮に、意思を持たないはずの植物さえも頭を垂れる。晶はしばらく、まばたきも忘れてその荒々しい姿をじっと見つめていた。


「全ては、前領主が腹心の部下に寝首をかかれたところから始まっている」


 ぽつりとホルケウが話し出した。


「そこまでは、人間の世界でまあある話だ。だが、新任の領主はあろうことか、死体を弔うどころか、腹いせにゴミみたいに森へ捨てやがった。それを、腹を空かせた森の主が見つけちまったのさ」


 ホルケウは、怒りをたぎらせたまま空中をにらみつける。


「捨てた季節が悪かった……秋から冬の始めにかけては、熊が冬眠のために食物を探してる時なんだ。今年は木の実のなりも悪かったから、熊が比較的人里の近くまで来ていたのもあったしな。それで、森の王は人間の肉の味を覚えてしまった」


 ざっと風が吹き抜けた。晶は黙ってホルケウの話を聞き続ける。


「もとは、我々森の民とも距離をおいて王は共存していた。しかし、人の肉の味を覚えてしまった王は変わり果てた。そしてとうとう、俺たちの集落が襲われた」


 晶はくっと息をのんだ。


「大人一人、子供四人が命を失った。死んだ子供のうち一人は、死体になってもまだ熊に連れて行かれた。俺たちが見つけたときには、足の骨しか残ってなかったよ」


 それから、獣人たちは生きるために必死で村の位置を変えた。泣く泣く今までの住み慣れた場所を離れ、ようやく落ち着いたときに、領主が森に手を伸ばそうとしていることを知ったのだという。


「自分の勝手な行動で俺たちの生活をめちゃめちゃにした上に、今度は高価な薬草のために森に兵を入れ始めた。野郎、最初から最後まで森が自分の便利な持ち物だと思っていやがる」

「それで、領主の兵を倒す囮の小屋を作ったりしたんですね……」

「ああ。テスラが特に活動熱心でなあ……なにせ、王に連れて行かれた子とは、幼なじみで仲が良くて……」


 ホロケウが言葉を詰まらせた。そういうことだったのか、と晶は全てが腑に落ちた。


「そういえば悪い知らせ、まだ言ってなかったな」

「なんとなく、見当がつきます」


 そう言って晶は笑顔を作った。


「ラヴェンドラの自生地は、王の活動範囲内だ。あそこは背の低い植物しかなくて、王に見つかったら隠れるところも登る木もない。死ぬ可能性があるので、俺たちでも足を踏み入れない。知恵があるものなら、とても行くとは言わんな」


 ホロケウが言葉を切る。警告してもらったのは十分わかった。だが、晶は止まる気はなかった。


「行きます」

「バカなのか?」

「ええ」


 晶はぎゅっと長剣をにぎりしめたまま、うなずいた。それを見たホロケウが大きく笑い出す。


「……本当に、おかしな男だ。よかろう、我らもできる限りの力添えをしよう」

 



☆☆☆





 明朝、晶たちは装備をまとめて村を出発した。細い山道を落ちないように進み、ようやく開けた場所に出た瞬間、晶は小さく声をあげた。


 ぼんやりと広がる薄赤の空の下、鈴なりにシャボン玉のような実をつけた紫の草が地面を埋め尽くしている。鮮やかな紫の絨毯に心を奪われ、晶は駆け寄った。


 近くで見ると、花はますます美しかった。一つ一つの実が、あがったばかりの太陽の光をうけてきらきらと輝き、イルミネーションの中央に立っている気分になる。おそるおそる一本つみとって臭いをかいでみると、おだやかな甘い匂いがした。


「おい、早くしろっ」


 いざという時に備えて、後ろの林に弓を持った獣人たちが待機している。彼らに怒られて、晶ははっと我にかえった。そうだ、いつ森の王がここにくるかわからない。さっさと目的を果たすべきだ。


 晶は獣人たちから貸してもらったずだ袋に、ザクザクとナイフで切り取ったラヴェンドラを入れていく。みるみるうちに、袋の半分くらいまで紫の草で埋まった。


(これで足りるかな……でも、もうこられないかもしれないし、できるだけとっておこう)


 少し悩んだが、晶はまたラヴェンドラの採集を始めた。その時、不意に足裏で誰かの靴を踏んづけた感覚があって、晶は立ち止まった。おそるおそる振り向くと、そこに端正な顔立ちの少年が立っていた。


「ぎゃあ」


 晶は声を上げて飛び上がる。少年は晶と同じくらいの年だろう。きちんと切りそろえられた短い金髪を風になびかせ、獅子の紋章が入った鎧を着こなしている。


 こんな時間、こんな場所に自分以外の少年がいるはずがない。この森に死体を投げ込まれた領主の息子が化けて出たに違いないと晶は思った。


「ゆゆゆゆゆゆゆ、幽霊。成仏してくださいっ」

「……なんだ、まさか僕をルシャールと間違えているのか? 光栄だが、落ち着いてよく見てみたまえ。違うだろう?」


 少年ににっこり笑われて、晶は我にかえる。よく見れば、少年にはちゃんと足がついている。


「わかったかい? 君は、ルシャール付きの下男だったのかな」


 貴族の友達ではなく下男と間違われていることに己の限界を感じながら、晶は少年に状況を説明する。身分の高いはずのその少年は、ふんふんとうなずきながら晶の話をよく聞いてくれた。


「そうか、捕まった雇い主を探してねえ……わかった、牢の中は気にかけておくよ。だから、ここで僕を見たことは黙っていてほしいな」

「どういうことですか?」

「僕はこれから、領主のところへ行く」


 少年が厳しい顔で言う。晶は、前に領主のところで聞いた会話を思い出した。そういえば、誰かが領主に反乱を起こしたと言っていた。


「あなたが、オットー様? なぜここに?」

「オットー・ラ・セルダは兄だ。僕は、レオ・ラ・セルダ。……従兄弟のルシャールと、一度だけここを探し当てたことがあってね。大人になったらまた来ようと約束していた。もはやルシャールはいないけれど、出陣前にどうしても見ておきたくて」

「……レオ様、武運をお祈りします」


 晶はレオの心中を思い、静かに一礼した。そのまま、満杯になった袋を持ってレオから離れる。


(あれが、前領主の敵をとろうっていう従兄弟の一人か……)


 年は若かったが、どこの馬の骨ともわからない晶の話をまじめに聞いてくれた。少なくとも、今の領主よりもましな政治をしてくれそうだ。あとは、なぎがうまく逃げられるように願うしかない。


「若様、後ろーッ!」


 晶が数歩歩いたところで、突然、右手から鋭い女性の声が聞こえてきた。

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