第13話 晶、異世界へ
「百軒くらい?」
「七百軒です。これは純粋な洋菓子店だけで、パンなどを併売しているところを含めれば千を超えるでしょう」
あまりの多さに晶はのけぞった。
「しかも今はインターネット全盛期です。全国の名店とも勝負して勝たないといけない。どんなに味がよくても、お客さんの眼に入らなければないのと同じなんですよ」
「それで、従姉妹の提案に納得したと」
晶が聞くと、悠里は顔をくしゃっと歪めて笑った。
「はい。今までの私は、ずっと自分を直視していませんでした。変わろうとなんてしなくても、アピールなんてしなくってもなんとかなるって言い聞かせて。お店だって、無難にやっていこうって思ってました」
悠里はゆっくり店の刻印が入った紙袋をなでながら、話し続ける。
「でもそれじゃダメだってことが、調べてみてよくわかりました。従姉妹のお店は、正直うちとは比べ物にならないくらいまずいです。原材料費をきりつめてるのはわかりきってる。それでも隣に巨大チェーンができるまでは、繁盛してました。見た目だけ派手にして、メディアにひっきりなしに露出してたから」
優れた人物が、ものが、必ずしも日の目を見られるとは限らない。ゴッホだって、生きている間には一枚しか絵が売れなかった。そこにある、というだけでは何の価値も生じない時代になってきているのだ。
「これからはひとりでぽつんとしてたら、置いていかれるだけです。父が死んだら、私だけでやっていかなくちゃならない。今回のことは、店を残せる本当の意味での跡継ぎになれるかの分かれ目だと思ってます」
ふと晶は気になっていたことを悠里に聞いてみた。
「それ、つらくないですか? もともとはそういうこと、あんまり好きじゃないんでしょ」
「好きじゃないです。でも、私が一番辛いのは、お菓子が作れないことと父のお店がなくなること。ケーキの外見を変えたり、私が宣伝に加わるくらいでそれが防げるならなんでもないって気づいたんです。もう、いつか誰かが認めてくれるだろうって座って待ってるなんてしたくない」
悠里は店の紙袋を胸に抱く。今の彼女には、覚悟を決めた人間にしか出せない、朝の光のような爽やかさがあった。
彼女の依頼を断るなら今だ、と晶は思った。悠里は立派だ。だからこそ、与える悲しみはできるだけ少なくしてあげたい。
凪はもう牢に入れられてしまっているし、残された日数はいきなり半分になってしまった。期限ギリギリになって打ち明けるより、今言ってあげた方が遥かに親切なのは間違いない。
簡単だ。
凪が怪我をしたとか倒れたとか、適当な理由をつければいい。地図を見せなければ、ばれることなどない。余計な期待を持っていると、いざとなったら辛いだけというのは、自分が身をもって体験している。
しかし、晶の中でもう一人の自分が叫んでいた。
いいのか、ここで彼女の希望をつぶしてしまっても。本当にお前にできることは全てやったのか、と。
「……
「はい?」
いきなり晶に聞かれた悠里は、ぽかんと口を開ける。それでも何か重大なことが起きるらしいと分かったのか、すぐにきゅっと口を結んでうなずいた。
晶は急いで悠里を二階に連れていった。広げたままの地図と、古びた本がつまった本棚を見て、悠里は圧倒されている。
「なんじゃ小僧。叱られた腹いせに女でも連れ込んだか」
悠里に向かって、カタリナが失礼な物言いをした。相変わらず小柄な体に似合わず態度がでかい。
「いえ、違いますよ。……昨日は、すみませんでした」
晶が謝ると、カタリナはひらひらと空いている左手を振った。どうやら昨日のことは水に流してくれるようだ。
「こ、この人は?」
悠里がカタリナを見つめて、あっけにとられている。晶はさっと手を伸ばして説明を始めた。
「今回の依頼を成功させるためのガイドさんです」
「……貴様、まさか」
これから起こることを察して黙りこんだカタリナを尻目に、晶は片っ端から凪のロッカーをあける。
よくぞここまで入れたな、と言いたくなるほどありとあらゆるガラクタが詰め込まれていたので捜索は難航したが、ようやくシンプルな長剣と粗末な農民服を見つけた。
悠里に断ってから、晶は手早くその服を身につけた。もとは凪の私物なので、丈の長さが合わなすぎて泣けてきたが、何回も裾を折り返してようやく納得のいくものになる。
プレートメイルはどう頑張ってもサイズが合わず、腹まで覆う形のまま装備する。懐中電灯は却下されたが、小ぶりのナイフと双眼鏡は持って行ってもいいとカタリナは言った。ありがたくバッグ代わりの皮袋に放り込む。
幸い、昨日カタリナにもらった右手の赤い魔方陣はそのまま残っていた。言葉が通じるだけでだいぶ困難は減る。途中で効果が切れないことを祈るしかない。
最後に銅貨と銀貨、それに大事そうな書類一式がポケットに入っているのを確認してから、晶は大きく深呼吸をする。
こんなことをするとは、ここで働き始めたときには夢にも思っていなかった。しかし驚くほど、晶の気持ちは落ち着いている。
「あ、あの……一体どうなさったんですか?」
さっきから晶の行動を黙って見ていた悠里が、おずおずと聞いてきた。もう帰りたい、というオーラが出まくっている。晶はゆっくり説明を始めた。
「実はですね、僕の雇い主……この前、源さんの話を聞いてただらしない男なんですけど……そいつがちょっと今、厄介なことになってて、このままだと依頼の期限に間に合わないんです」
悠里の顔がひきつる。しかし彼女はすぐに笑顔を作った。
「そうですか。こちらの都合で日程も早まってしまいましたし、仕方ないですね。他をあたりましょうか」
「他があるんですか?」
晶がばっさり聞くと、悠里は下を向いてしまった。そうだろうな、と晶は思った。普通の美容院や薬でなんとかなるレベルの悩みなら、こんな路地の怪しげな薬店に足を踏み入れたりしない。
「凪は動けない。だったら僕がなんとかします」
「そんな、無理しなくても……」
心配そうに言う悠里に向かって、晶は声を低めて言う。
「じゃあ、いいの? お父さんのお店が継げなくても。横から出て来て、腕もないのにやりたい放題の奴に取られてもいいの?」
「それは……」
「僕は源さんを勝たせたい。理不尽なことが人生ではよくある。でも、僕らにはそれを拒否する権利がある。戦うための声と体がある。だから、できるだけのことはやってみる」
「…………」
「もう一度聞くよ。お店を継ぎたい?」
「はい! 私、何をしたらいいですか?」
悠里がきっぱり言った。晶はすかさず彼女の手を引いて、地図の前に進み出た。
「誰彼かまわず見せるでないわ」
カタリナは露骨に嫌な顔をしたが、晶は構わず地図を広げる。巻かれていた羊皮紙が完全に広がると、金色に輝く魔方陣が地図の上に現れた。目を白黒させている悠里に向かって、晶は言う。
「……これから、僕はちょっとこの世界からいなくなります。この地図が世界と世界をつなぐ入り口です。源さんは地図がなくなったりしないように守っていてほしいんです」
「わかりました。家に持ち帰っても?」
「いや、なるべく人の眼に触れない方がいいんです。僕がいなくなったら、この地図をそこのばかでかいクローゼットにつっこんで鍵をかけてください。あとは火元の確認だけして、玄関の戸締まりをお願いします。それと時々、店内に異変がないか様子を見に来てくれると嬉しいです」
晶は、凪から預かっていた玄関とクローゼットの鍵を悠里に渡す。
「……わかりました。でも、本当に無理だと思ったらすぐに帰ってきてくださいね」
悠里がぎゅっと鍵を握りしめながら言う。晶は深くうなずいて、魔方陣に片足を踏み入れた。カタリナが音もなく上空から降りてきて、晶の横に立つ。
「まったく、あのバカが雇うだけはあるわ。貴様も、あいつと同類じゃ」
晶はしれっとカタリナに言い返した。
「誉めてます?」
相変わらず偉そうなカタリナが、ふんと鼻を鳴らす。
「ぬかせ」
晶はくすくす笑いながら、もう一方の足を魔方陣の中へ入れた。ぼっ、と乳白色のまばゆい光がたちこめる。
今度は凪がいない、たった一人の旅だ。
音だけが聞こえてくる。
かりかりかりかり。
がきがきがきがき。
最初は小さな音だったはずなのに、加速度的に勢いを増していく。黒板をひっかくようなかん高い異音ができあがったので、晶は両手で耳を塞いだ。
(なんだ、これは……? 最初には、なかったぞ)
同じ体勢のまま、目だけを前に向ける。すると目の前にだけ、わずかな光がこぼれていて……その中に巨大な怪物の頭があった。
怪物は晶に気付き、牛のような縦長の口をあける。のこぎりのような骨格の中でも一際目立つ二本の歯が、獲物の肉を裂こうと待ち構えていた。
「!!」
本当に驚くと、言葉が出なくなる。晶は剣を抜くのも忘れていた。しかしその時、銀色の一閃が怪物をはね飛ばした。
「ちっ、懲りもせず」
「カタリナ!」
晶は耳を覆っていた手を外し、ようやく剣を手にする。怪物の全身を、視界にとらえた。
(ドラゴン……?)
蛇のような細長い体に、大きな翼。そこだけなら優美に見えるのに、二本しかない太い足と血走った目が、怪物の神性を損なっていた。
「キイイイッ!!!」
竜もどきは不快な声をあげながら、旋回を繰り返す。まだ、晶を狙っているようだ。
こいつを連れたまま、異世界には行けない。どうにかして、ここへ置いていかなければ。
(近づいてくれれば、なんとか……)
嫌な汗が出る。しかし弱音は吐けない。ここから行く場所では誰にも頼れないと、腹をくくったはずだ。
気配がする。──しかも、後ろから!
(やっぱりそうきたか、くそっ!)
襲う立場なら、晶だってそうする。相手の手が届かない背中側を狙えるのなら、そこへ行かないのはただのバカだ。
(じ、自分だけ翼があると思って……)
言ってもしょうがない怒りばかりが湧いてくる。晶はとっさによけられるよう、足に力を入れた。
「ギャッ!!」
しかし事態は予期せぬ方法へ進む。何故か後ろにいたはずの竜がはじき飛ばされて、晶の目の前に転がってきたのだ。
(今だ!)
理由はなんでもいい。この機会を逃したら、次はない。晶は剣を立て、相手の牙とがっちりかませた。
支点は左手。牙の根元を抑え、相手の動きをこちらが読むための準備だ。
「フーッ、フーッ」
思うようにいかない相手に焦れて、竜の動きが単調になってきている。こうなると地力の差があっても、読みやすい。
(押し続ければ、先に疲れるのは向こう……)
晶はじっと待っていた。
異世界に向かう途中、闇の中。相手は化け物。そう思っていたら折れてしまう。ここはいつもの試合会場で、相手はただの生き物──やるべきことは、何ひとつ変わらない。
その時一瞬、竜の歯から力が抜けた。晶は思いきって歯を押し、相手の体勢を崩す。
「やあっ!」
そして体を引くと同時に──剣を回し、相手の頭を打った。手にずん、と重い衝撃が走る。
(入った、引き面……どうだ!?)
晶にとって、今できる精一杯。しかし……竜はわずかにふらついただけで、また翼を動かし旋回し始める。さっきよりも、遥かに速い。
「ええっ!」
相手を怒らせただけだった。そう気付いて蒼白になった晶の顔めがけて、竜がつっこんでくる──
「とは、いかんのじゃなこれが」
今までなりを潜めていたカタリナが、晶の前に現れた。
「銀環」
彼女が唱えると同時に、空中に巨大な車輪が二つ現れた。それは凹凸を持ち、がっちりと竜の首を挟み込む。
逃げ場を失ってもがく竜に、カタリナが冷ややかに言った。
「坊主ばかり見て私を見失ったな。この狭間の番人を忘れるとは」
きりきりと規則正しい音をたてて、車輪が回る。竜の首元にあったわずかな隙間が、ますます狭くなっていった。
「退け。今はまだお前が生まれる時ではない。あくまで戦うというなら、貴様の首をこの場でねじ切ってくれる」
竜はカタリナの言葉を聞き、全身を震わせた。血走った瞳に、わずかに曇りが生じる。
(泣いている……?)
晶にはそう見えたが、真偽を確かめることはできなかった。竜が身をよじらせ、車輪から抜け出る。そのまま怪物は、暗い闇の中に溶けていってしまった。
「ふう」
大して動いてもいないのに、カタリナはぐるぐると首を回す。
「……あれは、何なの?」
「まつろわぬ者じゃ。名前はない」
カタリナが言うにはこうだ。世界と世界の間には、生まれられなかった者たちが住まう隙間がある。たまにそういう哀れな存在が、這い出してくるのだ。
「それを狩るのも、番人の仕事じゃ」
彼女は胸を張るが、結局逃がしてしまっている。それでいいのか、と晶は考えたが指摘するのをやめた。
「カタリナ一人でやってるの? 大変だね」
「七賢人がおる」
「ケンジン?」
晶が聞くと、カタリナは顔をそむけた。
「世界の理を知る者たちじゃ」
「へえ、なんか会ってみたいな」
「知らぬ方がよい。性根が曲がった連中揃いじゃ」
カタリナは容赦なく切り捨てる。なんとなく、そこには触れてほしくない雰囲気を晶は感じ取った。
「しかしお主、なかなか根性すわっとるの」
さっきの引き面が評価されたようだ。心なしか、カタリナの口調が優しい。……誤魔化したかっただけかもしれないが。
「だって、自分でなんとかしなきゃいけない世界なんでしょ?」
「その通りじゃ。……意気に免じて、ひとつ褒美をやろう」
「え、なに? なに?」
「それは着いてのお楽しみじゃ」
カタリナに頭をはたかれる。いきなりエレベーターの底が抜けたような浮遊感がやってきた。
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