第46話 間一髪と思いきや。

 屋上に続くガラス扉の鍵は開いていて、僕らはあっさりと外へ出ることができた。

 瞬間、横風に煽られ、僕はわずかばかり乱れた髪を手で整える。

「別に、そこまで乱れてないのに」

 美々の声に、「何となく」と僕は返事する。

 一方で麻耶香は、周りに顔を移した後、とあるところを指差した。

「いました」

 見れば、ひとりの人影が、屋上の端っこに立っていた。

 転落防止用のフェンスとかはない。おそらく、普段は立ち入り禁止となっているところなのだろう。リタが職員室から鍵を盗み、渡したといった感じか。

 近づくと、相手は気づいたのか、顔を向けてきた。

 間戸宮明日香。

 彼女は時折吹く横風になびく髪を押さえようとしてか、耳元あたりに手を当てていた。

「姉さん……」

「明日香」

 麻耶香が歩み寄ろうとすると、明日香は手のひらを突き出してきた。

「来ないでください」

「でも、明日香」

「でもじゃないです。姉さんはわたしをからかいに来たのですか?」

 麻耶香の方へ目を合わせてくる明日香は、瞳を細めてきた。

「そんな言い方……」

「そんな言い方、ないと思うよ」

 気づけば、麻耶香の言葉に被せるように、僕の口が動いていた。

「あなたですか」

 明日香は僕を睨みつけてきた。

「帰ってください。もうすぐ死のうとする時に、あなたみたいな人を最後に見たくありません」

「ひどい言われ様だね」

「当然です」

 明日香ははっきりと言う。

「ちょっと、お兄ちゃんにそこまで言わなくても」

「美々は黙ってて」

 美々の叫びを、僕は口元を手で塞いで制する。

「その子はあなたの妹さんなんですね。着ている体操服から、わたしと同じ中学みたいですね」

「今は、美々のことはどうだっていいよ」

 僕は口にするなり、何歩か明日香との距離を詰める。

「今すぐに、飛び降りますよ」

「そしたら、最後に見るのが僕になるよ」

「それは最悪です」

「なら、僕がもっと近づいても、飛び降りないよね?」

「卑怯ですね」

「卑怯で結構だよ」

 僕は明日香とのやり取りに、何とか動じないようにする。ちょっとでも隙を見せれば、明日香は飛び降りてしまうかもしれない。

「リタと何か話した?」

「何のことですか」

 明日香は目を合わせようとしない。どうやら、リタのことは知っているらしい。

「リタって人は、さっきの子のこと?」

「うん」

 僕は麻耶香の問いかけに対して、こくりとうなずく。

「信じられないかもしれないけど、リタの正体は死神なんだよね」

「それって、あの子は人間じゃないってことだよね?」

「まあ、そういうことだよね」

「偶然ですね。姉さんが聞いてきたリタという同じ名前の人も、自分は死神だと言っていました」

 明日香は淡々と口にする。

「あなたもあなたです。神社で話していた時も、同じ日を体験してるとか何とか、変なことを言っていましたし」

「お兄ちゃん、そんなこと言ったの?」

「まあ、そうだね」

「わたしも、ここから飛び降りれば、今日のこの日をまたやり直すこととかが可能になるかもしれないですね」

 おもむろに、明日香は上履きの爪先を外に出す。

「明日香!」

「姉さん。わたしは姉さんの妹になれて幸せでした」

「バカ! 早まらないで」

「もう、遅いです」

 明日香の平坦な声とともに、本人の体が外へ倒れ込んでいく。

 屋上から地面までは校舎四階分という高さがある。先の地面は舗装されたコンクリートで、死は免れないはず。

 気づけば、僕は明日香の後を追っていた。

「お兄ちゃん!」

 美々の悲痛そうな叫びが、僕の耳元に届く。

 けど、振り返ろうとはしなかった。

 気づけば、僕は重力に引かれて落ちようとする明日香の腕を掴んでいた。

「えっ?」

 明日香は驚いたのか、僕の方を見るなり、目を丸くした。

 僕は彼女を引っ張ろうとしたものの、さすがに無理だった。女の子の体とはいえ、片腕では力不足だ。

 僕と明日香は揃って、屋上から落ちようとして。

 寸前で、屋上のコンクリートでできた縁を、僕はもう一方の手で掴んだ。

「お兄ちゃん!」

 視線をやれば、美々と麻耶香が駆け寄ってきていた。僕としては見上げる格好になる。

「離してください」

 下からは、明日香の苛立ったような声が聞こえてきた。

 今頃、下では、人が落ちそうになってるとかで騒ぎになっているだろう。

「お兄ちゃん、死なないで!」

「わたし、助けを呼んできます!」

 既に泣きそうな顔をしていた麻耶香は、意を決したかのように唇を噛み締め、駆けていった。といっても、僕が屋上の縁を掴んでいる手の力はもう、限界だ。女の子ひとりを支えた状態でぶら下がるなんて、映画とかでしか知らない。現実で起きようとは思ってもみなかった。

「美々……」

「何? お兄ちゃん」

 美々は僕の手を懸命そうに握ってくれる。麻耶香と同じように助けを呼ぼうとする勇気が出ないのだろう。そばを離れたら、僕が手を離して、地面に落ちてしまうということを恐れているのかもしれない。

「さっきの、リタっていう人に伝えておいて。『同じ選択肢は使うことはできないかって』」

「どういう意味、お兄ちゃん?」

「リタなら、言えば、通じると思うから」

 口にする僕は、もはや限界だった。屋上の縁を掴む手の握力が弱まっていく。

「何で、離さないんですか」

「離すことなんて、できないよ」

 僕は片腕で支える明日香に対して、言葉をこぼした。

「そんなことしたら、一生後悔するに決まってるから」

「優しいんですね」

「いい印象を持っておかないと、君の姉さんと付き合い続けることができそうにないから」

「バカですね。こんな状態でそういうことを気にするんですね」

 明日香の乾いた笑いが僕の耳元へ微かに届いてきた。

 で、落ちるというのは呆気ないものらしい。

 僕が呑気に明日香と話をしていたところで。

 僕は、掴んでいた屋上の縁から片手を離してしまった。力尽きたということだ。

「お兄ちゃん!」

 美々の叫びとともに、僕と明日香は手を握ったまま、地面の方へ落ちていった。

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