005

 今まではうまくなあなあにしてきたように思っていた。昨日館長にも言われて、勢い否定してしまったけれど、やっぱり彼女にも明確に開示したことはなかった。と言うか、開示したことがなかったというよりも、当たり前のことだと思っていたから言う必要もなかったというのが正確なところである。

 しかし、今日は露呈したらしい。風邪気味だったからなのかは、知らないけれど。

「会長」

 その日の生徒会を終え、下駄箱へ向かうときだった。暗い廊下で後ろから声をかけられた。麗しい声で、上品な発音だった。まるでお嬢様みたいな――振り返ってみると、菫野が立っていた。

 あ、本物のお嬢さまだった――

「あの、わたくしの家柄について言及することをやめてください」

「え? 私、口に出してた?」

「ええ、はっきりと」

 いささか怒気を孕ませているような口調だった。

「でもいいじゃん、お金持ちって悪いことじゃ」

「!」

 いつの間に距離を詰められたのか、台詞を言い終わらないうちに、目の前には今にも怒号を発しそうな菫野の顔があった。フェイスにフェイス。

「や、め、て!」

「……わ、わかったよ」

 いつもの品のある言葉遣いは崩れ、拳を固く丸めてほぼほぼ鬼の形相だった。何かトラウマでもあるのだろうか……

 閑話休題。

「で、どうしたの副会長さん」

「どうもしませんよ会長さん」

 言い回しに乗ったにしては、なかなか優れないご表情の副会長さんだった。

 そして、単刀直入に、間髪も入れずに質問を続ける。

「なにか、あの樹に思い入れでも、あるのですか」

「ん?」

 明らかな質問だった割には、意図が読めなかった。

「いえただ――」

 ややあって、

「校舎裏で漏らした一言や、今日の会議での様子から推し量って、会長はあの樹に対して、単なる樹以上の何かしらをその心に抱いているのではないか、と」

「………………」

 げ、見られてた。なるほど……

 というのが、咄嗟の本音ではあったがでもしかし、やはり判りやすかったのかもしれないとも思う。他の人たちがあまり気にしなかっただけで。菫野がそれに気づいて、そしてわざわざ個人的に言ってくるなんてことは、毛頭想像出来なかったけれども。

「事情が――があるんですか? 情報提供して頂いた生徒たちと、同じような」

「……いや、その、特には」

「じゃあ先日や先ほどの思案顔は――いえ、そこまで問い質すような必要はありませんけれど。気になりましたので」

「今日のはほら、風邪気味でさ、あんまり頭回ってなかっただけだって。この前のは、うーん……あんまり憶えてないな、どんなこと言ってた私?」

「[記念樹]が学校の設備、という言い回しについて逡巡していたようでしたが」

 即答する菫野。

「……あー、そんな感じだったっけねえ……なんでだろう。そのときの私、何考えてたんだろうね。よく憶えてないな」

 多分菫野から見てこのときの私は完璧にしどろもどろの狼狽娘だったんだろう、私が言ったことなんて聞いてなかったように、

「……会長に、あの樹に対して何かしらのそれがあるのかどうかは、知りませんけれど、もしあるならば、生徒会の活動に私情を――学校の運営にそれを重ねるのは控えてくださいよ」

 多分菫野は単に、仕事の公正さを守るために話しかけてきたのだろう。

「………………」

 用は済んだとばかりに、それでは、と言って踵を返しかけた菫野に、私は慌てて声を掛けてしまった。やめておけば良かったのに。

「……その、私情とかじゃなくってさ」

 当たらずとも遠からずな理由を探す。

「ほら、あの樹だって、一つの命じゃない?」

 そう、命だ。私と同じ命。 魂とか、心とかについて詳しくはないから考察はできないけれど、でも植物が生物であることは誰しもが理解していること。生き物であることは皆解ることだ。

 生き物は、大切に。

 平等に。

 この地球に生きとし生けるものはすべて同じところから生まれて来たのだから――それは、感覚的に解る物事のはず。皆忘れがちだけれど、言えば気づく。今までだって。

 小学校低学年のとき、校庭の花壇で自然の観察をする授業があった(たしか、「せいかつ」という科目名だった気がする)。私は他の生徒より率先して土いじりやら、水やりやらをしていた。楽しかった。でも、ふと目を周りにったとき止まったのは――何やら、数人が石をひっくり返して何かしている――いたのは、ダンゴムシだ。小学生の小指の先ほどの大きさの、小さな小さなダンゴムシ。

――あっ、まるまった――ひらかない!――なんだこいつら――

 口々に(もしかしたら)初めて見たのかもしれないダンゴムシに対する感想を述べつつ、彼らを掌で弄んでいた。こじ開けようとしたり、転がしてみたり、同級生に投げつけてみたり――

 私は元いた位置からは動いていた。その子たちの方へ。

「ダンゴムシ、がかわいそ、う」

 と言った気がする。

――なんで?

「むりやりあけ、たらいたい、でしょ」

――だって、こいつらあかないんだもん。つまんない

「でも」

――うるせーな、もういいよこんなの。


――


「!」

 そして言葉通り、その子は丸まったままのダンゴムシ十数匹をアスファルトに散らし――上から、近くにあったコンクリートかいのだった。

 ダンゴムシの悲鳴は聞こえなかった。黄色い飛沫ひまつだけがコンクリート塊の陰から飛び出ているのみだった。

「ど……」

――あはは、つぶれた! つぶれた!

「どう、してそんなこ、とするの!」

――!?

「いきて、る、んだよ――██く、んとおん、なじいきてる、のにいきてるのに!」

――う、うるせえこばち! ダンゴムシなんだからいいんだよ!

「い、いことな、い!」

 そう言いつつ、私は先ほどダンゴムシを潰したそれをヨタヨタと拾い上げた。

――なにするんだよ!?

 そして、無言で振り下ろした。

 幸いなことに、あのとき振り下ろしたコンクリート塊は私が非力だったおかげで、彼と私の間に落ち、半分に割れて終わった。すぐに担任の先生が駆けつけて、二人とも物凄く叱られた。

 やれば解ると思ったんだろうなぁ、私。今の回想は、些かミスチョイスだった。

 勿論、そんな強硬手段を取ったのは、あれが最初で最後だ――学年が進むにつれ、私の拙い言葉遣いの改善と、周囲の道徳観の発達、とりあえず黙って考えてみる……などによって、それは穏やかに成されてきたと思う。私は道徳を守る・守らせることに於いて、いつの間にか尽力したい、そんな心構えにさえなっていたような気がする。

 そんな半ば暗い思い出をフラッシュバックした。

 わず玉響たまゆらほどの時間である。菫野に向き直り、もう一度言う。

「命を大切に、って、だけだよ」

「……あー」

 菫野はキャラに似合わず拍子抜けしたような顔をした。上手く伝わったかしらん。

 しかし彼女の次の台詞は私にとって、衝撃的なものだった。

「でも、だからどうしたのですか?」

 えっ?

「先程も言いましたが、広く認知もされていなければ、これと言って必要もない――ですよ? 北校舎裏なんて、そもそも生徒が訪れること自体珍しいですし……」

 至極真っ当なことを、当たり前なことを言うかのように、菫野は臆面なく私の正面に立って、目を見ながら、単なる疑問を除いたおよそなんの感情もなく、ただ、言った。

 小首を可愛く傾げてさえいた。

 なんで? 一つの命って、それに納得したんじゃ、ないの。

「……ねえ。私が言ったこと解ってくれてる?」

「え、ええ。それは、はい。解っていますよ……一つの命ですね、確かに。あの樹も。[記念樹]も」

 詰問じみた口調になってしまった。そんな私に、菫野はむしろ、先ほどとは打って変わって、私が訴えてきたその姿に狼狽うろたえているようだった。形勢逆転である。全然、そんなこと考えられなかったけれど。

「命、じゃん。私たちと同じ」

 私と同じ。

「それは、解っています。解っていますって」

 彼女は目線を右に逸らしつつ、そう言った。

「じゃあなんでよ、命だよ? 生きてるんだよ、皆」

 皆生きている。

 ミミズだって、オケラだって、アメンボだって生きている。人間だって、樹だって、生きているから――

「ですけれども―― 」

 そして残念ながら、この場合の形勢逆転は、必ずしも勝敗を付随させるような解りやすいものでもなかった。

「――でも、樹ですよ?」

 私の顔は、引きつり半笑いだったように思う。菫野は、口では解っていると言ったものの、その表情は明らかに共感をしているそれではなかった。彼女の狭い眉間のしわばかりに目が行った。

「いえ、生物だという意味で――命だということは解っていますが……でも人間と、はかりに掛けるほどのものですか?」

菫野の、その言い回しは――私の記憶の枝をかすかに揺らしたように思えた。

「ちょっと……言ってることが良く解らないんだけど」

「……これまでの話の流れ――先ほどの議題を加味して考えても、会長は、自習棟の建設を行えば必然的に起こる[記念樹]の撤去を――『一つの命』として守りたがっているだけのようです」

「………………」

「でも、そもそも、生徒のための生徒会です――学校の、生徒のための生徒会です。学業を行うための施設で学ぶ、人間のための機関です。学生の、本分なのです……」

 人間と、天秤に掛ける。

 人間の生活の便利と、樹の命を、くらはかる。

「そ、そういう意味でも、私はさっき、自習棟の案件を、本流に据えるべきだと、提案したんです……!」

 一瞬のたじろぎは形を潜め、そこにはいつもの菫野――いや、いつも以上に語気の強いすみれれいがいた。

 ただ少し前から、その口調はいつもの名前に相応しい、まさに麗しく、高貴なるそれよりも幾分砕けた物言いになっていたように感じられる。

 まるで組み立てるかのように言葉を紡いでいく。自分の論理を確認するように。

 頬は紅潮している。

 そんな彼女を、私は唇を結び、目を見開き――そして更にそんな私を、私は見ていた。

「だから……! ………………いえ、別に、だからどうしろという話でも、無いのですけど……」

 勢いが急に止んだ。しかしまだ、混乱は続いているようで――でも、それは私も同じで。

「……じ、じゃあ、麗貴ちゃんはさ、麗貴ちゃんが樹だったとしたら――同じこと言えるの?」

 やっとのことで口に出せたのは姑息な論法だった。

「……い、言えます。というか、そもそも人間と樹を同列に扱うのがおかしいんです……!」

「なんでよ、同じいの」

「同じ命でも!」

 声を張って遮られた。

「同じ命でも――樹は樹、人間は人間! ……?」

「………………」

「……違いますか?」

その、なまめかしく潤った眼球が孕む感情が何か、私には考える余裕などなかった。

 ただ私は、反射的に保身するしかない。口をついて出てきた言葉は、

「じゃあっ……じゃあ、あの樹を――[記念樹]を殺して、自習棟を建てた方がいいって言うの、麗貴ちゃんは」

 殺す、なんて、罪悪感を誘っているだけの言い方じゃあないか。残酷な。菫野にも、この状況にも残酷な。ああ、悲しい。

 でも、菫野は、今度こそ退かなかった。

「そうです――私の個人的な意見は、そうです。所詮、人間に植えられ生かされた命です、気にする必要は――感じません。殺されて仕方ない命も、あります。人間のために」

 

 その言葉は、あまりにも私には重かった。

「……あぁ、そぅ」

 気力も何も、消えてしまった。

 それから数秒か、数分か。私達は無言で立ち尽くしたあとに、どちらともなく踵を返し、互いに去った。

 今思えば、彼女と私とでは――高貴なる人間様と、土にまみれて泥臭い私とは、この対立は酷く、対照的だったかもしれない。

 結果的には、私達は互いに自己懐疑という名の禍根を植え付けただけだった。

 そして、むしばみ出す。

斜陽満つ 廊下の奥に

いとしおもかげりに塗れ

いづこ処行くらむ

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