夏の隙間に、君と会う

連海里 宙太朗

第1話 夏の隙間に、君と会う

 目を覚ますと、車窓からは見慣れた田園風景が広がっていた。


 東京から深夜バスで五時間。その後、路線バスで一時間。そして、一両編成の狭い車内で揺られながらウトウトすること三十分。ようやく目的地にたどり着いた。

 無人駅から見える風景は、自分が十八年慣れ親しんだ懐かしい景色であり、様々な思い出の詰まった場所だ。


 俺は大きく伸びをして凝り固まった体をほぐした。無人駅を出て、故郷の空気を胸いっぱいに吸った。


「あー……。あづぃ……」


 連日、記録的な猛暑が続く今年の夏は、深呼吸をするだけで肺が焦げてしまいそうだ。冷房が効いた車内から外に出ればなおさらだ。


 俺はすぐそこの自販機で、コーラを買い一口飲んだ。きつい炭酸とキンキンに冷えたコーラが幾分か体の火照りを冷やしてくれた。


「あらぁ! 俊介ちゃんじゃないの?」


 と、突然良く通る声が響いた。


 少し驚きながら振り返ると、道の隅に止めた軽トラから、愛嬌のある丸顔をひょっこりと出しているおばちゃんが居た。

 実家の隣(とはいっても四百メートルは離れているが)の斎藤さんの家のおばちゃんだ。そろそろ七十を超えていると思うが、軽トラに農具がこれでもかと積んであるところを見ると、まだまだ元気に畑仕事をしているようだ。


「あ、どうも。お久しぶりです」


 暑さで頭が朦朧とする中、ぺこりとお辞儀をした。


「去年の夏以来だね。今年もお祭りに?」


「……ええ。今年が最後ですから」


 愛嬌のある笑顔を向けていた斎藤のおばちゃんは、表情を曇らせた。すぐに目を細め、俺に柔らかい笑顔を向ける。


「そうかい。もうそんなに時間が経つんだね。早いもんだよ」


 そう言うと、斎藤のおばちゃんは静かに空を仰いだ。滝のように降り注ぐセミの鳴き声だけが辺りを埋めつくした。


「じゃあ、俺はそろそろ……」


 斎藤のおばちゃんは、スンと一つ鼻を鳴らした後、いつもの笑顔に戻った。


「しばらくいるんだろ? また家においで。おいしいスイカ用意しとくからね」

「有難うございます。またおじゃまします」


 斎藤のおばちゃんは、満面の笑みで軽トラをゆっくりと走らせて行った。軽トラが走っている道の両端には、たっぷりと太陽の日差しを浴びた稲穂が風に揺られている。空に広がる、青と白のコントラストを眺めつつ俺は実家へと足を運んだ。




「それじゃあ、行ってくるよ」


 軽く夕食を済ませた後、俺はお祭りへと参加するために家を出た。


 昼間はとんでもない暑さだったが、夜になれば涼しい風が吹き、少しは暑さも和らいでいる。都会ではあまり聞くことができないコオロギの鳴く声も聞こえてくる。夜空を見上げれば、驚くほどたくさんの星が輝いていた。


 周りには俺と同じく、祭りに参加する人たちがちらほらと見受けられる。その表情は嬉しそうでもあり、ほんの少しだけ寂しそうにも見受けられる。


 街灯は少ないが、月の淡い光が辺りを包み、見慣れた田舎の風景が俺の目には幻想的に見えた。

 そんな不思議な雰囲気を感じながら、十分程歩いていくと、大きな赤い鳥居が見えてきた。吸い寄せられるように皆そこを目指して歩いている。


 小学校の頃、登下校の時はいつもこの鳥居の前を通っていたが、改めて見てみるとその大きさに圧倒される。十五メートルはあろうかと言う存在感。鳥居自体は数百年前に作られたと言うが、皆の献身的な保護により、全くと言っていい程その威厳は失われてはいない。嫌でも神聖なものを感じざるを得ない。

 一礼し鳥居を潜る。


 灯篭からの柔らかな明かりが、参道を照らす。俺は空を仰ぎ、大きく深呼吸をした後、先を見据えた。


「俊介」


 灯篭の幻想的な光の中、風鈴が鳴るような声が響いてきた。


「紗智」


 俺が名を呼ぶと、紗智は美しい月明かりにも負けないくらいの笑顔を俺に返した。

 少し歩きにくそうにしながら、赤い鼻緒の下駄を鳴らして歩み寄ってくる。美しい花の柄が刺しゅうされた、紺色の大人びた色の浴衣がよく似合う。紗智は頭一つ分低い位置から上目使いに俺を見つめた。


 艶やかな黒髪は肩の辺りで切り揃えられ、夜の暗がりでも良く映える。卵型の輪郭に、くりくりとした大きな瞳は俺を捕えて離さない。


「俊介。久しぶりだね」


「ああ、一年ぶりだな。元気だったか?」


 紗智と会うのは去年の夏以来だ。積もる話はいくらでもある。しかし、去年と変わらない幼さの残る表情を見ていると、胸が一杯になり何も言葉を紡ぐことができない。

 お互い見つめあう時間が続く。


「ん? どうしたの俊介。私の顔に何か付いてる?」


 紗智が自分の顔をぺたぺたと触る。


「あ、いや。あの、その浴衣可愛いな。その花の柄も綺麗だ」


「本当? 嬉しいっ!」


 パァっ、と花が咲いたような笑顔を作ると、紗智は腕を少し広げくるりと回った。そで下の生地がふわりと舞った。


「この花、紫苑って言うんだよ。綺麗でしょ」


「紫苑……。あまり聞いたことない花だ。綺麗な花だな」


 薄い紫色の花弁が印象的だ。

 紗智は少し照れたように笑った。すぐに俺のそばにより、腕を絡めてくる。


「それじゃあ、いこっ。お祭り」


「ああ、そうだな」


 以前と変わらぬ紗智に胸がいっぱいになった。周りにも久しぶりに会ったであろう大切な人とふれあい、笑顔を見せる人が大勢いる。俺も紗智の体温を感じながら、参道を歩いていった。




 参道を抜けると、屋台が道の端いっぱいにひしめいていた。


 やきそば。りんご飴。イカ焼き。定番の射的や金魚すくいなど様々な屋台がある。先ほどの神聖な雰囲気からいきなり俗世間に引き戻された感じはするが、やはり祭りと言えばこの雰囲気だ。紗智は目を輝かせながら、あっちをキョロキョロ、こっちをキョロキョロと落ち着かない様子だ。


「よし、今日は俺が全部おごってやるよ」


 男を見せようと、大盤振る舞いの態度を見せる。


「えっ! 良いの?」


「だって、お前金なんか持ってないだろ? いいよ。遠慮するなって」


「ええー。でも悪いよ……」


 とは言いつつも紗智は、じゅるりと音を立てた。手の甲で口を拭う。


「いいって。久しぶりだからな」


 紗智の中で食欲と遠慮が戦っているようだ。うーんうーんと唸りながら腕組みをしたり、頭を抱えたりしている。しばらくすると「よし!」と声を上げた。


「じゃあ、甘えちゃう! 焼きそばと、りんご飴。イカ焼きにから揚げ! あ、後は海鮮串焼きにオムそば。その後、大判焼きにかき氷食べる! あんなところに『たません』なんてのもある! あれも食べる!」


 紗智は子供のようにきゃいきゃい言いながら屋台に走って行った。財布の中身を見る。次のバイトの給料が入るまでは塩パスタ生活だな、と思いつつ嬉しそうな紗智を見ると、俺は満ち足りた気持ちになった。




 屋台が立ち並ぶ道の隅っこのベンチで腰掛けながら、買いあさった食べ物を広げる。酒でもあればちょっとした宴会だ。紗智はやきそばを、はふはふ言いながら食べつつ、その合間にイカ焼きにかぶりついていた。


 俺はフライドポテトをちびちびと口に運びながら、紗智の豪快な食べっぷりを眺めていた。


「よく食うなぁ」


「だってお腹空いてたんだもん」


 そう言いながら、イカ焼きの最後の一口を放り込む。もむもむとハムスターのように口を動かした後、ごくんと飲み込む。フゥと一息ついたと思ったら、


「これでようやく甘い物食べられる。次は大判焼き」

「まだ食うのかよ!」


 紗智は大判焼きを口にくわえたまま、ラムネの口に栓を当て、手のひらでポンと叩く。プシュ、と小気味よい音を立てガラスの玉が瓶に落ちた。それを俺に渡すと、もうひとつのラムネを開け、こくこくと飲み始めた。


 渡されたラムネを飲む。炭酸と懐かしい味が口いっぱいに広がった。


「ねえ、俊介。大学生活……どう?」


 紗智はいつの間にか大判焼きを平らげていた。


「そうだなぁ。もう三年生になったし、そろそろ就活もしなきゃいけない時期だし……まあ、いろいろ大変だよ」


 満天の星空を仰ぎ、もう一口ラムネを飲む。


「でも、楽しそう。いいなぁ。大学生活。私も大学行きたかったよ」

「やりがいはあるよ。入りたかった大学だし、やりたい仕事も見つけたしな」

「……うん。そっか。本当に良かった」


 紗智はラムネの瓶を両手で持ち、足をプラプラさせている。ほんの少しだけ表情が曇ったような気がした。


「……紗智。悪い」


 紗智は俺の言葉を聞くと、ハッとして顔を上げた。眉尻を下げ、すまなそうな表情を俺に向けた。


「ご、ごめん。そんなつもりじゃなかったの。ちょっといいな、って思っただけだから……ねえ、もっと話聞かせてよ。俊介がこの一年何をやってたのか聞きたいな」

「うん……分かったよ」


 紗智の表情に明るさが戻る。大きな瞳で俺を見つめてきた。俺の鼓動は少しだけ跳ねた。




 いろいろな話をした。


 大学生活のこと。バイトのこと。バイクの免許を取ったこと。大学の友達がバカをやったこと。この一年の出来事を話すのは時間がいくらあっても足りない。


 紗智は俺の話を食いつくように聞いていた。その間も、ラムネを飲みほし、かき氷をかきこみ、俺のフライドポテトをつまんでいた。

 そして、紗智がたませんを手に取った頃、


 ドンッ、と言う音とともに周りから歓声が上がった。


 いくつもの花火が尾を引き、夜空に上がって行き花開いた。その美しさに紗智はたませんを手に持ったまま、空を見て呆けている。


 すると、たませんから重力に引かれた卵の黄身が、紗智の着物に落ちてしまった。

 たませんは鉄板で黄身を潰し、せんべいで挟む。うまく食べないと黄身が流れ出てしまうため俺は少し苦手だ。


「お、おい。着物に黄身が」


 紗智は「あっ」と漏らすと、たませんを急いで口に運んだ。周りが薄暗かったためか、紗智の顎に糸を引いた黄身がぺったりと付いてしまった。


「ああ、もう何やってんだよ。シミになっちゃうぞ」


 持っていたティッシュを水で濡らし、黄身が落ちてしまった場所を急いで拭う。紗智は自分の顎を指で拭いぺろりと舐めた。それが俺には艶目しく感じられ、鼓動が大きく跳ねた。


 視線に気が付いたのか、紗智は指を口に含んだまま「うん?」と視線を俺に向けた。


「紗智」


 紗智は最初、疑問の表情を浮かべていたが、意図が分かると目をゆっくりと瞑った。

 紗智の肩を優しく掴む。俺の心音が鼓動を強めた。空で輝く花火の爆音なのか、俺自身の鼓動なのかが分からない。ゆっくりと紗智に近づく。


 長いまつげと、きめ細かい肌は暗がりでも良く分かる。幼い顔立ちに反し、艶やかな唇は扇情的な雰囲気を醸し出している。顔を近づける。


 ……と、俺の鼻と紗智の鼻が当たってしまった。


「悪い……」


 俺は顔を少し傾けた。すると、紗智も同じ方向へ顔を傾けてしまった。


「あ、紗智、その、ええっと……」


 俺がどきどきしながら、わたわたしていると、紗智は俺の両頬を手のひらで覆った。


「へたくそ」


 紗智の方から唇を重ねてきた。柔らかな感触が唇を通し全身に広がる。時間にして数秒の事だと思うが、それが永遠に感じられるほどだった。顔を離すと、上目遣いで紗智が俺の顔を見ていた。俺の顔を手のひらで挟み込んだまま紗智は「もう一度」と漏らす。再び唇を重ねる。愛おしい思いが全身を支配した。


 永遠とも思える時間が過ぎ、俺と紗智は唇を離した。


「……んっ。はぁっ」


 紗智の顔は上気し、俺の顔を掴む手は少し汗ばんでいる。そのまま俺の胸に自らの顔を埋め大きく息を吐いた。


 紗智を抱きしめた。紗智はあまりにも儚げで、なぜ一緒に居られないだろうと言う思いが頭をかすめる。


「ねえ、俊介。私と一緒に来て」


 ふと、紗智がそんな事を言った。


「え? 今何て……」


「私、俊介と離れるのはもう耐えられない」


 紗智が俺の腰に腕を回してきた。強く力が入る。俺の顔を見つめる紗智の目には、澄んだ涙が浮かんでいた。表情は何かに取りつかれたように虚ろだ。


「だから、お願い。私と一緒に……」


 最後の方をよく聞き取ることはできなかった。


 俺が口を開きかけた瞬間――。


 紗智の目が大きく見開かれた。驚きと恐怖が入り乱れた様な表情で小さく頭を振った。


「ごめん……。今の忘れて。何でもないから」


 震える紗智をもう一度抱きしめた。その時、視界を埋め尽くすほどの花火が夜空に花開いていた。紗智が大きく肩を揺らし、しゃくり上げている。花火の爆音で紗智の声までは聞こえてこなかった。


 しばらくすると、夜空には静寂が戻った。花火に目を奪われていた人たちも、次々と先へと歩を進める。


「花火……終わっちゃったね」

「ああ」


 花火が終われば、祭りも終わる。そろそろ行かなければいけない。

 俺たちはもう一度、唇を重ねた。




 屋台の立ち並ぶ通りを抜け、林の中を進んでいくとひと際大きな広場に出た。中心には直径三メートルほどの池があり、美しく澄んだ水が風に揺られ、小さく波打っている。まるで、地中に埋められた巨大な宝石のようだった。


 その宝石から放たれるように、たくさんの蛍が空中に飛びまわり、この世の物とは思えない光景が広がっていた。


 蛍に紛れるように幾人か、池の周りを囲むように佇んでいる。


 夫婦。親子。俺たちと同じく若い男女。それぞれが語りあい、触れ合い、抱き合っている。


 ふと、背中に紗智が抱きついてきた。


「俊介。私そろそろ行くね」


 その時が近づいていた。覚悟はしていたはずだ。でも、いざその瞬間になると背筋に冷たいものが走り、胸がざわざわと泡立つ。


「もう行くのか?」


 なるべく落ち着いた声を出そうとするが、言葉の節々は自分でもわかるくらい震えていた。


「もう時間だから」


 周囲では幾人かの人が、体の先から細かな粒子となり、蛍の光と融合し散っていく。


 この村で亡くなった人間は、残してきた人に未練がある場合、三度、この時期に蘇る。紗智は今年で三度目。これで本当の別れだ。


 紗智の体は手の先から淡く発光し、砂粒が風に舞うようにゆっくりと散っていく。


「逝くな。紗智」

「俊介。ごめんね。私があんなこと言っちゃったから……でも大丈夫」

 涙が伝う俺の頬を手の甲で拭うと、紗智は優しくほほ笑んだ。


「消えちゃうわけじゃないから。私と言う存在は形を変えて生きて行く。だから泣かないで。きっとこの世界のどこかで俊介を思ってる」

「紗智……」

「だからお願い。俊介の心の中の隙間に……端っこでいいので私を置いておいてね。たまに私のことを思い出してほしいです。そうすればあなたの近くに居れそうだから」


 紗智は俺の胸に深く顔を埋め、強く抱きしめた。紗智の温もりが伝わってくる。


「よしっ。満足」


 紗智はそう言うと、俺の元を離れた。手を後ろで組み、微笑んだ。


「有難う俊介。大好きだよ」


 紗智の手から腕、足、胴体が光る粒子となり夜闇に散っていく。


「紗智! 俺も……」


 最後に残った紗智の顔には、いつもの、三年前と同じ笑みを浮かべていた。

 紗智の体は光る粒子となり、辺りに舞う蛍と同化していく。それらが群れとなり空へと昇っていく。


 周りの人たちは、泣いている者。呆けている者など様々な様相を見せていたが、一人として悲痛な表情を浮かべている者はいなかった。悲しみは俺の胸に広がっていたが、紗智と過ごした思い出は美しく輝いていた。




 斎藤のおばちゃんの家で、冷たいスイカをごちそうになった後、紗智の墓参りへ赴いた。旬は秋ごろと言うことだったので、入手に苦労したが、祭りの時に紗智が着ていた着物の柄に使われていた花――紫苑を墓前へと手向けた。


「紗智」と空に向かって呟いてみるが、もちろん返事はない。


 あの時、自分も連れて行ってくれと懇願したらどうなっていたのだろうか。


「紗智……」と、もう一度呼んでみる。


 ――端っこでいいので私を置いておいてね。


 紗智の言葉が思い起こされた。


 空は青。巨大な入道雲が天に向かって伸びていた。

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