脱獄
ファウスト
第1話
名前とは何なのか。
自分が認めたくない呼ばれ方を、果たしてそれを名前と呼べるのだろうか。
相手にとっては自分の名前、自分にとっては認めたくないもの、どこまで行っても平行線だ。
しかし、認めてしまっては、その存在を認めることになる。
相手に映る卑しい自分を。
それは嫌だと、自分は反発する。
では、何が起こるか?
そんなもの武力での圧政に決まっている。
自分は年端も行かない子供、相手は筋肉が隆起し、服の上からでもその逞しさが分かるだいの大人。
勝負は火を見るより明らかだった。
そのため、俺は勝負をせずに黙認していた。
今日も今日とて番号で呼ばれる。
勝負から、挑む前から逃げた報いだ。
「おい!5番!何をしている!さっさとその石を削って持ってこい!」
自分を示す番号を呼ばれ、肩が震える。
周りを見回すと、恐怖で手元が狂いっぱなしの者や、呼ばれたのは自分じゃなかったと胸をなでおろし、安堵する姿も見受けられた。
俺は周りに向けていた視線を、今度は手元に下ろす。
そこには中途半端に削られた硬い石灰岩がある。
そこには線が引かれていて、ここまで削れという合図。
しかしその目標までまだかなりある。
俺は叫んだ男に言葉を返すことなく、作業に戻る。
すると、そこで聞き慣れた、自分のちゃんとした名前を呼ぶ声がした。
「涼、早く終わらせて、次の仕事行こう。」
「秋…あぁ、そうだな。」
元々この場所にはちゃんとしたランプがなく、LEDはもちろん、白熱級ランプもない。
そもそも電気自体がこの場所には通っておらず、10m毎にロウソクが1本置かれてあるだけだ。そのため、非常に薄暗く、よく見えないため、指を指す人が多いのだ。
早く終わらせようと意気込んでも指を怪我し、その日1日をここで過ごす子供も少なくない。
が、所詮自分たちは奴隷のようなもの。
逆らえば殺されて、逆らわなくても自由はない。
保証されているのは1日2食、パンと水。
たったそれだけであった。
いくらこの事を嘆こうと、助けが来るわけもなく、誰かが助かるわけでも食事が増えるわけでもない。
「なぁ、秋。」
俺は隣の友人に話しかける。
「ん?何?涼」
「絶対脱出しような。この地獄から。」
俺は声に息を混ぜて囁くように、彼の耳に吹きかける。
その後、彼はこれに肯定したのか、いつもの笑顔で答えた。
ここはとある孤島。
何を作っているのか、いや、作らされているのかは知らない。
ここでは自分と同じように、連れ去られた庶民の子供が奴隷のような日々を過ごしてきた。
貴族もここに囚われているらしいのだが見たことがないため、どこか隔離されているか、自分たちとは違うところで働いているのだろう。
身分が違いすぎる故、下手に手出しは出来ないのだろう。
「なぁ、ここで貴族って見たことあるか?」
気になった俺は同じ部屋の子供たちに聞いた。
「俺はないなぁ」
と、首を捻りながら答える秋。
「私もないよ」
「わたしもーっ!」
秋の言葉に便乗し、女子ふたりが答える。
所詮は噂かと、落胆する。
外の世界、いわゆるシャバと呼ばれる世界でも、貴族は見たことなかった。
「詩羽も澪璃もか…」
「でもどうして急に?涼そんな事気にしないタイプの人間でしょ?」
と、詩羽は綺麗な黒髪を靡かせながら俺の方をじっと見る。
詩羽はこの中では一番落ち着いていると言っていいだろう。
男子組のストッパーが秋なら、女子のストッパーは彼女となる。
しかし、いつ見ても思うのだが、一体いつどこでどのようにその髪を手入れしているのか聞きたい。
「いや、そうなんだけどさ、あいつらが今回来た貴族の子が可愛いとかなんとか言ってたから…」
と、理由を述べる。
あいつら、とはここを仕切る者達、すなわち、圧政者のことである。
それを聞き、隣の秋はこの話に興味津々なのか、目を爛々と輝かせ、この話にがっついてくる。
しかし、女性陣はこの話が面白くないのか、二人してむくれていた。
「あっそ、それは是非あってみたいと思うよね。」
詩羽が投げやり気味に言う。
何かがお気に召さなかったようだ。
俺は早急に話題を変える。
「そう言えば!いつも見て思ってるんだけどさ、詩羽の髪っていつ、どこで、どうやって手入れしてんの?すげぇ綺麗じゃん」
「え…いや、別に、手入れとかは特に…」
「え!?手入れしてないの?それで!?」
俺が驚くよりも先に、澪璃が驚いたようだ。
確かに同性からしてもこの髪の綺麗さで手入れしていないのは信じられないことだろう。
俺達は常に共に行動しているが、彼女がそのような事の手入れをしている姿がなかった。
「へえ、すげー綺麗じゃん。やっぱ詩羽は髪長い方が似合ってるよ」
俺は詩羽の目を見て真剣に言う。
恐らく短くても可愛いとは思う。が、長い方が何かこう、歯車が噛み合う感じでしっくりくるのだ。
「あ、ありがとう?」
彼女の頬に淡い朱がさす。
「なんで疑問形なんだよ。褒めてんだぞ?」
「ごめん。ありがとう!」
「うおっ、声大きいぞ。」
「ご、ごめん。」
「謝りすぎたらその人が発する謝罪の言葉の重みが無くなる。だからそう簡単に謝るんじゃねぇよ。」
俺は先程から思っていたことを言う。
彼女は謙虚なのだ。
謙虚とだけ聞くといい性格と思うだろうが、違う。
謙虚すぎると、嫌味に聞こえる。
謙虚すぎると、よく謝罪するためその言葉の重みがなくなる。
謙虚は確かにいい性格をしていると思う。
だが、それは度が浅い場合だ。
無理に謙虚を装うくらいなら自慢した方がいい。
しかし、自慢だって、しすぎるとただの嫌味だ。
だから、そのバランスが難しいため、とれない人間がハブられる。つまり、いじめられるのだ。
自慢したっていい。但し、図に乗るな。上には上がたくさんいるのだ。
謙虚であってもいい。但し、自信がある時はちゃんと言い通せ。
「ごめっ、分かった。」
彼女は言いかけた言葉に蓋をし、飲み込む。
「よし、なら明日に備えて寝るか。」
と、俺が言うと、いつの間にか澪璃の寝床に移動していた秋が口を開く。
「やっとか、一体いつまで僕達は蚊帳の外に居させられるのかと思っていたよ。」
「そーだ、そーだ!」
と、2人は抗議の声を上げる。
「いや、別に蚊帳の外にしてた訳じゃねーよ。ただ、詩羽が控えめすぎるから、つい。」
「そ、そうだよ、私だって蚊帳の外にしていたつもりは無かったんだよ。」
「でも嬉しかったでしょ?二人で話せて。だって詩羽ちゃん涼と話してる時、私達の方見向きをしなかったもんね。」
と、澪璃が、口角を上げて言う。
「っ、そんなこと!ないよ!」
今度は詩羽が講義の声を上げる。
「あーっ、もううるせー!寝るぞ!おやすみ!詩羽明日もよろしく!」
そう言って俺は寝床につき、布団がわりの麻布を被る。
明日もよろしくと、詩羽に頼んだのは、毎朝詩羽が一番起きるのが早いため、みんなを起こしてもらっている。
ただそれだけの、単純な理由だ。
俺がお休みと叫び、寝床につくと、もう部屋内に声が聞こえることはなくなり、静寂が訪れる。
俺は目を開け、考える。
あそこに窓があるなら月は見えるだろうか。
日の出は見えるのだろうか。
もう囚われてから今まで見た光は、ロウソクの火のみであった。
しかし、もし月が、太陽が見えたとしても湧き上がる感情は悲壮感であるだろう。
いくらジャバに出たくとも、そして、シャバに出たとしても、帰るところがなければまた新たな絶望の始まりである。
むしろ、食事が保証されているここの方が安全であることもありうるのだ。
ここは名も無い孤島。
何を作っているのか、何を作らされているのか皆目検討もつかない。
が、ここにいる庶民は全員、ここが家であり、行き場所であった。
なぜなら彼らはみな、親に売られてしまった子供たちだからだ。
脱獄 ファウスト @Faust-Saku
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