6.
雑嚢に食料を詰めて、私たちは切羽から第36片東向坑道に出る。いくつかの坑道に再び出入りして、食料を集める。斜坑へ出る。
第35片西向第1坑道に到着。すぐに別れて第2坑道に入る。暗い坑道の奥へ奥へと向かう。西口は黙って私に付いてくる。時々振り返る。西口がつけるゴーグルの光を確認して、西口がいることを認知する。
誰にも会いたくない。誰にも会いたくない。あの集団は瓦解する。必ず瓦解する。狂気を持つ人間に遭いたくない。
第35片西向第2坑道の切羽予定地の一つに入る。同じような規格の管理棟の宿直室。座り込む。この間、ケアマシンの恩恵にあずかり続けた。電力の残量は88%。悪くない数値だ。
手触りのあまりよくない、砂の付いた毛布を持ってきていた。事故4日目の午後8時40分。
疲れていたはずなのに、眠気が立ち現れない。
西口はゴーグルを外していた。彼女は暗闇を忌避しない。「電力は節約するんじゃないですか?」そう西口から問われているような気がしてきた。私も意地になってゴーグルを外してみた。また作業着の種々の機能もオフにする。
初めは嗅覚。炭鉱の饐えて湿った岩石の匂いが充満していたことに気づかされる。
視角。真っ暗だ。何も見えない。
聴覚。呼吸の音が聞こえる。そして隣で西口がごそごそ動く音が聞こえる。とてつもなく大きな音のように聞こえる。
「ここからは耐久戦ですね」
「何もしないのもつらいな」
「そうですか。でも疲れました。久しぶりに人と話しましたし。寝ましょ」
腕に巻いた標準供給デバイスの目ざましモードをセットする。音が出るときっとひどく驚いてしまうだろうから、バイブレーションモードでセットすることにした。
8時間が過ぎるまえ、自然に目が覚めた。左半身を下にして寝ていた。決して柔らかくないところで寝ていたから、特定の箇所が、鈍い痛みを発する。西口に慮って起きても体を動かさない様にしていた。西口と私の標準供給デバイスが同時に振動した。起きる。
特に話すことがない。
だが時はたっぷりとある。だから最近、三笠市の皆が話す話題を提供する。
「いよいよ甲子園だった、な。どうなるのかわからないけど」
「皆が話してましたよね。高校生は被害に遭ってないでしょう」
「109年ぶり2回目」
「炭都野球部が旋風を巻き起こす」
我らが三笠市にある市立高校が、久しぶりに甲子園出場を決めていた。市立三笠高校野球部。前回出場した109年前は、まだ北海道立高校だった。
あの時の三笠高校野球部はツイていた。ツキまくっていた。まず、空知支部予選で9回に7点差を逆転して11-10で勝利した。南北海道支部予選には2回戦から出場。室蘭工業戦は、ゲッツーで試合終了のところを相手のエラーでサヨナラ勝ち。準決勝は強豪、北照高校。コールド負け必至といわれたが、同点の9回1、2塁三笠高校が放った打球を外野手が転倒し後逸。2点差を守りきった。決勝は、名門北海高校。長い北海道高校野球史の中で多少の浮沈はあれども、常に最強の一角を占め現代に至る正真正銘の強豪校。三笠が絶対に勝てなかった地元の私立高校三笠大谷を、すでに20‐2で下していた。下馬評は当然北海有利。北海は既に甲子園を決めた、とまで言われた。
決勝は雨にぬかるんだグラウンドで行なわれた。北海の機動力が活かせず、油断したのか泥濘に足を取られたかエラーを連発。三笠は8回1、2塁からスリーバントを試みる。これを北海がエラーし二者生還。これが決勝点になった。北海呆然。三笠ナインも結果に唖然としていたと伝説に伝わる。
甲子園では1回戦負け。しかもノーヒットという話のオチがある。
109年後。今年の夏の甲子園出場が決まる前後から、三笠の居酒屋でこのくだりを話さない集団はない。
109年前の三笠高校の甲子園出場は決して好運に恵まれただけではなかった、という考え方がある。当時、旧幌内炭鉱が操業していた。鉱夫たちは皆野球を好んだ。社会人の公式野球部から草野球のチームに至るまで、あちらこちらで快音が響く環境。こうした社会人野球が盛んな炭鉱街、という環境が高校球児たちにも好影響を与えたのだという。
この不確かな説は、現今の三笠市の環境を見るにつけ現実味を帯びてくる。カーボン素材の大量の需要に応えるため、2060年代から三笠市の炭鉱は再び掘削の音を響かせるようになった。鉱区拡大、鉱区拡大。労働者を内外に広く募った。
札幌で就職に失敗した私もそれでやってきた。三笠市はいまや釧路市と並び立つ活況を帯びている。炭鉱の所有者であるカネビシは明治以来の巨大な商社で、その一部門が炭鉱開発を担っている。カネビシの社員や直雇の鉱夫のほか、関連企業や鉱夫たちを相手に商売する大小の企業・お店がある。社会人野球チームは多い。炭鉱があって野球があるってのが当たり前の環境。そんなところにある三笠高校が、他の地域の高校を下して甲子園に出るのは、地域の誇りなのだ。だからだれしもが話をする。
炭鉱は給料は高いし、保証もしっかりしている。それでも、日々怪我人や死者は絶えなかったけれど。様々な人間が炭都にやってきていた。カネビシは、厳しい法整備に応えて、また労働者に安全をアピールするため、作業着とゴーグルの電装化を果たした。坑内での危険を退ける、電力に担保されたシステム。種々のナノマシンが不安を退け、明るさを担保し、作業の補助を行ない、怪我をした際には痛みを和らげる。
昔からそうだけれども、三笠の街は、石炭の採掘という至上命題に担保されて動いている。
炭住と呼ばれる巨大な長屋は、山あいに密集している。単身者用と妻帯者用とがある。妻帯者用にはAとBとがあって、4人家族用、6人家族用の広さがある。それぞれ規格は決まっている。家賃光熱費インターネットはタダ。21世紀だから各部屋に風呂はあるが、もちろん巨大で心地よい温泉銭湯も点在する。
町内会やPTAは、地域の清掃や廃品回収に熱心だ。町内会の電子回覧板は頻繁に回ってくる。年に1度、町内会単位で研修旅行で全国いろんな場所に行ける。
去年は、長野県の諏訪というところに行った。一昨年は京都府福知山。私の2人の子供が旅行に行けるほどの大きさになったから、家族4人で出かけたのだ。見知った人間と、同じ時間に集合して新千歳空港までバスで行って、飛行機に乗って。見学して、夜は酒飲んで、お土産買って。そして皆で疲れて帰ってくる。そして働く。
妻とは、三笠市とカネビシが共催する若者向けの集いで出会った。幾春別商店街のクリーニング屋兼おしぼり屋で働く娘。別に特別なことでもないのだけれど、プロ野球の応援チームが一緒で、また互いに別の草フットサルのサークルに入っていて、それで話が盛り上がった。互いにそろそろ結婚を考える時期で、互いに悪くないと思って、幾春別遊園地や映画館なんかでデートして、旧市街のカネビシ系列のホテルで結婚式を挙げた。カネビシや、独身者の組合からいくばくかの助成がでた。妻はクリーニング屋兼おしぼり屋を辞めて、結婚した女がよく就職する類のパートタイムに従事することになった。妻帯者用Aの炭住に引越、町内会に入り、私は青年部に入り、妻は女性部若妻会に入る。種々の趣味のサークルがある。保育所や学童保育は充実している。
下請けの連中はもっと流動的だが直雇に準じたそれなりの保障と生活とがある。
小学校の先生が一番に気にすることは、直雇と下請けの子供で喧嘩や差別やいじめが起こらないようにすること。これは親たちも同じだ。カネビシの継続した啓蒙運動で、下請けをバカにするような振舞は、少なくとも表向きはなされない。運動会や学習発表会はお祭りのように賑わう。
炭鉱の内部は昼も夜もない。一番方から三番方の輪番制。直雇も下請けも、輪番制に規定されて働く。朝しかやっていないスーパーや居酒屋なんかもある。銭湯も輪番制だ。夏祭りは、数日行なって、総ての炭鉱マンとその家族が楽しめるようになっている。祭りの準備は町内会を単位に行なう。山車を出して、当日は神輿を担いで、酒を飲んで喧嘩して(そんなときは、たいてい直雇と下請けとの違いがきっかけになるのだが)大騒ぎする。毎年必ず死人が出る。
すべては石炭カーボンを産出するため。
三笠市に巨大な資本が投下され、巨大なシステムが効率的に動かされている。人々はそのはらわたで息づいている。
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