10-4
× × ×
地下鉄の駅で伏原くんと別れて、一人で西長堀まで帰ってくる。
空を見上げれば、日はまだ落ちておらず、先ほどまで街を包んでいた雨雲を追い払うのに夢中になっているようだった。
僕は財布と相談してから、まず本屋に向かう。
続いて、自宅付近にある木製の煤けた扉を開いた。カランカランとベルが鳴り、その音に合わせて若い店員さんが「いらっしゃい」と迎えてくれる。
同志になる前から、きわどい内容の作品を読むのは大体この店だった。
家で読む時もあるんだけど、いかんせん弟と同部屋なので、バレないように読むのは骨が折れる。あいつ何にでも興味を持つから怖いんだよね。すぐに母さんたちに報告しやがるし。プライバシーなんてあったもんじゃない。
その点、この喫茶店には「敵」がいないからありがたかった。みんなコーヒーを飲みながら新聞や本を読んでいるからね。お互いに干渉しないから、落ち着いて本を読むことができる。もちろんブックカバーは忘れずに。
「……あーもうたまんないね。ここのものは何でも美味しいよ」
「ありがとうございます」
「店員さんもオシャレだし。バイト先ここに変えようかな」
カウンター席に、女性店員さんに絡んでいる女の人がいた。
今日はバンドの練習がなかったのか、仮装ではなく女子大生らしい格好をしている。パッチワークのデニムにひらひらしたシャツに粋な帽子に――いつもより大人っぽく感じられるのはそういうファッションだからかな。あまり興味がない。
あの人も今の姿になる前は、僕と同じようにファッションには無頓着だったのだろうか。あの写真の風体からして、身だしなみに気をつかうようなタイプではなさそうだけど、逆に今になってファッションに力を入れているのは、やはりブサイクではないから?
あるいは女性という生き物の特性なのかもしれない。僕は深々と考えさせられる。
「……小山内くん。あんまり見られるとボクだって恥ずかしいよ」
「あ、すみません」
「気づいてないと思ってたのかい。すぐにわかるんだからね」
仲田さんはそう言って、カウンターからこちらの机の対面に移ってきた。両手には紅茶とミルフィーユ。
とても美味しそうだったので、ついつい僕も同じものを注文してしまう。
「すみません、ミルフィーユとホットの紅茶で! 銘柄は何でもいいです!」
「小山内くんは知ってるのかな。世の中にはミラーリングというテクニックがあってね」
「そんなつもりはないですよ」
「せめて説明くらいさせておくれよ!」
彼女は「相手の真似をすることで好かれやすくなる技なんだ」と説明してくれる。
例えば挨拶とか、身振り手振りとか、声の高さに至るまで、バレないようにさりげなく似せることで心理的な効果を得られるらしい。
「なら仲田さんがここにいるのもミラーリングなんですか」
「いや、ここのケーキが好きだからだよ。小山内くんこそ、ミラーリングなんじゃないの?」
「ここってウチの近所ですからね」
「あ、そうなんだ」
彼女は目を丸くする。そういえば伝えてなかったな。
あまり良い予感がしなかったので、僕は話を変えることにした。
「それにしても、仲田さんがまたこの店に来るとは思いませんでした」
「まあ、わざわざ堺筋本町から来てるほどなんだから、我ながらよほど気に入っているんだろうね。女子はみんな甘いものが好きだしさ」
彼女は紅茶をひと口飲んで、温かそうな息を吐く。
やがて僕の分のセットが運ばれてくると、彼女の目線は僕のカバンに差し込まれていた本屋の袋に移った。
「それは何の本なんだい?」
「五郎さんにオススメされた『ココロトリガー』という女性向けマンガです」
「ほほう。五郎くんの目ならたしかだろうね」
仲田さんは「先に読ませてもらっていいかな」と小首をかしげてくる。あざといのは後輩ゆずりだなあ。
それが効いたわけではないけど、紳士のマナーとしてケーキを食べながら読むわけにはいかないので、すでに食べ終えている彼女に先に読んでもらうことにした。
「ありがとう。小山内くんは良い子だね」
「親にもよく言われます」
「いやね。バンドの仲間が遊びに来るもんだから、あんまり家に趣味の作品を持ち込めないんだよねえ」
仲田さんは「紙の作品は久しぶりだよ」とマンガのシュリンクをめくる。ここに至り、僕は心中で焼けるような恥ずかしさを覚えた。
ココロトリガー。先ほどは女性向けと説明したが、つまるところBL系の作品である。作者の佐野まゆみ先生はその手の同人上がりだそうで、五郎さんの話によれば、ギャグシーンのほわほわした絵柄に定評があるらしい。
そのわりに作品の内容は極めてハードだ。
主人公の金森は交通事故で睾丸を失った高校生。
己の容姿では女性と結ばれるのは不可能だろうと早くから悟っていたため、別に子供が作れなくなってもかまわなかった彼だったが、体内に残留する男性ホルモンに起因する行き場のない性欲には困らされていた。
ある日、病床でおかしくなりそうだった彼は、担当医に「昔から女性になりたかった」とウソをつく。どうせ女性を抱けないなら自分を抱いてやろうと考えたのだ。
そこから先はトントン拍子だった。
一年後、金森は一学年下の女子高に編入する。
元々小柄だったこともあり、女性ホルモン投与のおかげで彼の身体は女性らしいものに変わりつつあった。相変わらず容姿は微妙なものだったが、女子の社会に入ることができる程度には変化していた。
やがてクラスメイトの吉田、的場と仲良くなり、楽しくゆるふわな女子高ライフを送るようになる金森。
ところがある日、たまたま通りがかったゲームセンターにおいて、1年前まで同じクラスだった「話したこともない男子」に名前から正体がバレてしまう。彼の名はディアー。アメリカ人のイケメンだった。
さらになんと、彼は金森の変化を「美しいもの」と捉えていた!
そんなこんなで彼からコーヒーを奢られるのが日常になったり、男女のお付き合いを要求されたり、デートを求められたりする作品――だそうだ。
『今度の日曜日、オレとデートしてくれないか』
『な、なんでお前とデートなんて』
『キミの正体をバラされたくなかったら、快諾してほしいな』
『くそったれ!』
五郎さんの紹介用紙芝居が頭から離れない。
作風としては、恋を知った時だけ主人公のデザインがやたらと可愛らしくなるのが特徴らしい。手をつないだり真っ赤になったり……「恋する乙女は美しい」をそのまんまの形で表現している。
「今どき珍しいくらいストレートな作品だねえ」
仲田さんは「心の揺らぎにキュンキュンしちゃうよ」と自らの胸を抑えた。あえて表現は控えておく。
それにしても、まるで話を振ってくれと言わんばかりのタイミングだった。伏原くんの言葉から内心でずっと気になっていたのである。
「仲田さん、ひとつ訊ねたいことがあるんですが」
「なんだい。スリーサイズなら、自分でもよくわからないよ」
「なぜ心の揺らぎで萌えるのでしょうか」
こちらの問いに、彼女は「ふむ」とマンガを閉じる。
その上で「そういう話はこの店ではやめておこうか」と自身の唇に指を当てた。
この店ではやめておこう。かといって、他に行くところなんて近くには見当たらない。
まさか、また仲田さんの部屋に行くことになるんだろうか。
出来れば避けたい話だけど、その原因を考えると途端に仲田さんをビッチ扱いしてしまいそうで、心はもやもや。アンニュイな気分で占められていく。
「おっと。ボクの部屋は片づけてないからダメだよ」
「あ、そうなんですか」
「なんでちょっと安心してるっぽいんだい……とにかく、だから今日は別のところに行こうじゃないか」
仲田さんは机からこちらの伝票を拾い上げると「お金は払ってあげるから」と満面の笑みを浮かべる。そしてそのままレジまで行ってしまった。
ありがたいことだけど、イヤな予感しかしないのはなぜだろう。
× × ×
なぜ心の揺らぎで萌えるのか。
大和路先生は本の中で「男性から認められる快感がある」と指摘していた。
すなわち、同じ男性から存在を求められることで、自らの承認欲求を満たすことができるというわけだ。
また往々にしてTSモノの相手役がイケメンだったり大富豪だったりするのは、自分の恋心を認めたくない主人公に「まあ金持ちだしいっか」と打算的な言い訳をさせるためでもあり、同時にお話の中で手に入れる景品として価値を持たせるためだとしている。
加えて先生は「恋する乙女は美しいから」とも説明していた。TS作品でなくてもヒロインの好意に萌えられる作品は多いので、それが原因だろうと。
これらの先行研究に対して、仲田さんは3つの指を立ててみせた。
「ボクはあと3つくらいあると思うんだ」
「3つですか」
「うん。どうせだからペンで書いておこうかな」
彼女はその辺にあったメモ用紙を引っ張ってきて、五郎さんの私物である1ミリのミリペンを右手に何やら文字を記し始める。
ちなみに説明するまでもない気がするけど、ここは『第2保管室』である。
てっきり我が家に押し入られるものと危機感を抱いていたから安心させられた。あとはカラオケボックスとかマンガ喫茶とか。
それを話すと、彼女には「君と2人きりは危ないからね」と笑われてしまった。マンションに招いておいてどの口が言うのやら。
「お前、仲田さんと仲良かったのか」
不意に対面の五郎さんから訊ねられる。忘れ物班の当番は閉館まで居ないといけないので、まだ帰れないでいたらしい。もっとも彼が残っていなければ、僕たちはカウンターの中に入れなかったはずだ。
「そりゃまあ、同志だからね」
「同志だからって仲良くなれるとはかぎらねえだろ」
ネット上で人気者になったギタリストという設定の少年のイラストを描きながら、五郎さんはゴホンと咳をする。
なおイラストの少年は女性ギタリストとして人気を得ており、詳しくは『俺が女装して歌ったらバレた件』という女装マンガを読めばわかる。
わからないのは彼がそんなことを訊いてきた点だ。
「まさか五郎さん、仲田さんのこと……?」
「え、ボク、告白されちゃうの?」
「そんなわけあるか! こちとら元の姿を知ってんだぞ!」
五郎さんは肩を怒らせて、恐ろしくドスの効いた声で反論してきた。
たしかにあの姿を思い浮かべると、彼女に対して変な気は起きなくなるので、彼の言い分は十二分に正しいのだろう。というか、怖すぎて正しいとしか思えなくなった。仲田さんも膝を抱えてビクビクしている。
それに気づいたのか、五郎さんは「ああスマン」とスポーツ刈りの頭を掻いて、
「……つーか、仲田さんと小山内のカップリングが意外だったんだよ」
「僕たちのカップリングって……」
「そっちの意味じゃねえ。組み合わせだ」
五郎さんは「いつもオレたちは3人だろ。あと仲田さんを足して4人。それぞれで組んで何かすることってあんまりなかったじゃねえか」と自作イラストを用いて説明してくれる。
イラスト自体は既存絵の流用だったので、五郎さんの役はまさかのポニーブルーだった。蛮族系の幼馴染じゃないですか。
まあ、その件はさておき。
「そういえば、そうだったね」
彼の言うとおり、今まではせいぜい五郎さんがいなかったりするくらいで、あの中から2人きりで別のことをするというのは珍しかった。
自分たちは同志として一体不可分の存在だったのだ。
だからこそ、五郎さんは僕と仲田さんの仲を訊ねてきたんだろう。
もっとも、それに反対しているというわけではなさそうだった。
「まあ、オレとしては同志の会合だけじゃなくて、外でお前たちと遊んだりしてえけどな。部活ばっかで今はムリだけどよ」
「さっきもそんな話をしたような」
「伏原は反対していたがな!」
五郎さんは軽く机を叩いてから「外を見てくる」と立ち上がった。一応、当番なので忘れ物ボックスのチェックはしておくみたいだ。
彼が去ってから、机に残されたイラスト(インディゴリバーさん、梨川トノくん、ポニーブルー、のび太)に僕が目を奪われていると、仲田さんから「もしもし」とほっぺを突かれてしまう。
女子大生は爪を伸ばさないといけないという決まりでもあるのか、ほっぺにはわずかな痛みが走った。しかし当の彼女はこちらよりも不服そうな顔をしている。
「小山内くん、君から話を振ってきたんだよ」
「あ、すみませんでした」
「全くもう。たったの3つなんだから手早く言わせてくれたまえよ」
彼女はこちらの手元に例のメモを滑らせてくる。
心の揺らぎが萌えるのはなぜか。独特の丸っこい文字で記されていたのは『2倍』『自傷』『性的』の単語だった。
「……どう読めばいいんですか、これ」
「あれ、読めないかな。わざわざ女の子っぽい字を作ったんだけど」
「そっちじゃなくて意味の話ですよ」
「ああ。それは今から話していくから安心して。まずは『2倍』だね。これは身体だけでなく心も女の子になることで女性化が2倍楽しめるってこと」
仲田さんは「おっぱいだ、おしりだ、あそこがない、かわいい」と4本指を立てる。どれも女性化したキャラクターが味わうことになる定番メニューだ。
彼女は、そこに左手の3本指を加えてみせた。
「こっちは男子から女の子扱いされてなぜかドキドキ、自分の恋心との葛藤、初めての云々だよ。小山内くんならわかるよね」
「どれも心の揺らぎのスタンダード・ナンバーですね」
「ほら。これで楽しみが2倍になったわけだよ」
自分の両手を見つめて、ムフッと笑ってみせる仲田さん。
どうやらTS的なボリュームの話をしているらしい。両手を合わせても2倍にならないのは気にしないほうがいいのかな。
「次に『自傷』だね。これは自分を失う自傷的快感のことだよ」
「ん? それは特殊な人が楽しむものなんじゃ」
「忘れがちだけど、TS自体がわりと特殊な趣味なんだよ」
彼女は苦笑しつつ「スタンスにもよるけど、他の姿に変身するってのは今の自分を捨てることなんだから、病的とまでは行かないまでも通ずるところがあるはずさ」と先ほど貸したマンガを返してくる。
そういえば、これも自分の肉体の一部を失ってから始まる作品だったっけ。
よく完全に女の子になってしまったら作品として「上がり」とされるのも、それ以上失うところがなくなるからかもしれない。
「あと1つは何なんですか」
外にいた五郎さんが話しかけてくる。ちゃっかり聞いてるんだからね。
「『性的』についてはそのままだよ。だってさ」
仲田さんはおもむろに帽子を外すと、少し手櫛で髪型を整えてから……なぜかこちらの手をぎゅっと握ってきた。
いつぞやの鳥谷部さんじゃないけどスベスベしてるなあ。若干汗ばんでいるのは気合を入れて話してくれているからか。
やがて、仲田さんは大きく息を吸ってから、
「――うおお! 男に手を握られちまった! おええ、気持ちわりい!」
「――わ、なんで手なんて、いや、いやじゃないけど……なんで小山内くん相手にこんな気持ちになっちゃうんだろ……本当は……なのに……」
渾身の演技で2つのパターンを見せてくれた。
なるほど。たしかに心の揺らぎがあったほうがエロい。これがエロシーンだと考えれば、後者のほうが絶対に気持ちが乗る。
前者も変わる前とか、ギャグ系ならアリだけどね。
でも、そのまま彼女が「うおおお」と犯されても、絵面でしかハアハアできないだろう。少なくとも自分のスタンスではそうだ。
心から相手を受け入れることで幸せになる。心の揺らぎを扱う作品においては、受け入れる相手がいることも大切みたいだ。
気がつくと、いつのまにか汗ばんだ手から放されていた。目の前には恥ずかしそうにしている仲田さんがいる。
「えへへ。我ながら迫真の演技だったんじゃないかな」
「ええ。わざわざありがとうございます」
「まあ、ボクはまだ本当の恋心を知らないから、今のもただの予想にすぎないけどねえ」
彼女はそう言って、ほんのり寂しそうな目を見せた。
本当の恋心――彼女なりの心の揺らぎ。
この人が「それ」を求めて、あの力にすがったことを思い出し、僕はなんだかとてつもない人に出会ったものだと今さらながら感心させられる。
「すごいですね、仲田さん」
「ちっともすごくないよ。今の話だって、たぶん心の揺らぎに対する正しい答えではないだろうしさ」
彼女はとメモを指さしながら笑う。
それについては、人それぞれにスタンスがある以上は仕方のないことだ。
けれども、僕としては十分に参考になるお話だった。さすがは伏原くんの師匠である。変なピエロでもなければ普通の変態でもない。
「ただ、さ」
「はい?」
「小山内くんは別に同志であることへの言い訳が欲しいわけじゃないんでしょ?」
彼女はオシャレな帽子を被ると、わざとらしくツバで目元を隠して、
「なら、そもそも萌えという感情に理由付けが必要なのかい?」と指先で訊ねてくる。
……いらないかもしれませんね。
× × ×
センパイと別れてから、小生は地下鉄の中で少し考えていました。
センパイからどうして「石室」を使わないのかと問われて、自分でもよくわからなかったからです。
今が楽しいのは本当で、センパイや五郎さんと同志であり続けたいのも本当ですが、あの力に近づかないのは我ながら謎でした。
別にTSFに限らずとも何でもできてしまうわけですからね。頭が良くなりたいと操作すればその通りになるはずです。気に入らない人を消すのだって容易いでしょう。世界そのものを変えられる装置ですし。
あれに近づける運営委員の人たちが自分の欲を抑えていられるのか、一生徒として若干不安になってくるほどです。
「伏原先輩、少しお話いいですか」
文の里駅まで来たところで、座席の隣に同じ学校の女子生徒が腰を下ろしました。
小生はあまり女性に免疫がないのでドキドキさせられますが、相手がその赤ぶちメガネから「あの人だ」と気づくまでには、そう時間はかかりませんでした。
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