9-2
× × ×
妹さんがやってきたのは今から一時間前のことらしい。
五郎さんは突然の来訪に戸惑ったものの、ひとまず机に散らばっていたイラストについては他人の作品だとしてごまかしたそうだ。
もっとも、彼女から男の娘専門雑誌『いぇい!』を手渡された時点で、全てを明かすことにしたらしい。
「おかしいだろ、オレはベッドの下に隠しておいたはずなんだぞ……」
「あんたがバカみたいに眠っていた時に見つけたのよ!」
「勝手にオレの部屋に入るんじゃねえ!」
「2日もずっと眠っていたら心配になるじゃない!」
ああ、あの時に見つかったんだ。
祐子ちゃんは「見つけた時はホントにビックリしたんだから。アニキがヘンタイなんじゃないかって。きっと何かの間違いに決まってると思ったわ。でも今日こうして遊びに来たら、そんな絵を描いてて! あんまりじゃない!」とブルマを五郎さんに投げつける。
なぜブルマなのかといえば『いぇい!』の付録だからであって、別に彼女の脱ぎたてだとかそういう類のものではない。
ちなみにこのブルマはLサイズなので五郎さんでも穿くことができる。その件については訊きたくないから気にしないでおくことにした。
それにしても『いぇい!』か……あの雑誌は男の娘作品の他にも女装のやり方なんかも載っているから、さすがの僕も家族にバレた時のことを考えて手が出なかったんだよね。
現にバレてしまった五郎さんは妹に内容を読まれるという恐ろしい拷問を受けている。いったい五郎さんが前世で何をやったというんだ。
「どのページもおち……もっこりばっかり! 何なのよこの本!」
「もっこりのほうが恥ずかしくねえのかよ」
「こんな本を持ってるほうが恥ずかしいわよ! ヘンタイ!」
「ぐぐっ」
すっかり妹さんに逆らえなくなっている五郎さんは、苦し紛れに「この小山内だって同志なんだぞ」と名指ししてきた。
味方から流れ弾が飛んできた形になるけど、同志なのは否定できない。
「……あんたがアニキをヘンタイの道に引きづり込んだのね。そうよ。そうに決まってるわ」
祐子ちゃんは目をギロリと鋭くさせ、右手の『いぇい!』を投げつけようとしてくる。
まずい。五郎さんの大切な本がボロボロになってしまう。そもそも僕は本を粗末に扱うのが好きではない。どうにか宥めないと。
「いや、たしかに同志だけど、別に引きづり込んだわけじゃないよ」
「ならアニキをおかしくさせたのは誰なのよ」
「それは本人としか……」
「そんなわけないでしょ。アニキは中学までまともだったんだから!」
祐子ちゃんは『いぇい!』を机に伏せて、中学時代の五郎さんについて語り始める。
今年の春までラグビーと水泳に日々を捧げていた五郎さん。トップリーグのコーチを務めるお父さんとトレーニングを共にするその姿に、彼女は憧れていたそうだ。
体格の大きな五郎さんは中学のラグビー部でもフォワードでスタメンを張っていたらしい。祐子ちゃん曰く「プロップに悪い人はいないわ」とのこと。どことなく自慢げなのが少し微笑ましい。
なるほどね。この子はブラコンタイプの妹だったわけだ。
彼女本人には自覚がないのかもしれないけど、今の五郎さんへの厳しい態度も尊敬していたからこそなんだろう。
「この件はお父さんとお母さんにもお話しするから」
「やめてくれ! 後生だからやめてくれ!」
「やーよ。アニキは性根を鍛え直してもらうべきよ。そもそも伏月高校の推薦を断ったところからおかしかったのよ。受験でも飛翔大付属に行かずに群山を選んだし……」
祐子ちゃんは「アニキは正気を失っているわ」とため息を吐いた。
その正気を失っている中には、おそらく同志である僕も含まれているんだろう。
なんだか無性にムカムカしてくるな。ブラコンなのは別にいいけど、だからって僕たちまで巻き込まないでいただきたい。
なぜTSが好きなのか――それは人それぞれだ。
けれども、どんな理由であれ、好きであることを一方的に否定されるような「いわれ」はないはずである。たとえ世間から褒められた趣味でなくても同じだ。そもそも僕たちは褒められるために趣味をしているわけじゃない。
ならばこそ、彼女に問うてみようじゃないか。
「祐子ちゃんはどうしてスポーツが好きなんだい?」
「え、あたし? そりゃ生まれつきよ」
「小さい頃からやってきたから好きってことでいいのかな。でもさ、例えば勉強や音楽だって小学校の頃から授業でやっているわけだよね」
「あんなのつまんないわ。あたしは身体を動かすのが好きな性分なの。それだけよ!」
彼女は平然と答えてみせる。
何の迷いもない答えだった。
「なるほど。僕たちと同じだね。僕たちもTSが好きなのが性分なんだ。何が特定の原因があったわけではなくて、単純に好みなんだよ」
僕はできるだけ温和に説得する。
詳しく分析すれば各々に好きになった原因があるのかもしれないけど、それについては彼女も同じはずだ。
単純に何かが好き。そこに優越はない。
大和路先生も「他人の好みを貶してはいけない」と僕たちを戒めている。
「待って。あんた、スポーツとヘンタイを同じ扱いにしたわね。バカじゃないの。こんなありもしないことに熱中するのとはまるで違うんだから」
祐子ちゃんはイラストを拾い上げる。
魔法使い見習いの少年が、己の人形である少女に心を移している絵だった。女風呂で他のキャラと絡んでいる。
たしかにこの『百万の呪文』のような世界は存在しない。大好きな女子を操り人形にしてしまうなんてありえない。その女子に憑依するのだって今の科学ではムリだろう。
でもTSがありえないわけではないのは「仮性半陰陽」の話で証明済みである。
その話を彼女にしてみると、五郎さんも続けて「脳移植」の説明をしてくれた。これは脳を他人の肉体に植えつけるジャンルだ。これもありえる話だったね。
「今の技術では神経を結ぶのが大変だから実現していないが、いつか実施されるんだぞ。かのハインラインや井上ひさしも作品にしているしな」
「ハーレクイン?」
「それは女性向けの小説を出している会社だろ。たまには恋愛モノ以外も読めよ」
「な、なによ! ヘンタイのくせに!」
ツッコミを入れた五郎さんに、祐子ちゃんはあらためて『いぇい!』の表紙を見せつけてくる。
女の子にしか見えない子にもっこりが付いている奇抜な絵面だ。一応、女装モノだし広義ではボーイズラブなんだから女性にも好きな人はいそう。
ちなみに「脳移植」については近年ロシアで死体に別人の頭を結びつける試みが行われていたりする。TSでもそういう話は太古からあるけど、顔がそのままなのが自分好みじゃないんだよね。むしろ『ナウシカ』のナムリスの印象のほうが強い。
ジブリ作品には女性化要素がカケラもないな――なんて内心で考えていると。
おもむろに、祐子ちゃんが五郎さんに近づき始めた。
まさか兄妹でリアルファイトをやってしまうんじゃ。
そんな僕の危機感を知るはずもなく、祐子ちゃんは五郎さんのとてつもない腹筋にゆるく拳を押しつけると、
「……アニキは本当にそうなりたいの?」
「ん?」
「女の子になりたいの、それか女の子っぽい男になりたいの?」
彼女の問いかけに、五郎さんは「あー」と死にそうな声を漏らす。
気持ちはわからないでもない。こういうのはバカじゃないのと怒られるよりも、マジメに心配されるほうが心に来そうだ。
少しだけ天を仰いでから、祐子ちゃんの兄は答えを出した。
「あのな。まず第一にラグビーがイヤになったわけじゃねえんだ。この学校に進んだのも他に理由がある」
「理由……」
「ああ。それと、別に今すぐでなくてもいいんだよ。オレの人生を捨てたいわけでもねえ。ただ『してみたい』だけだ」
それはいつか僕が抱いたものと同じだった。
彼は「今のオレには満足してるからな」と柔らかな笑みを浮かべる。強面の彼にあんな顔ができるとは知らなかったのでビックリした。
それを受けてか、祐子ちゃんは小さくうなづいてみせる。
「わかった」
「あとは、なるかもしれないって可能性を残しておきてえのもあるか」
「もうわかったから。TSFなんて何が良いのかさっぱりだけど、やっぱりアニキにはスポーツで活躍してほしいけど……あたしだけはわかってあげるから」
彼女は苦笑いを見せると、五郎さんから後ずさり、中学校指定のカバンを肩にかけて部屋を出ようとする。
そのトボトボした足取りに、気を取られていると……「うおっ!」僕は後ろから何者かに抱きしめられた。
相手はゴツゴツしていないけど肉付きが良いわけでもない。ずいぶん小柄だ。
でも伏原くんは外のカウンターにいるはずだし、鳥谷部さんは旅行で大阪にいない。となると誰なんだろう。
おそるおそる振り向いてみると、
「ふふふ。外で話は聞かせてもらっていたよ。小山内くんの説明は面白かったけど、決め球に欠けていたからねえ」
「な、仲田さん?」
そこにはピエロの格好をした大学生がいた。
「ごめんよ。窓から入ろうとしたら、つまづいちゃってさ。ヒールで慣れないことはするもんじゃないね」
彼女は「まあ褒美(ナグロダ)だと思ってよ」とこちらに耳打ちしてきてから、そそくさと裕子ちゃんの方に向かっていった。
うーん。どんな反応すればいいのか我ながらわからない。もっとわからないのが彼女が窓から入ってきた理由だ。正門から入ると河尻さんに止められるのかな。あるいはピエロな格好だから不審者だと思われてしまうのか。
あまり幸福感のない今の抱きつきが人生初のラッキースケベになるのかはともかくとして、仲田さんは出ていこうとしている女子中学生に声をかけていた。
「ハロー。五郎くんの妹なんだってね」
「ピエロ……?」
「ボクは仲田良子。君のお兄さんの婚約者だよ」
「ウソッ!」
仲田さんの軽口を真に受けた様子の祐子ちゃんだったが、当の五郎さんに「ウソに決まってるだろ」と訂正されると、なぜかホッと息をついていた。
ともあれ。さすがに女性の姿をしているだけあって、僕たちより話しやすいのか、やがて2人はお互いに耳打ちで話すようになる。
「……もし、君が……なったら……どんな……」
「あたしなら……ラグビーで……」
会話の内容については、ヒソヒソ話なのでいまいち伝わってこない。
けれども、それが終わった頃には、祐子ちゃんはすっかり憑き物の取れたような顔になっていた。
彼女はその笑みを兄に向けると、
「……アニキ、せいぜい『なってみれる』といいわね」
そう言って、部屋のドアノブを回した。
個人的には『なってみれる』という日本語に違和感を覚えるところだけど、それにしても仲田さんはどんな術を使ったんだろうか。
あれだけ僕が説明しても納得してくれなかったのに。
僕はさりげなく仲田さんに近づいてみる。
「おや。ボクの手口が気になるのかい」
「あ、はい」
「ガールズトークを聞きたいなんて無粋だねえ。まあいいよ」
仲田さんは「あの子が五郎くんに言ってたでしょ。そんなに良い身体してるのにって……つまりはそういうことだよ」と話してくれた。
なるほど。そういえば「勿体ない」とか言ってたっけ。
そこから彼女に「もしもあたしがあの肉体なら」を想像させることで性別変化の意義を伝えたわけだ。男性から女性のパターンであってもTSには変わりないからね。僕のスタンスでは萌えないけど。
さらに逆のパターンの存在を伝えれば、好き嫌いはともかくとして「理解できない」ことはなくなる。
身近な例を挙げることで、わかりやすくする。
さすが(自称)小説家の卵だった。
「ふふふ。これから教育を続けていけば、彼女もいずれ力強い同志になるかもしれないよ」
「それは親御さんのためにもやめたほうが……ところで、仲田さんはどうして急に来たんですか?」
何となく話が解決したところで、僕は素朴な疑問をぶつけてみる。
というのも、そもそも今日は元々マンガを作る予定の日ではなかったのだ。だからこそ僕は当番をサボっていた。
なのに、忙しいはずの仲田さんが来ているのは奇妙だった。
そんな問いに対して、彼女はポケットからスマホを取り出してみせると、
「メールが来ていたからね。来てくださいって。これでも年上だから、後輩から頼られたら行かざるを得ないんだよ」
困ったような口ぶりのわりに、ほんのり嬉しそうな仲田さん。
なるほど。あのメールは自分だけに送られたわけではなかったのか。
口には出しづらいけど、何ともいえない気分にさせられる。
いや、ピンチだったんだから、みんなに助けを求めるのは当たり前なんだけどね。ちょっぴり気負っていた自分が恥ずかしい。
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