9-1 俺の妹は漫画が読める


     × × ×     


 夏休みなのに、わざわざ学校に行くなんてアホらしい。

 朝から図書部の当番に駆り出されていた僕は、鳥谷部さんが家族旅行で不在なのを良いことに日本橋のネットカフェまで逃げ込んでいた。

 せっかくの夏休みなんだからたまにはゆっくりしたいのである。相方の田村は一人で『サイエンスエリア』を掃除することになって大変だろうけど、あいつには前回サボったぶんのツケを払ってもらうだけのことだ。


 そんな具合で自分を正当化しながら、いつものようにネットカフェのパソコンを使ってアマゾンで欲しい作品を注文していく。

 本日は『ホンガール』と『深夜中の乾酪粥(チーズリゾット)』と『魔法少女促成栽培』で小計1600円なり。

 他にまだ読了できていない本があるから、とりあえず前から追いかけている作品の新刊だけで済ませておいた。お金もないからね。


「……ん?」


 不意にズボンのポケットがウズウズする。

 右手でスマホを取り出してみると、五郎さんから「来てくれ」とのメールが届いていた。内容がシンプルなのはいつものことだ。

 主語がないのに行き先がわかるのは、お互いに付き合いが長くなってきたから。

 ただ『第2保管室』は『むらやま』の中にあるから、下手すると掃除中の田村と鉢合わせしちゃうかもしれないんだよね――次の日なら「サボってごめん」で済むけど、当日だとケンカになりかねない。


 僕は無性に冷たいコーヒーが飲みたくなってきた。別に時間をつぶしたいわけではない。無用な諍いを避けるための大人の対応という奴だ。

 五郎さんだって、急ぎの用ではないはずだから許してくれるだろう。


「……え、あれって」


 一人用のブースを出て共同のドリンクバーに向かうと、なぜかコーヒーメーカーの前に赤ぶちメガネの中学生が立っていた。ブラックコーヒーにフレッシュを入れて、ストローでくるくるとかき混ぜている。

 咄嗟に左右に目をやって「ご本尊」の存在をチェックしていると、底のシロップを溶かし終えたらしい彼女から「今日はいないですよ」と話しかけられた。バレていたのか。


「いないって……河尻さんが?」

「ええ。あの方も暇ではありませんから」


 久慈さんはストローに口をつける。

 どうやら、彼女とていつも一緒というわけではないらしい。

 ひょっとすると今日は二人ともオフなのかな。そのわりには校外なのに委員用の腕章を付けたままなのが気になるけど、はてさてどうしてここにいるのやら。


「まさか僕に用があったりする?」

「これといってあるわけではありません」

「あ、そうなんだ」

「強いていうなら、知り合いのTさんが『明日は私がいないからあいつがサボる』と言っていたので、一応追いかけてみたといったところですか」


 彼女は似ていないモノマネを交えてきた。

 なるほど。どうやら僕がサボることは予期されていたらしい。くそう。Tさんめ。いったい何谷部さんなんだ。


 久慈さんは続けて「あとは河尻様が以前ネットカフェで小山内さんに出会ったことを楽しそうに話していたのもあります」と含み笑いを浮かべる。

 クリップでまとめられた後ろ髪が小刻みに揺れていた。何が楽しいのやら。これは以前から抱いていた印象だけど、わりと俗世離れているというか珍しいタイプの人だ。


 いずれにせよ、サボリの現行犯を委員に見つけられてしまったとなれば、僕に待っているのは決して明るい未来ではないはずだった。

 ところが久慈さんは、


「別に密告したりしませんよ。Tさんじゃあるまいし」

「え? 本当に?」

「そんなつまんないことに何の利があるんですか」


 平然と自らの仕事を放り投げてみせた。

 もしかして天使だったりするのかな。いや、でもそれなら初めから僕を追いかけなければ良かったんじゃ。


「――その代わり、プールではあの子を楽しませてあげてくださいね。きちんと満足させてあげないと、今日の件もどうなるかわかりませんよ」


 彼女はまたもや含み笑いを浮かべると、こちらの耳元に「楽しみにしてますから」とささやいて、そのままコーヒーと共にドリンクバーを去っていった。

 あの子を楽しませてあげてくださいね。「あの子」あの子なのか。なるほど、つまり久慈さんの中ではそういう扱いなんだ。



     × × ×     



 センパイは仮性半陰陽についてどう思いますか。

 五郎さんの呼び出しを受けて、渋々ながら忘れ物カウンターまでやってきた僕に、カウンターの主はそんな話題をぶつけてきた。


 あれから内心で赤ぶちメガネの発言の意図を考えたり、年下なのにお姉さん系なのはどういう仕組みなんだろうとか密かに考察していたんだけど、未だに答えは出ていなかった。

 何より相方に見つからないようにするために、今も左右に気を配っていたりする。

 ぶっちゃけ質問どころではない。

 かといって同志の問いかけに答えないわけにもいかないんだよね。


 伏原くんとしては、自作マンガのダブルヒロインに担わせるジャンルを決めかねているみたいだった。

 なので、そのジャンルの一つである仮性半陰陽について訊ねてきたんだろう。


 仮性半陰陽とは、先天的に外性器が本来の性別とは逆の作りになっている症状のことだ。

 例を挙げるとするなら、股間にはおちんちんっぽいものがあるのに、体内には子宮があったりする。逆もまた然りである。


 性分化疾患とも称されるこれらの症状は、往々にして生まれてすぐに発見されるものらしいが、時として発覚が遅れることもあるらしい。その場合は本来の性とは異なる形で子供が認知されてしまうわけだ。

 つまり遺伝子的には女性でありながら、おちんちんに似たものがあるからと男性として育てられてしまう場合が存在する。

 またDNA的に本当にどちらともつかないケースもあるようで、男女の二択だけでは済まない社会的な性の在り方について、世界的に話し合われているそうだ。


 ともあれ、これらの症状は外科手術やホルモン治療である程度なら和らげることが可能なので、自分の過ごしてきた性に合わせて生きることを選ぶ人もいれば、本来の性別に合わせる人もいる。

 中学生までは男の子だったけど――という人が、現実に存在するわけである。


『あれ、お前たしか……』

『江川だよ』

『だよな! でも、それって女子の制服なんじゃ』

『女子の制服だよ』

『だよな! ってどういうことだよ!』

『色々あったから。まあ高校でもよろしくね』


 中学までは同性の友人だったはずなのに。なぜドキドキしてしまうのだろう。

 これがありえるのだ。そう、仮性半陰陽ならね。


 TSジャンルとしては、このように「現実にありえる」ところが注目される。変身や入れ替わりにはないリアリティが仮性半陰陽にはある。ただし後天的になれるものではないので、一般作品の「TS回」にはあまり使われない。

 ちなみに真性半陰陽は俗にいわれる「ふたなり」のことだ。両性の性器を持ち合わせており江戸時代から好奇の対象になってきた。僕のスタンス的にはあんまり好みではない。女性の股間におちんちんがついているだけのパターンが多いからね。


「あー。ふたなり以外なら好きだよ」


 僕は正直に答える。

 もっとも、なまじ現実的なだけに実際に苦しんでいる人もいるわけで、それを己の欲のために消費するのは決して褒められたことではない気がした。これは「人工的な性同一性障害を生み出すものではないか」というTS全体の懸念とも通じる部分だ。


 対して伏原くんは「小生も好きです」と返してくる。


「かの『保守点検の日』は名作ですからね」

「ああ、あれは良い作品だね」

「さくつみき先生はBL作家だけに男性をメス的に変えていくのが上手い気がします。ところで、センパイはあれで自分もそうなんじゃないかと期待されたりしましたか?」

「もしかして伏原くんもかい?」

「いえ。小生は期待してませんでしたよ。なるほどね。センパイったらもう」


 彼はイタズラっぽく笑ってみせた。どうやらカマをかけられたらしい。


 何だかムカついたので、僕は「中に入らせてもらうよ」とカウンターからドアのほうに回らせてもらう。

 あらかじめ周囲に誰もいないことは調べてあるから、TSの話をするだけなら別に中に入らなくてもいいんだけど、今は伏原くんから離れることで子供じみていたとしても反抗の意を示しておきたかった。


 全く。そりゃ中学までは自分の肉体に期待していたに決まってるじゃないか。むしろ期待していない伏原くんのほうがおかしいはずだ。

 ありえるTSなんだからほんの少しくらいは考えるものだろうに。


 ドアノブに手をかけると「あ、待ってください」と彼に制止された。


「え、どうしてだい」

「中には五郎さんがいるんですよ」

「その五郎さんに呼ばれたから来たんだけど」


 こちらの返答に、伏原くんは「あちゃー」と天を仰いでみせる。

 なにかマズいことでも起きたのだろうか。ひょっとして「石室」の誤作動で五郎さんが惚れっぽい美少女になってしまったとか。


「……センパイは犬も喰わないという例え話を知っていますか?」

「夫婦喧嘩のことだよね」

「小生は犬ではありませんが、あれには関わりたくありません」


 どことなく犬っぽい伏原くんが自らの毛をわさわさとかき混ぜる。

 はてさて「あれ」とは何なのやら。まさか五郎さんに奥さんがいるはずないし、いったい中で何が起きているのだろう。


「伏原くん。やっぱり同志に来てくれと言われたら行くしかないよ。秘密を共有して志を同じくする者なんだから」

「センパイ、気になるだけですよね」

「うっ……否定はしないけど、やっぱり五郎さんにはお世話になってるからさ」


 意を決した僕はドアノブを引いてみる。

 慣れ親しんだ『第2保管室』には相変わらず冷房が効いておらず、むわっとしたこちらに空気が流れ込んできた。途端に首から汗が流れそうになる。

 今さらながら、さすがに秋までは別の場所で活動したほうが良いかもしれない。


 室内に目を向けると、右側の棚の前に見知らぬ少女が立っていた。

 どこか別の学校の生徒なのか、水色のワイシャツにリボンの夏服を着ている。全身が程よく日焼けしていて、ショートボブで、いかにもスポーツをしていそうな女の子だ。あとは五郎さんのお母さんに少し目元が似ている気がする。


 もしかして本当に五郎さんが……なんてことはなくて、当の五郎さんは彼女の対面の席で苦しそうに汗をたらしていた。


「なあ祐子(ゆうこ)。別にオレのやりたいことなんだから許してくれてもいいだろ」

「こんなの作ってるなんて許せるわけないでしょ!」


 少女は五郎さんの描いた『まぐろ』の寺井くんのイラストを机に叩きつける。

 あろうことか主人公の津島が彼にメイド服を着せているというシチュエーションだったので余計にダメだったみたいだ。

 当然、五郎さんの絵なので寺井くんは少年だとわかるように描いてある。世間的にはこんなのと言われても仕方ない。


 少女の手には他にも『とのゴト』の梨川くんや『お勤めのいろは!』の主人公姉弟など、五郎さんによる力作が握られていた。


「こんなにたくさんキモいの描いて……これがラグビーをやめてまでやりたいことだったの? おかしいよ!」

「キモいとはなんだ。大体スポーツだけが全てじゃねえだろ!」

「勿体ないって話をしてるのよ! そんなに良い身体してるのに! あたしよりも全然才能あるくせに!」


 祐子と呼ばれた少女は泣きそうになっている。

 よほど五郎さんが絵の道に進んでいるのがイヤらしい。なるほど犬も喰わないな。他人が手出しするような話ではなさそうだ。

 しかし五郎さんもこんな子とお付き合いしているなんてスミに……待てよ。別にお付き合いとはかぎらないような。


「お! 小山内じゃねえか! やっと来てくれたのか」


 五郎さんは僕を手招きすると「妹がうるさくて大変なんだ。一緒に説得してくれよ」と手を合わせてくる。

 それに合わせて少女のほうがキリッとにらみつけてきた。

 よく見ると胸元の名札に「源五郎丸祐子」とある。そうか妹さんだったのか。

 女子サッカーの合宿だとかで今まで会うことがなかったからなあ。そりゃ五郎さんのお母さんに似ているはずだ。

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