8-3
× × ×
窓際のケトルに布をかぶせたのは先週のことだった。
ずいぶんお世話になってきたとはいえ、エアコンのない『第2保管室』には過ぎた代物だから仕方ない。
代わりに同志の喉をうるおす役目を担うことになったのは、各自持参の水筒と校内の自販機であった。
「ミルクティーが3本っと」
本校舎の昇降口まで出向いて、僕は同志たちの水分を手に入れる。
伏原くんの入れてくれる紅茶も味わい深いけど、紙パックに入った人工的な甘みも捨てたものではない。
ストローで吸ってやれば、夏の熱が吹き飛びそうになる。
同志の分をポケットに入れて、僕はしばし甘みと共に散歩することにした。
僕たちの学校は中・高・大学併設校なので、歩く分には行き先に困らない。暇そうな大学生に絡まれることを恐れなければキャンパス巡りだって楽しいものだ。
芝生と校舎。地下の食堂。大学生協。
3年後には僕もここに通っているかもしれない。鳥谷部さんは成績が良いから京都の衣笠あたりかな。
高等部との境目にゴミ箱があったので、飲み終えた紙パックを捨てる。思わず同志の分に手を出しそうになるもグッとこらえた。この2本はちゃんと持って戻らないと。
2本。自分としては五郎さんへの「ごめん」のついでに補給物資(のみもの)の確保を申し出たはずなのに、なぜか中学生の分まで入手させられているのは、やはりあの子が色々と上手いからだろう。
お金はきちんといただいたから文句なんてないけどさ。
でも、どうせなら一緒に来てくれたら良かったのに。
そんな女々しい(注:ネガティブ)ことを心の中で考えていると――『むらやま』の方向から女子生徒が近づいてきているのが見えた。
あの柔らかそうな子はもしかして。
「あっ、センパイ!」
「やっぱり中学生ちゃんだったか」
「昨日以来ですね。まさか待ち伏せですか、センパイ」
彼女はお供のメガネ女子にカバンを任せて、イタズラっぽい仕草で近寄ってくる。あちらの女子は久慈さんだったかな。もう一人のおっぱいの大きい子は付いてきていないようだ。
「待ち伏せなんてしないよ。用事のついでに散歩してるだけ」
「そうでしたか」
中学生ちゃんは屈託のない笑みを浮かべる。
ちなみに今日の彼女は長い髪を右サイドでまとめており、いつもより健康的な印象を抱かせた。かつてのように前髪が下ろされているわけでもないので、かなり明るくて親しみやすい感じだ。
加えて全身が年相応の造形美に包み込まれている。特に腰から脚にかけてのラインは絶妙の一言。中学生らしく肉付きを残しているのも良い。柔らかそうなところについては言及するまでもない。
これで本当に年下の中学生ならなあ。
きっと僕も疾しい気を起こしていたことだろう。
「河尻さんも散歩なのかい」
「はい。久慈さんとお喋りしてました! 私と用事のついでに!」
彼女の紹介に合わせて後ろの女の子が会釈をしてくれる。含み笑いをしているのが何だか気になるところだ。
ふと、傍を通りがかった大学生が「でけえ」と声を漏らした。
彼の両目は中学生ちゃんに向けられている。さすがはウチの大学生だ。やっぱり上に進学するのは止めておこう。
「……なるほど。その手がありました」
当の彼女は恥ずかしがることもなく、なにやら自らの胸に手を当ててよからぬことを企んでいるみたいだった。
やがて「そうだ!」とわざとらしく手を合わせた彼女は、桃色のガマグチからチケットのようなものを出してくる。
これはプールのチケットだな。
「枚方にザバーンというプールがあるのを知ってますか、センパイ」
「CMで流れてるから知ってるよ」
とある鉄道会社が経営しているせいか、よくテレビに出てくる。むしろ夏だけのプールより本体の遊園地のほうが有名なくらいだ。
「なら話は早いです」
彼女は「仲の良いお友達として二人で行きましょう」と提案してきた。
お友達に力がこもっていたのはそこに思うところがあるからか。右手で差し出されたチケットの向こうには強気な笑みがあった。
それを僕は崩すことになる。
「……ごめん。今回は忙しいからムリかもしれない」
「えっ、今日から夏休みですよ? まさか補習を受けるとか」
「テストは良くなかったけどギリギリOKだったから……実は夏休みを利用して忘れ物班の人たちとマンガを作るつもりなんだ」
僕は自分たちのやりたいことについて大まかに説明する。
TSについてはあれ以来、様々な意味で「不可触」の扱いになっているので省いておいた。
でも中学生ちゃんは同志を知っているわけだから、たぶん何となく察しているはずだ。
彼女はムッと口先を尖らせると、
「それって半日の休みも取れないんですかね」
「あっ……えーと」
「もう。行きたくないならそう言うべきじゃないですか。あんまり素敵じゃないですよ、センパイのそういうところ」
プールのチケットをスカートのポケットにしまい込んだ。
なおかつ、ふてくされたような涙目がこちらに向けられる。
はっきり言って良くない流れだった。女性を泣かせているという絵面自体が我ながら許しがたいし、どうにか彼女を宥めないと河尻さんのほうに影響が出てしまいかねない。
女性のまま生活している仲田さんとは異なり、河尻さんは高校2年生の委員長として日々を過ごしながら、たまにこうして中学生ちゃんと化している。
彼が求めているのは突き詰めれば「年上の小山内と楽しく遊んでいる女子中学生の自分」であり、それが得られなくなると途端に不満を抱くようになる。そのはけ口になるのは当然の帰結として僕がいちばん大切にしているものだ。
具体的には『第2保管室』がつぶされてしまうかもしれない。
それくらいは委員長の力があれば容易いことである。何なら他の保管室の荷物を全て移すだけで済むはずだ。僕たちはおのずと拠点を失うことになる。
攻撃手段は他にも考えられる。以前、夜通しのカラオケをお断りした時には『むらやま』のTS作品が軒並み貸出状態になり、平井和正の『怪物はだれだ』を借りようとしていた五郎さんがむせび泣いていたっけ。
自らに好意を抱いているかもしれない元男性の美少女からプールでのデートに誘われる。
字面だけなら単行本を入手してしまいそうだけど、その裏には「同志」を守るための駆け引きが潜んでいるのだ。
『わかった。夏休み中には時間を作るよ』
引き際を悟った僕は、そう告げようとしたが……ちょうど久慈さんが中学生ちゃんに話しかけようとしていたため「わ、たっ」としか口にできなかった。
何だか飛んできた虫でも怖がったみたいで恥ずかしいな。
だからといって「あめ食べたいなー」と付け加えると余計にアホっぽくなってしまう。ここはひとつ黙っていよう。
「……ですから、……でございましょう」
「……!」
当の中学生ちゃんは久慈さんの耳打ちに小さくうなづいている。
久慈さん。河尻さんの副官であり、中学生ちゃんの友人でもある謎の中学生。赤ぶちメガネで含み笑いを隠している、何を考えているのかよくわからない女の子だ。
見た目は委員だけあって可愛いんだけど、正直お近づきになりたいタイプの人ではない。
いくらか会話を交わした彼女たちは、やがてこちらに向き直ると「すみませんセンパイ。ムリに誘うのはよくありませんでしたね」と両手を合わせて――そのまま2人で大学の方向に歩き出してしまった。
これはもしや中学生ちゃんを退けられたのでは……初めてのことだ。
でも何だか後ろめたいな。せっかく誘ってもらったのに逆に謝られてしまうなんて。あの子はただ僕とプールで遊びたかっただけだろうに。むむむ。
「……あー。やっぱり行ってもいいかな」
「本当ですか、センパイ! やったー!」
彼女は待ってましたとばかりに抱きついてくる。
うーん。一転して謀られた気がしてならないけど、この柔らかさをプールで目にすることができるなら別にかまわないかな。
性欲の狭間から本音を言わせてもらえば、どうせ中学生ちゃんの想いには応えられないんだから、変に期待させたくないんだけどね。
何となく久慈さんに目を向けると、彼女は相変わらず含み笑いを浮かべていた。
赤ぶちメガネの奥には何が見えているのやら。あるいは単に素の表情が含み笑いなのかもしれない。イヤだなそんな子。
× × ×
大学から『むらやま』の入口まで戻ってくる。
中学生ちゃんたちと話し込んでいたのもあって、忘れ物カウンターまで辿りついた頃には、2本のミルクティーはすっかり人肌に温まってしまっていた。
「ごめんよ。ズボンに入れるべきじゃなかったね」
「いえ。小生は気にしませんから」
なぜか部屋の中ではなくカウンターに立っていた伏原くんに、僕はぬるいミルクティーを手渡す。
もう一本も渡そうとドアに手をかけたら、伏原くんから「五郎さんは芸術エリアに本を借りに行きましたよ」と教えられた。なんでもマンガ向きのキャラクター作りの本があるらしい。ここには何でもあるんだな。
仕方がないので、カウンターで伏原くんとお話することにした。
考えてみると出会ってすぐの頃以来かもしれない。
6月。あどけない少年から言葉巧みにTSの話を振られて、さらには面白そうな本までエサに使われて、あれよあれよといううちにオルグされてしまった。
「あの頃は中学生ちゃんの正体が伏原くんなんじゃないかと疑ったりしたなあ」
「え、小生が女装なんてするわけないですよ」
「そりゃそうなんだけどさ」
「……そういえば河尻さんはまだあの子のままなんですか」
伏原くんは回収ボックスからクマのぬいぐるみを取り出した。お腹から綿がはみ出ているあたりゴミなのかもしれない。
反射的に「ゾウモツアニマル」と呟いたら、伏原くんと目があった。彼も同じことを思っていたようだ。お互いに笑みがこぼれる。
「うん。あの子はあの子のままだよ」
「まだ遊んだりするんですか」
「次はプールだったかな」
僕の答えに、伏原くんは「プール?」と首をかしげた。
プールそのものを知らないのではなくて、彼女と行く意味がわからないようだ。彼には僕が中学生ちゃんに気がないことを伝えてある。付け加えれば「元男」を好きになれそうにないことも先ほど話しておいた。
「……仕方ないよ。あっちは天下の委員長様なんだから」
「まあそうでしょうけど……2人でプールですか」
「水着だね」
「女性らしさを際立たせる定番のイベントですね。でも、そこまで期待させておいて、本心では受け入れられないと決めてるなんて、センパイもかなり残酷ですよ。付き合ううちに決めるならまだしも……初めからダメだなんて……」
「いや、そうさせたのは君だよ」
こちらの答えに、伏原くんは目を丸くさせた。
そして「忘れてました」とイタズラっぽく舌を出してくる。
そうなのだ。
あの時、あの方法を編み出してくれたのは伏原くんだった。
とりあえずお友達でお茶を濁しておきましょう。中学生ちゃんが求めているのはセンパイとの交流であって、そのための委員入り・同志潰しにすぎないのですから。
彼の発案により、僕たちはあの窮地を切り抜けた。僕は委員にならずに済んだし、五郎さんは死なずに済んだ。鳥谷部さんとの入れ替わりも解消された。
しかし「そうする」と決めたのは他の誰でもない小山内一二三なのである。伏原くんはアイデアをくれただけにすぎない。それなのに、褒めるどころか責任までなすりつけるなんて。
こんなにも僕を慕ってくれている後輩なのに。
僕は発作的に彼の頭を撫でながら、
「……伏原くん。よければなんだけどさ」
「何です?」
今までのお礼と、幾ばくかの謝罪を込めて、できれば君の言うことを一つだけでも聞いてあげたい。
そう告げたら、彼の顔には――。
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