7-4


     × × ×     


 初夏の日光が『むらやま』を包み込む。

 休館日だった前日とは打って変わって、今日の館内はお客さんでいっぱいだった。


 図書部員たちはそれぞれなりに大忙しであり、中央ホールの受付にある穴のことなど気づこうともしない。

 そもそも受付の上坂さんが見張っているから、気づいていても入れそうになかったりする。


 ポルトガル・マフラ修道院を模した『芸術・哲学エリア』。


「ふわあ」


 いつものように床掃除をしながら、僕は大きなあくびをさせてもらう。

 あれから色々とあって――昨日はあまり眠れていない。

 具体的には伏原くんと共に早朝まで「奇跡」が起きるのを待っていたからだ。もちろん一緒にいたわけではなくてメールを交わしていたんだけど。


 昨日の去り際、中学生ちゃんは「日付が変わる頃には元に戻せるようにしておきます。本当はすぐにも不幸から脱して差し上げたいんですけど、多人数だとたくさん指定しないといけないので大変なんですよ。あとはその……私なりに考えたいこともありますから」と僕たちに告げた。


 となれば「どんな感じで元に戻るのか知りたいですね」となるのは自然な話だった。

 ところがいつになっても「奇跡」の兆候が見えず、さすがに5時頃には我慢できずに眠ってしまった。

 やがて弟に起こされた時にはすっかり元に戻っており、今日も今日とて『むらやま』に来ている次第である。


「……鳥谷部さんも同じことを考えていたんだろうな」


 僕は自分の肉体を包み込む眠気の理由を彼女に求める。

 好奇心旺盛な彼女のことだから、もっとギリギリまで起きていたかもしれない。

 とてつもなく眠たくて、またあくびが出た。我ながらよく授業中を耐えられたものだ。


「おい。サボるなよ」


 相方の田村がチリトリを片手ににらんでくる。

 床から掃き集めたゴミを入れろと言いたいらしい。


「ああ……ごめんごめん」

「まったく日中から妄想ばっかしてんじゃねえぞ」


 彼は「どうせ昨日の女とイチャイチャすることばかり考えてんだろ」とチリトリで足元を突いてきた。

 昨日というと、あの時にかかってきた電話の件かな。あれのおかげで五郎さんの着信に気づくことができたんだよね。


「田村、結局あれは何の話だったの?」

「別に暇だっただけだが、しかしお前が休日に女と一緒にいたなんてな! うっかりビックリしちまって、まちがえたふりしちゃったぜ」


 あの電話を受けた本人としてはまちがえたふりというより慌てて切った感じがしたけど、あえて口にはしない。

 彼はチリトリをゴミ袋に突っ込むと「やっぱり付き合ってんのか」と茶化してきた。

 女の子と仲良くすると恋仲を疑われる。小学校から変わらない男子の文化だ。

 うーん……でも、ぶっちゃけお付き合いどころではないことが起きたから、そんなふうにいじられても反応しづらいな。


「あれ、ウチの弟だよ」

「え、マジで」


 なぜかガッカリされた。

 おいおい。女声の弟がいるなんて妄想の源泉だろうに。

 ちなみに実際の弟は五郎さんより渋い声をしていたりする。本人はそれをコンプレックスにしているみたいだけど、キモい声の兄と比べたらはるかにマシなはずだ。


「……低い声がコンプレックス……声だけ変えるつもりがなぜか肉体まで」

「はあ?」

「あ、いや。なんでもないよ!」


 危ない危ない。つい口に出てしまった。

 様々な原因が絡み合っていたとはいえ……自分の行動が元でああなったところも少しあるわけだから、やはりTSの話を外に出すのは避けるように努めないとね。

 自分の好きなことを口にできるようになったら、次は口を閉じる練習もしないといけないのだ。両方の力があって初めて「自由にお喋りできる」と称せるのかもしれない。


 それにしても、元に戻ったらすぐに立ち直ってくれたなあ、心のチンコ。

 彼女になっていた頃の折れっぷりが嘘みたいだ。この感じを保ったまま女性化できればどれだけ滾ることができるのやら。


「……なるほど。ここでふたなりの可能性が出てくるのか」

「二神(ふたがみ)? あいつ学校休んでタイに行ってるんだよな」


 田村は同じ班の上級生の話をしてくれる。

 彼の耳が良くなくて助かったけど、もうタイ旅行というだけで喉元から何か出てきてしまいそうだったので、僕は黙って床掃除に集中することにした。あまりにも眠たいと自分を律せられなくなるのは(多分)母の遺伝だ。



     × × ×     



 田村と別れて、あくびをしながら忘れ物カウンターまでやってくる。

 去り際に彼から「委員になるなら館内の掃除を外注にしてくれよ」とお願いされたけど、あいにくその件はお断りさせてもらっているのでムリだ。お友達になったのはそのためであって……まあ、今はとにかく眠りたい。

 本来ならこのまま家に帰らせてもらいたいところだ。

 でも同志たちと祝勝会の予定があるからそうともいかないんだよね。


「まずは20ページくらいの短編から初めてだな……」


 その同志たちはすでに『第2保管室』で待っているようで、中からは五郎さんの楽しそうな声がしていた。2日くらい水も飲んでいないはずなのに平気そうなあたり、将来はレンジャーにでもなれば良さそうだ。


 僕がドアノブに手をかけたタイミングで、彼女は「小山内くん」と話しかけてきた。

 振り返れば、3日ぶりに姫カットが決まっている。僕がやると妙にまとまらなくて、あんなにきっちりした感じにはならなかったんだよね。

 白いシャツとスカート。長いまつ毛にほっそりしたあご。

 ほんの少し前まであの肉体に居たと思うと変な気分になってくるけど、やっぱり彼女は彼女のほうが可愛らしい。


「どうしたの。まさかおっぱいでも触りに来たとか?」

「これを返しに来ただけ……小山内くんこそ触りたければどうぞ」


 何となくからかってみると、なぜか彼女はおもむろにこちらに近づいてくる。

 まさかの対応に僕は「えっ」と後ずさりしそうになったが、当然ながら本来の鳥谷部さんがそんなエッチな子であるはずもなく。


「はい」


 彼女はこちらのカバンに右手を入れると、内ポケットから『思春期ビタ一文チェンジ』の単行本を取り出してみせた。


「それはたしか、鳥谷部さんに貸していたはずの……」

「そう。河尻さんに取られたから」


 彼女は「あの時に回収しておいたの」と中央ホールに左手を向ける。

 そういえば、あの時、視界の隅で何かを探していたような。それがバレて上坂さんにおっぱいを押しつけられるはめになっていたんだっけ。

 うーん。あの感覚を脳内から呼び起こせないものかな。体感したのは小山内一二三なんだから努力すればできそうな気がする。

 ともあれ、彼女から大切なマンガを返してもらえた。


「あとは『私説TS論』だけかな」

「あれは元の場所に入れてある。他の本もいっしょ」

「そうなんだ。家に帰ったら探してみるよ」

「……嘘つき」

「え?」


 もしかすると、我ながら気づかぬうちに目が泳いでいたのかな。

 別に嘘なんてついていないのに。


 その責めるような目つきに対応を決めかねていると、彼女は「あの本は嘘ばっかりだった」と涙を浮かべてしまう。

 両手は強く握られており、華奢な肩が揺れている。

 まずい。女の子を泣かせてしまった。

 僕はどこで傷つけてしまったんだろうと考える。やっぱりあの件で冗談をぶつけたのが良くなかったのかな。あれは性欲のせいであって彼女の責任ではなかったのに、それをネタにするにはまだ冷却期間が足りなかったかもしれない。


「ご、ごめんね。変なこと言っちゃって」

「そうじゃない……小山内くんは悪くないから」


 彼女は右手で目元を拭った。

 そしてそのまま出口に向かおうとしたが、なぜか途中で引き返してきて、僕の手からマンガを奪ってしまう。

 そこから彼女は中央ホールを経由して『文芸エリア』に行ってしまった。


 いったい何だったんだ。

 一応、僕なりに考えてみるものの、今の自分の頭では「彼女が僕に好意を抱いている」という都合の良い内容しか浮かんでこなかったので、ひとまず半開きのドアから僕たちを見ていた年下の中学生に話を訊いてみることにした。


「ねえ、伏原くんはどう思った?」

「え……いや、小生よりセンパイの方があの人のことを知っていますよね」


 彼は本当にわからないといった感じで「なにせ2日くらい入れ替わっていたわけですから」と答える。


「そりゃまあ……まず知りようのなかったことをいっぱい知ったよ」


 でも、兄弟のようにツーカーで察しあえるほどではない。

 僕の敬愛する大和路先生は、著書の中で、男女が入れ替わることでお互いをより深いところまで知っていく。そして特別な理解者になっていくパターンも多いと記しているけど、だからといって――「ああ。なるほど。そういうことだったのか」僕はようやっと嘘つきの理由に辿りついた。

 おのずと彼女の言動や行動の理由が明らかになってきて、全身から汗が吹き出してしまいそうになる。


「伏原くん。すぐに戻るから待っててくれるかな」

「別に良いですよ」


 彼は「五郎さんとマンガ作りの話をしてますし」と含み笑いを浮かべる。

 それはそれで気になるけど、ともあれあの子を追うことにした。まずはマンガを返してもらわないといけない……たぶんこのために持っていったんだろうな。



     × × ×     



 さほど時間はかからなかった。



     × × ×     



 オシャレな『文芸エリア』から、いつもの場所まで戻ってくる。

 何だなんだで久しぶりに来たような気がした。一昨日はカウンターに上級生がいたせいで入れなかったから、3日ぶりになるのかな。


 スチール棚に詰め込まれたダンボール箱を『壁紙』にした小さな空間。

 奥の窓際にはオレンジ色のケトルが用意されており、長机の上には五郎さんのラフスケッチが広げられていた。

 埃っぽい空気を含めて「懐かしい」と思えるほどには……自分はここが好きになってしまっている。


「……まあ、女装キャラが出てくるのは百歩ゆずっていいでしょう。五郎さんの作品ですし。でもそのキャラとのラッキースケベなんていりますかね?」

「いるに決まってるだろ! 仁ちゃんが望まぬ女装をしている中で、自分がそういう目で見られていると感じてしまうシーンは赤面を含めてとても大切なんだよ」

「だったら、パンチラくらいでいいじゃないですか」

「オレはああいうアレの『ふぐり』がそんなに好きじゃねえんだ!」


 五郎さんは「少年らしさを出すなら足とかだけでいい。なんかストレートすぎるのはイヤなんだよ!」と本人なりのこだわりを口にした。

 ネット上で言われるならともかく、あんな大柄な人に言われてしまうと、いかんせん同志でもドン引きしてしまう。

 さすがの伏原くんも「えええ」とドン引きしていた。彼の場合は昨日まであんな格好だったわけだから、余計に思うところがあるのかもしれない。

 このやり取りを含めてもいつも通りの『第2保管室』だった。


 ただ、2日にわたってあんなことがあったのに、たった一夜でこうまで戻っているのは、やはりあの力のおかげなのかな。

 あるいは自分を含めた同志たちがよほど飢えていたからなのか。

 いずれにせよ、五郎さんの絵柄でマンガが作られるとなれば、同志として一枚かませてもらいたい。


「あ、センパイ」

「おう。やっと戻ってきたか。やっぱ付き合うことになったのか?」


 各々なりに話しかけてくる同志たちに、僕は最高の感謝を込めて――鳥谷部さんになっていた時の話をすることにした。

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