7-3


     × × ×     


 中央ホールの総合受付には棚に囲まれたスペースがある。

 部員の間ではクロークのようなものとして扱われていたけど、仲田さんの話では地下に向かう階段が隠されているらしい。

 例の受付さんがいないのをいいことに中に入らせてもらい、鳥谷部さんに床下収納庫の取っ手を引いてもらうと――穴の中にはサビのない鉄梯子が続いていた。


 その様子に伏原くんが怖気づく。


「仲田センパイ、これ降りられるんですか」

「途中から立派な螺旋階段になるから平気さ。怖がりの明佳でも大丈夫」


 仲田さんは「まずはボクから行くよ。その後は小山内くん。あとは自由でいいよ」と穴を降りていった。

 このあたりは元委員長だけあって手慣れているみたいだ。

 行楽地のアスレチック気分で短い梯子を降りていくと、下で待っていた彼女が「うふふ」と笑っている。

 その視線の先にあるのは……この肉体の下半身?


「あの、変なところでもありますかね」

「なんでもないよ。それそのものよりシチュエーションに価値があるってだけの話でね。だから彼我の性別を抜きにしてもおいしいわけだ」


 彼女にそこまで言われて、ようやく何をされたのかわかった。僕は思わずお尻を抑える。

 こんな時に、なんてふざけた人なんだ。ものすごく恥ずかしい。その一方で安定のお約束でもあるので達成できて若干嬉しかったりもする。

 そんな気分は鳥谷部さん本人が降りてくると、すぐにも消え去った。


「……浮かない顔。何かあったの」

「いや。ごめんねとしか」


 おそらく伝わらないだろうけど、手を合わせておく。

 彼女は「変なの」と首をかしげた。

 相変わらずキモい。

 我ながら遺伝子の宝くじに当たらなかったことを恨みつつ、どちらかといえば当たっているほうの中学生に目を向ける。


「すごいですね。地下にこんな空間があるだなんて」


 梯子から足を外した伏原くんは、眼下に広がる雲母めいた色合いの光景に「まるでイェール大学の図書館みたいです」と感想を漏らした。


 受付の地下にあったのは「開架書庫」だった。部員だけでなく一般のお客さんも立ち入ることのできるエリアだ。各エリアに入りきらない本を納めており、およそ4段にわたって本棚が立ち並んでいる。

 螺旋階段は「開架書庫」を貫くように設けられていた。自分の記憶が正しければ、書庫の中央に黒塗りの大きな柱が立っていたはずなので、あの「中身」がこの階段になるのだろう。まさかあの中を人が歩いていたとは。外からは想像もつかなかった。


 仲田さんを先頭にどんどん降りていく。

 各段でちょこまかと本を運んでいるのは蔵書班の自動装置だ。班員だけでは本の移動を捌ききれないので先月から導入されたらしい。今日みたいなお休みの日でも返却本を元の場所に戻してくれるのでありがたいそうだ。

 あんなものがあるなら、僕たちの班にもお掃除ロボットを入れてくれたらいいのに。


「ここが石室の入り口だよ」


 柱の中を抜けるとコンクリートの狭いフロアとドアがあった。

 地上から空気を入れるための配管が天井に施されている。配管はドアの向こうにもつながっているようだ。


「はち・よん・きゅう・に」


 仲田さんの甘えたような声に合わせてドアのロックが外されていく。

 声といえば、女の子になってからカラオケに行くのもTSモノのお約束なんだよね。本来ならキーの高さが合わない曲でも女性の喉なら歌えちゃったりするのだ。この肉体の声はとてもキレイだから、きっと何を歌っても気持ちいいだろうな。


「…………」


 四重の施錠が外されて「石室」が口を開けた。

 羨道の奥には仄かな灯りが窺える。

 ここを通れば「奇跡」を起こしてもらえるらしい。入れ替わりを終えることができて、元の生活に戻ることができるらしい。

 そそくさと中に入っていく仲田さんの後ろで――ふと僕の足が止まった。


「センパイ?」「小山内くん?」


 伏原くんと鳥谷部さんが後ろで詰まる。本物の羨道みたく狭いから、強引に追い抜いたりできないらしい。

 自分の信条的に他人のジャマはしたくない。早く前に歩きたい。

 なのに、上手くいかないのはどうしてなんだ。


「……ははーん。センパイ、小生はわかっちゃいましたよ」


 指をふりふりさせる、パジャマ姿の中学生。

 彼はこちらに近づいてくると、「センパイったら寸前になって元に戻るのがイヤになっちゃったんですね」と耳打ちしてきた。

 それから彼は自分が女性に近づきすぎたと気づいたようで、途端に赤面していた。


 お互いに恥ずかしい気分になったのはさておき――残念ながら彼の言い分は正しくない。

 むしろ全く逆だから悩ましいのだ。


「……伏原くん。こんなことを言うと余計に恥ずかしいんだけど……僕はTSを知ってから中学の入学式まで、ずっと朝おんを待っていたんだよ」

「朝おんですか」

「うん。起きたら女の子になっていてほしかった」


 昔はベッドから起きるたびに肉体のチェックをしては「ない、ある」と悲しんでいた。

 神社にお参りした時には心中で住所と名前を述べてからお願いごとをしてきたし、自分の肉体が変わっていくのを想像していれば、いつか本当に変わってくれるんじゃないかと瞑想にふけることも多かった。

 黒いナンバープレートを4枚見つければ望みが叶うというウワサを信じて、町中を走り回ったこともある。タクシーに出会うと最初からやり直しなんてルールがあったから一度も成功しなかったけど、今でもナンバープレートに目が行く時はある。


 つまるところ「奇跡」を信じられなくなっただけで、ずっと望みだけは残っていたはずだった。

 女の子になってみたい。可愛い子になってみたい。

 そんな変身願望が自分の中心にあるはずなんだ。


 心の同志に出会うまで決して口には出さなかったけど。

 家族や友人に伝えたりすることもなかったけど。

 諦めの気持ちの方が大きかったはずだけど。

 それでも、現実ではなく虚構の世界で夢を叶えてくれる本やマンガを延々と探し続けていたんだから、この望みは自分から消えていなかったはずなんだ。


「なのに、今はそうでもないんだ」


 僕は「これから元の肉体に戻るのが、ちっとも惜しくない」と続ける。

 こんなに可愛らしい女の子になれたのに。カラオケとかファッションとかやってみたいことがまだまだあるはずなのに。

 それよりもあの小さな部屋で伏原くんの紅茶を飲みたいと感じてしまう。五郎さんに絵を見せてもらいたいと希ってしまう。TSモノについて三人で話したいと言いたくなってしまう。

 初めはイヤだったはずなのに、途中から出ていくことをまるで考えなくなって、しまいには失ってから宝物のように思えてくる。

 こんな体たらくで、はたして自分は本当にTSファンと呼べるのだろうか。


「それは小生や五郎さん、トリセンパイが困っているからでは?」

「え?」


 伏原くんの指摘に思わず振り向いてしまう。


「他人が苦しんでいるのに自分だけ楽しむわけにはいかない。そんな気持ちがセンパイの中にあるのかもしれませんよ」


 彼の後ろでは鳥谷部さんが「別に私は苦しんでない」と呟いていた。

 彼女はともかくとして、五郎さんの本体がお腹を空かせているのは気になっている。伏原くんの望まぬ女装だって早く解いてあげたい。


「いや、それは違うかな」


 しかしながら――自分の持っていたTSへの「渇望」は、本来そんな他人の有象無象より上を行くものだったはずだ。

 なぜなら、もし女の子になれるなら……僕は今の自分の何もかもを捨てて、まるで異なる世界の全く新しい自分に生まれ変わっても良かったくらいなんだから。


 お父さんもお母さんも、おバカな弟だって、もし大望が叶うならば一生会えなくなっても平気だった。

 小山内一二三はそれ以外を切り捨てられるだけの薄情さを持ち合わせていたつもりだったのである。


 そのはずが、今では。

 入れ替わりに気づいて、すぐに元に戻る方法を考えるような有り様で。

 そのままで居ようだなんてほんの寸分も考えられなかった。


「……小山内くん。どうして泣いてるの」

「え、ウソ、なんで」


 ぬるいものが頬からあごに落ちていく。

 彼女に言われて、僕は慌ててハンカチで目を拭った。

 いくらなんでも泣くほどのことじゃないんだけどな……女性が涙もろいのは本当らしい。また一つ「お約束」を味わうことができた。ありがたい。


 でも、一生このままなのはイヤなんだよね。

 別に自分自身(おさないひふみ)に愛着があるわけでもないのに。

 どうしてなんだろう。女の子になるとTSしたいという気持ちがなくなるのかな。心のおちんちんが折れたから仕方ないのかな。

 だからといって元に戻りたくなるものだろうか。

 好きなジャンルを考察する時のように、自分自身と向き合ってみる。けれども答えは出てこない。


「ふふ。やっぱりセンパイは萌えキャラですね」


 ハンカチで目を抑えていると、伏原くんが自信たっぷりに妙なことを言い出した。

 萌えキャラ。以前にも同じことを言われた気がするけど、未だにその意図はわからない。少なくとも僕は自分をそういうふうには捉えていない。

 仮に萌えキャラならもっとデザインが良いはずだ。


 いささか困惑ぎみの僕たちに対して、パジャマ姿の中学生は「わかりませんか?」と挑発めいた笑みをぶつけてくると、


「ではセンパイにお訊ねしましょう。元から女の子になりたかったヒロインと、早く男に戻りたいと希ってやまないヒロイン。センパイはどっちが好きですか」


 おもむろにTSモノの話を振ってきた。

 A:女の子になりたくて女の子になった、幸せなヒロイン。

 B:不本意ながら女の子になってしまって、どうにか元の姿に戻ろうとする、不幸なヒロイン。


「どちらもアリだけど、僕は後者が好きかな……」

「答えが出ましたね」

「答え?」

「つまりはこういうことです。センパイは元に戻りたいと考えることで自ら不幸なヒロインを演じているのでしょう?」


 伏原くんは「自らキャラメイクする。作られたもの。まさしく萌えキャラです。ふふふ。でも小生の目はごまかせませんよ」と自らの額に指を当てて、


「だから、センパイは本心では戻りたくないはずです!」


 さも名探偵のごとき所作で推理を終える。


「……ぶははっ」


 あまりにもあんまりな話だったので、僕はつい吹きだしてしまう。

 もう。そんな演技ができるほどバカじゃないよ。

 でも……たしかに自分がなってみたかったのは「元の肉体に戻りたい女の子」だったかもしれない。女の子であることを拒絶しながらも次第に女に染まっていく自分を求めていたのかもしれない。

 また「なりたい」ではなく「なってみたい」というのも重要だ。


 すでに、僕の願いは叶えられていた――。



「――きゃぁっ!」



 悲鳴は奥から聴こえてきた。

 僕たちは話を切り上げて「石室」内部に向かう。

 もう足取りは重くない。

 羨道を抜けた先には大きな石造りの広間があり、壁面には赤文字で仰々しいスローガンが描かれている。


「河尻委員長万歳万々歳」

「偉大な河尻はあなたを見守っている」


 近くにペンキの缶があるのであれで描いたんだろう。

 そんなしょうもないことをさせるのはこの世であの人しかおらず、あの人と取り巻きたちは中心にある机の近くでケラケラと笑っていた。


 対して悲鳴の主は……石室の床にうずくまり「小山内くん。明佳。後生だから見ないでくれたまえ」と低い声で求めてくる。

 何が起きたのかなんとなくわかったので、僕たちは仲田さんから目を逸らした。


「あなたにはお世話になった。だがすでにオレ様の時代になっている。いつまでも自由にさせると思うのは傲慢なのだ」


 河尻さんは仲田さんにそう言うと、こちらを指さして、


「やっと来たのだな、センパイ」


 自らの長い髪を自慢げに引っ張ってみせた。

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