7-2


     × × ×     


 折しも次の日は創立記念日だった。

 休みの少ない『むらやま』も、年末年始とこの日ばかりは休館となる。出入口は閉められて関係者以外立ち入りできない。


『お前は一人で何をしているんだ。まだ高校生なのだぞ。せめて私たちに連絡くらい入れなさい。心配で眠れなかったじゃないか。どこをほっつき歩いていたんだ。平尾さんも心配していたぞ』


 早朝から鳥谷部さんのご両親にお泊りの件でお叱りを受けた僕は、本来的には他人事ながら、内心申し訳ない気持ちでいっぱいになっていた。

 我ながらどうしてあちらに連絡するのを忘れていたのかな。今は多少落ち着いているとはいえ、やはり連絡どころの気分ではなかった……というのが自分への言い訳になりそうだ。

 彼女本人は「平尾の家にいた」とごまかすように促してきたけど、そこは一人娘ということもあってご両親に先回りされていた。それに対して機転の利いた返答をできなかったあたり、やはり僕は嘘をつくのが下手なようだ。


 できることなら、あのカイゼルヒゲのお父さんに叱られるのは本当の彼女であってほしい。

 僕はそう祈りながら『むらやま』の非常口を抜けた。

 中央ホールには朝日が差し込んでいる。


「……待ってたよ」


 仲田さんは『むらやま』の中心でギターを弾いていた。

 モノクロのファッションセンスはそのままにピエロだけをやめている。ギターケースと合わせてよく似合っている。

 細身の女性と薄着というのは良いものだ。


「あれ? どなた?」


 こちらに向けた目をパチクリさせた、仲田さん。

 そういえばメールでは『七不思議』について彼女に訊ねただけで、僕たちの大変な状況は説明していなかったっけ。


「えーと、あれです。これでも小山内なんです」

「小山内くんだって! そりゃすごいや。めっちゃ上玉だね! どうやったら小山内くんからそんな感じになれるんだい」

「この肉体は友人のものでして」

「あ、入れ替わりなんだ」


 彼女は「なるほど。だからボクのところに」と含み笑いを浮かべる。


「先輩こそ、ボーカル担当じゃなかったんですか?」

「ん? ああ。せっかくだからギターにもチャレンジしてるんだよ」


 仲田さんは机の上でクラシックギターをジャカジャカと弾き鳴らしてみせた。

 ベンチャーズのダイアモンドヘッド。ぎこちないのは素人目にもわかる。


「あんまり上手くないですね」


 つい本音をもらしてしまい、僕は慌てて口を抑えた。まったく鳥谷部さんの口はだらしがないんだから。

 対する仲田さんはピックを指先で滑らせ、


「もう。バンドだからってそれかい。ウチはガールズバンドじゃないのに」

「へ?」


 自分には言葉の意図がわからなかったので、つい生返事してしまうと、彼女は「あー世代が違うかー」と苦笑いした。

 古いTS作品のネタだったのかな。あとで五郎さんあたりに訊いてみよう。あの人は今日も小学校に行っているのでまだ合流できそうにない。あとの二人もそれぞれなりの事情から席を外してもらっていた。彼らは外で待たせている。


「そうさ。まだ下手だよ」


 彼女はピックをポケットに入れてから、その件を肯定した。

 その上で「でもボクは小説も作るし、バンドもやるし、ファミレスでアルバイトもするんだ。それらを合わせて仲田良子なのさ」と満足そうな表情を浮かべる。

 彼女はいかにも大学生らしいモラトリアムを享受していた。

 あとは恋人でもできれば悔いのない大学生活になるだろう。あるいはもうすでにいるのかもしれない。バンドには異性のメンバーもいるみたいだし。

 とても幸せそうな女子大生。


「仲田良弘はどうやって、それを手に入れたんですか」

「君だってすでに手に入れてるじゃないか。ボクたちの大望を」

「その方法を教えてほしいんです」


 できれば元に戻る方法も。


「なら、まずはメールで伝えたものを見せてほしいね」


 彼女はギターをケースに入れると、受付の机から降りてきた。加えて、おどけたように両手を広げてみせる。

 お気に入りのTSマンガを持ってくること。

 仲田さんが今回の件についてヒントを教える代わりに出してきた条件は、久しぶりに僕たちをTSファンとして悩ませることになった。お気に入りなんてたくさんあるから、一つに絞るのが大変だったのだ。

 足元の紙袋に入っている三冊は苦心の末に選び抜かれた本たちである。


「わかりました。まずは五郎さんのお気に入りから。こちらです」

「ほう。『やよいコンプライアンス』とは攻めるね」


 彼女の目が喜色を浮かべる。

 この作品はいわゆるきらら系4コママンガだ。いつも女装しているお兄さんに主人公がトギマギさせられる様子を描いている。お兄さんは見た目が完全に美少女なので学校では人気者であり、結婚を迫ってくる男子たちを主人公が追い払うシーンも多い。

 ちなみに本自体は我が家にあったものだ。五郎さんに持ってきてもらうわけにはいかなかったので、申し訳ないけど鳥谷部さんに取りに行ってもらった。


「TSモノだと指定したのにあえて女装作品を選ぶあたりに、あのムキムキくんのカルマを感じられるよ」

「今は幼女に憑依してますよ」

「憑依もできるのか……さて、次は何を見せてくれるんだい」


 仲田さんからマンガが返ってくる。

 それを紙袋に入れて、僕は伏原くんの選んだ小説作品を取り出した。手のひらサイズの文庫本だ。


「こちらが伏原くんの選んだ本です」

「へえ。これはこれでカルマがあるよ」


 彼女はライトノベル『可愛いんだからね!』の表紙を指先でなぞった。

 どう見ても女の子にしか見えない人物が描かれているけど、これが主人公の少年だったりする。つまりジャンルは男の娘になる。

 女装を好まないはずの伏原くんが本作を選んだのは、この少年がのちに女性に変身するからだ。正確には女性の妖精と合体することで彼自身も女性になってしまう。


「このタイトル。本人の弁みたいだよね。そう思わない?」

「え、伏原くんがそんなこと言いますかね」

「口にはしないだけでそう考えているはずだよ。あざとい子だし」


 仲田さんは「あの子は甘えん坊だから、その姿のおかげで人から愛されているのがわかっているはずさ」と呟いた。

 その言い方はどこか冷たいものだった。

 しかし、三秒後には慈しむような目をこちらに向けてくる。


「次は、いよいよ小山内くんのフェイバリットだね」


 仲田さんはまたもや手を広げた。

 自分の好きな本。センパイが好きなTS作品とは何ですか――そういや、この問いを『第2保管室』でも伏原くんから受けたような気がする。

 あの時は上手く答えられなかったけど、今ならきちんと出すことができる。

 僕は紙袋から取り出した文庫本を彼女に手渡した。

 薄井ゆうじ『樹の上の草魚』。


「……明佳もそうだけど、わざわざマンガって指定したのに小説出すんだね。三人そろって反抗期なのかい」

「今はこれがお気に入りなので。内容は――」

「それは知ってるから大丈夫だよ。ボクだって大好きな本だからさ」


 仲田さんは「ヒロシの気持ちが今ならわかるんだ」とページをめくる。

 この作品が描いているのは男の取捨だ。両性具有のヒロシがおちんちんを失うことで絶世の美女となる。彼と友人になりたいと考えていた亘はそれに困惑する。お互いに子供の頃からの因縁があって、またヒロシの気持ちの揺れ動きを受け入れられない亘がいて――古いながらも骨のあるTSモノだ。

 女性の気持ちと男性の気持ちを丁寧に描いており、また亘とヒロシのすれ違いが時に切なさを感じさせる。決着に至る手段も是非を考えさせられるものだ。読者の認識・感情を揺さぶる作品が名作なんだ。かつて絵描きの知人はそう言っていた。


「この本は明佳に教えてもらったのかい」

「いえ。五郎さんに教えてもらいました」

「そうか……この本を読んだから、ボクはこの姿になったんだ」

「そうなんですか?」

「まあね」


 彼女は「男の人から愛されたい。抑えつけられたい。女性を強いられたい。そう考える人もいるわけだよ」と諦念のこもった笑みを浮かべる。

 その口ぶりからは彼女が述べたところのカルマが多分に感じられた。


 仮にこの人がヒロシ(ヒロミ)のような生き方を望んでいるとするならば、はたしてお相手は誰になるのだろうか。僕は女の子になりたくても男性から愛されたいとはさほど思っていないので、考え方に大きな溝を感じた。

 あの小説の表現を引用するならば、僕と仲田さんはおそらくカチリとはまらないだろう。


「しかしアレだ。こんなことは君が同志だから話せるわけだが、その子が相手ならば絶対に話せないよ」

「鳥谷部さんが相手なら、ですか」

「そりゃそうさ。女の子に変人扱いされたくないもん」


 彼女は「外でしちゃいけないのさ、おちんちんの話なんて」と続ける。

 どういうわけか、少し悔いているような表情を見せていた。

 ずいぶん前に鳥谷部さんにTSのスタンスの話をしている身としては「そうですね」と相槌を打つことしかできない。

 外でしちゃいけないのさ――思えば、外であの小説を読んでいたから、あの子に読まれてしまって、今の状況に至っているわけで。

 自分の好きなものを表に出せるようになったことと合わせて、僕は感情が引きちぎれそうになった。



     × × ×     



 さて。君たちの任務は果たされたわけだ。

 彼女は『樹の上の草魚』を閉じた。

 どの作品もすでにご存じだったみたいだけど、ありがたいことに任務達成の扱いにしてもらえるらしい。

 ちなみにあんな条件を出してきたのは「この頃の流行が知りたかったから」だそうだ。それ以上でもそれ以下でもなく。


「タナボタとはいえ、女の子になってもTS好きでいられる例を他にも見つけられてよかったよ」


 同志の存在は心強いものだね。

 仲田さんはそう言って、おもむろにポケットから小さな手帳を取り出すと、こちらにポイッと投げてきた。

 僕はそれをお手玉しつつ手元に収める。鳥谷部さんの肉体はわりとトロい。少年野球でこんなことをしたらおしおきをくらってしまうだろう。


「群山の生徒手帳?」


 仲田さんから渡されたのは今と同じデザインの、されど古い生徒手帳だった。

 中には「仲田良弘」の名と冴えない男子高校生の顔写真が貼られている。全体的な印象は今の彼女にも通ずるところがあるけど、まるで別人のようでもあった。この人が2年前に伏原くんを同志の道に引きずり込んだのか。

 うーむ。自分たちの中で推定というか仮定していたとはいえ、こうも如実に男性から女性への変身ぶりを見せつけられてしまうと、改めて考えさせられてしまうな。


「え、なんだい。ボクの写真がおかしいのかい?」

「いえいえ! ご立派な委員長ぶりだと思います! まるでフルシチョフの前のマレンコフのようだ!」

「目が泳いでいるよ」


 彼女は「ま、世の中イケメンばかりではないさ」と笑って済ませてくれた。それについては僕も同意せざるをえない。


 さて、話を本題に戻そう――鳥谷部さんによれば、この人は前任の委員長である。

 生徒手帳のカレンダーにもそれを示唆する内容が記してあった。例えば6月には後任の委員長を選んだとある。翌年の3月にはXDAYなる記述も。

 この日付が仲田さんが女性化した日だとするならば、現職の委員長であることが奇跡の発動条件ではないみたいだ。

 一応、本人にも訊いてみよう。


「委員長になれば、奇跡を起こせるようになるんですか」

「いや。正確には一般の部員が『石室』に入れないだけだよ」

「石室?」


 それは斜め上から飛んできた用語だった。

 というのも、一昨日の授業で古墳時代を習ったばかりだったからだ。

 担当の伊達先生によると「石室とは棺を納めるために石を積み上げた空間のこと」で、当初は人が立ち入ることを想定していなかったらしい。それから時代が経つにつれて家長だけでなく一族の者を追葬できるように(棺を運び込めるように)改良されていったそうだ。そのせいで後期の石室はどんどん大型化しているのだとか。


 僕の(鳥谷部さんの)脳裏に有名な石舞台古墳の写真が浮かんでくる。

 当然ながら、古くから都市化された市内においてはあんなものは存在しない。市内には四つの古墳が現存するけど、どれも『むらやま』からは遠い。

 ふと、おぼろげながら……住宅に囲まれた鎮守の森みたいな情景が浮かんできた。

 そういえば鳥谷部さんの家の近くにもあったな。帝塚山古墳。

 TS作品的には肉体の記憶が混ざってくると危なかったりするんだけど、ともあれ仲田さんの口にした「石室」は歴史的なものではなさそうだ。

 歴史的ではない石室って何なんだよって話になるけど。


「……もしかして、河尻さんはここに古墳を作ってたりします?」


 僕はおそるおそる訊ねてみる。

 あの人のことだからありえない話ではない。文化的にも有名夫婦漫才師が生駒山の廃トンネルを埋めて山自体を自分たちの古墳にするというプランを披露したことがある。

 しかし、仲田さんは「ボクの頃からあるんだよ」と否定した。


「つまり仲田さんの古墳ということですか?」

「ははは。ボクは河尻みたいに目立ちたがりじゃなかったからね……ぶっちゃけあれはボクにもよくわからないものなんだよ。ただそこにあったものであってさ」

「よくわからないって……」

「だって奇跡なんだから。まあ小説家の端くれとして屁理屈をつけるなら――」


 彼女はギターケースを担ぎなおして、自らが起こした「奇跡」を大和路先生の一節を用いる形で説明してくださる。


 ――私のように老い先の短い者は奇跡を信じればよい。

 ――ひとつひとつでは難しくてもピースがハマれば変わるかもしれない。または副作用が副作用を呼ぶかもしれない。


「きっと、バッキーライブラリと違って、ここには七つも不思議は存在しないんだよ。ただピースがあちらこちらにあるわけでね」


 彼女は中央から各方角の通路に指を向ける。


「あれらをあの石室が束ねたからこそ副作用を操ることもできたんじゃないかな」


 彼女は「まさに奇跡だね」と自らの胸の前で手を合わせた。

 余談になるけど、わざわざ変身したのにあのサイズに抑えているのは自分が女性として生まれた場合の肉体を再現しているためらしい。あとは大学の目をごまかすためでもあるのだとか。今でも公的には仲田良弘なので、女性に変わっているとバレるとやっかいなことになりかねないそうだ。

 多くのTS作品ではなんだかんだで戸籍などの処理も済んだりするけど、リアルではそうともいかない。

 ああ。いつか伏原くんと「もし女の子になるなら仲田さんよりは大きくなりたい」と話したことがあったっけ。今となっては服を脱がないと比べられそうにない。


 よくわからない話だから(たぶん仲田さん自身も完全に理解できる術を持っていない。我々は科学文明の生き物である)、すでにわかっている話に逃げてしまったけど……僕たちにとって大切なことは「石室」の力で人間の性別を変えられるという一点にある。

 それさえわかれば、他のことは何だっていい。


 僕はスマホで外の二人を呼び出した。

 ちなみに鳥谷部さんは「元男」である仲田さんに劣情を抱くことを恐れていて、伏原くんは女子用パジャマ姿を仲田さんに見られるのが恥ずかしがっていた。

 なので、当の仲田さんには帰ってもらうことに……いや、でも運営委員の関係者がいないと「石室」に行けないんだっけ。

 仕方がないので彼らには顔を合わせてもらった。

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