7-1 悪役なんか怖くない


     × × ×     


 手のひらでお湯を押してみる。

 ちゃぷんと入り込めば、手から肘までさっぱりした熱に包まれた。柔肌でも耐えられそうならモーマンタイ。

 かけ湯をして、右足から入らせてもらう。

 マンションのお風呂なので、失礼ながら手狭であるものの……今日はよく歩いたのもあって、シビれるほどに気持ちが良かった。

 ふと目をやれば、水面下には白い肌が写っている。


「……入浴剤がないから丸見えなんだよね」


 いけない。彼女のためにも目をつぶっておくべきだ。うーん。ふむふむ。女性のくびれって良いものですね。

 疾しい気に囚われそうになった僕は、平常心を保つためにTS作品における入浴あるあるを考えてみることにする。別に「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか、そんなつもりは一切ない。

 入浴シーンでありがちなこと。まずは初めて見る女性の裸に卒倒してしまうパターンが挙げられる。次に色々触ってドキドキするパターン。なにぶん性差がはっきりとわかるシーンなのでエロティックなイベントばかりである。

 あとはタオルで身体を洗う時に強くこすりすぎて、肌を傷つけてしまったり。

 往々にして女性の肌は弱いから、取り扱いには十分気をつけないといけないのだ。僕も注意しないといけないな。


 ふと、今朝のことが思い出される。

 机で眠りこけていた彼女は制服のままだった。つまり昨夜お風呂に入っていないとなる。そうなると、こうして身体を洗う前に湯船に入ったのは失敗だったかもしれない。余所様の風呂なんだからなおさらだ。


「小山内くん。きちんと入れてる?」


 ガラス戸に人影が写っていた。そういえば入れ替わった相手にお風呂を監視されるパターンもあったね。タオルやハチマキで目を隠されたりして。

 鳥谷部さんがそうしなかったのは、少しは僕を信用してくれているからだろうか。あるいは他人の目があるからかもしれない。今の彼女の状態だと別の方向性で一緒に入りたがりそうな気もするし。


「……入れてるつもりだけど、まさか鳥谷部さん、入るつもり?」

「入っていいの?」

「ダメだよ」


 僕は「人の目もあるんだからね」と彼女を制止する。

 すると彼女は「わかった」と呟いた。右手で頭を掻いているシルエットから、若干気まずそうにしているのがわかる。


 うーん。なんだかお互いの役割まで逆転したような気がしてきた。よくいる性にまっしぐらな主人公に追われるヒロインってこんな気分なんだろうか。早急に元に戻らないと今後の関係に「しこり」を残しそうだ。ちなみにTS作品で「しこり」が出てきたら、95%は胸が膨らむ前兆である。


 のぼせそうになってきたので、僕は湯船から出ることにする。

 これから彼女の身体を洗うわけだけど……そこに本人がいるわけだから、やり方を訊いておいたほうがいいかもしれない。


「あのさ、よければ洗い方を教えてくれるかな」

「のんびり洗えば大丈夫」


 彼女はそう言いつつも、何だかんだガラス戸の向こうから細々(こまごま)と指示を出してくれた。時には「しゃらくさい」と力任せに中に入りかけることもあったが、カギをかけていたので大丈夫だった。

 足から耳まで泡をつけて。

 そうしているうちにシャワーで洗い流すところに至る。

 彼女がいてくれたおかげで全く変な気分にならなかった。これが一人だったらどうなっていたことやら。何だかんだで僕の方もためらわなくなってるからね。朝から速攻で胸を揉ませてもらったのは本人には内緒だ。


「……お互い、早く元に戻りたいところだね」

「嘘つき。本当は一生このままがいいんでしょ」

「今のは嘘じゃないよ」


 僕は「鳥谷部さんこそ戻りたくないの?」と訊ねてみる。

 どうも朝から彼女が危機感を覚えていないような気がしていたのだ。むしろ余裕すら感じられるほどに。

 もちろん本人も今の状況には迷惑しているはずで……僕はそのあたりのことをずっと訊いてみたかった。


「私は今すぐでなくてもいい」


 ところが、彼女はそう告げるにとどまり、そそくさと脱衣所から出ていってしまう。

 後には細身の女子高生だけが取り残された。



     × × ×    



 コップの中で氷がカランと音を立てる。

 お風呂から出てきたら、伏原くんが麦茶を入れてくれた。

 それとは別に紙コップとおせんべいもちゃぶ台に配されていて、いつでも大会を始められるようになっている。


「センパイ。どうでした。小生、とても気になります」


 さっそくお風呂の話をせがんでくる伏原くん。

 いささか前のめりなあたりマジで気になっているようだ。

 フンフンと鼻息を荒くしている。


「どうもなにも女の子のあれこれを話すわけにはいかないよ」

「そこはTSFの進歩のためにですね」

「……エロい気分にはならなかったとだけ」

「ほうほう! それでお身体のほうは!」


 ちなみに今の彼はお母さんのパジャマを着ているので女の子っぽさは少ない。これでも一応女装扱いになるらしく吐き気は収まっているそうだ。ようやく他の家族の前にも出られるようになったので、彼は先ほど本日初のご飯を食べていた。

 そのついでに僕たちまで夕飯をご馳走になってしまい、なんと流れでお泊りまでさせてもらうことになったのだけど……可哀想なのは小学生の五郎さんだ。

 当然ながら小学2年生に外泊など許されるはずもなく、夕方には上本家に帰らざるをえなくなっていた。

 なので大会にはスマホから参加予定である。

 さっそく『お金は返すからな』とのメールが送られてきていた。お金とは五郎さんに貸している千円札のことだ。いかんせん2年生なので地下鉄に乗るためのお金すら持っていなかったのである。

 五郎さんがフィットネスジムのロビーにいたのも、あそこから『むらやま』に行くだけのお金がなかったからだとか。もっとも、彼の家に入らせてもらった時にスマホは回収したわけだから、ついでに財布も持ち出せば良かったような……というか、そもそも僕たちが来るまで自分の家に入らなかったのはどうしてだろう。

 ひょっとすると、エレベーターに防犯システムでも付いていたのかな。

 あのエレベーターには五郎さんの家族だけでなくお客さんも乗るわけだから、防犯のために何かしらの「歯止め」があるのは自然な話だ。

 いずれにせよ、天六のダンゴ代と五郎さんに貸した千円のせいで、小山内一二三のお財布はスッカラカンになりつつあった。


「センパイ。小生の話を聞いてますか?」

「あ……ごめんごめん。色々と思うところがあってね」

「ボーッとしているとまるでご本人みたいですよ。気をつけたほうがいいです」


 伏原くんは心配そうに眉をひそめる。

 さらに「お貸ししたハトセンは読まれましたよね。お互いの肉体を使っている以上は心も影響を受けてしまいかねません。センパイがセンパイであるために気をつけてください」と口をすっぱくさせた。

 そんなことは百も承知だけど、彼なりに心配してくれているのは伝わってきた。


 なお、ここでのハトセンとは不特定多数での入れ替わりを描いたライトノベル『ハートコンセント』のことだ。

 正しくは第1巻「ハートコンセント・アットランダム」だけが該当作になる。入れ替わりだけでなく色んな手立てで主人公たちのハートを揺さぶってくる良作なので、ほぼTSモノではない2巻以降も読みふけったっけ。


 ただ、あの作品については、不特定多数の男女が入れ替わるからこそ、肉体に依存している自分らしさを失いかねないという恐怖があるわけで……それぞれの肉体の影響を受けることはあっても、入れ替わりの頻度からして一時的なものだったはずだ。

 仮にこれからずっと「鳥谷部さん」のまま過ごすことになり、彼女の肉体の影響下におかれてしまうことを心配をするならば、例として出すべきは『ボクたちの初体験』じゃないかな。あれは脳移植で女性になったせいで心まで女性化してしまう話だから。

 それを伏原くんに告げてみると、彼は「そうかもしれませんね」と笑った。


「ふふふ。やっぱりセンパイはセンパイなんですね」

「どういうこと?」

「TSFを愛してやまない心の同志だということですよ。外見はトリセンパイなのにしっかりセンパイだから安心しました」


 彼は冷たい麦茶に口をつける。コップから水滴がポトポトと落ちた。彼のパジャマに染みがついて、ふと僕はお互いのパジャマがお揃いだと気づく。どちらも彼のお母さんに借していただいたものだ。

 ちなみに彼の目は染みには向けられていなかった。


「……センパイ。もし巡りめぐって今回の「奇跡」の力を手に入れることができたら、センパイはどうされたいですか?」

「力って、こうなっちゃったことの?」

「なっちゃったのは小生だけで、五郎さんも死にそうで大変みたいですけど、センパイには何のデメリットもないじゃないですか」


 伏原くんは手をにぎってくる。

 パジャマとパジャマが溶け合うようになる。


「僕にはなかったとしても、この子にはあるんだよ」

「そうですか」


 返された言葉は短いながらも、彼は穏やかに微笑んでいた。

 その真意がどこにあるのか、いつもの抜け目なさと合わせてつかみどころがない。けれども、少なくとも彼は「うんうん」と納得しているようだった。


「小山内くん。明佳くん。お待たせ」


 やがてお風呂場から3人目のお揃いがバスタオル付きでやってくると、いよいよ僕たちは兄弟のようになってくる。それにしてもお風呂上がりでも自分は格好よくないんだな。いつもならわりとマシに見えるはずなんだけど。



     × × ×     



 3人寄れば文殊の知恵。プラス1人ならIQ400。

 恒例となりつつあるコップ会議、鼎談ならぬ「ちゃぶ台の足談」で超常現象の謎を紐解いていきたい。なお、今回も最も秀でた回答を見つけられた者には『キバヤシ』の称号が与えられる。いらない。


 ――いったいどんな理由から「奇跡」は起きたのか。


 ある人は「奇跡」を説明できないものとしつつ「小生たちの女の子になってみたい気持ちが呼び水になったのではないでしょうか」と主張して、おせんべいを1枚もらっていた。


 ある人は「李徴が虎になったのと同じ原理」だと主張した。李徴とは『山月記』の主人公のことだ。彼女がその心を詳しく話さなかったのもあって、おせんべいは1枚も渡らなかった。


 ある人は『よくわからねえけどあいつのせいだろ』とメッセージを送ってきた。

 あいつとは彼にハンバーグを奢ってくれた人のことだそうだ。広大な『むらやま』の主でもあり、とても大きな力を持っている。

 だからといって「奇跡」を起こせるほどではないだろう。たかだが部活の長にそんな力があったなら、この世は神様だらけになってしまう。


 河尻さんをよく知っている鳥谷部さんも、あの人にはムリだと否定した。


「あの人は偉ぶるだけで別にすごい人ではないから」

『でも伏原の話だと男の娘だとバレてから捨て台詞を吐いていたんだろ。オレたちに恨みがあるからこんな目に遭わせたのかもしれねえぞ』


 五郎さんはあくまで河尻さんを犯人に見立てている。

 たしかに昨日の今日だから怪しいといえばそうだけど……そもそもTSを好んでいる人を困らせるために女性化させたりするものだろうか。

 むしろ手段としては「喜ばせるために」やりそうなものだ。

 もちろん、仮に河尻犯人説が正しいとしても、あの人に僕たちを喜ばせる理由は一切存在しない。河尻さんは刃向う者を許さない人である。少しでも反抗を示した生徒には退部命令を下してきた。そういう人なのだ。


 ……そんな人が中学生ちゃんとして女の子のふりをしていたんだよね。

 あの子の目的は僕の更生だった。そのために色んなところに現れては小山内一二三をまともな委員に仕立てあげようとしてきた。どうして僕が選ばれたのか。なぜあえて女装していたのか。未だにわからない。


「……河尻さんはTSファンなのかな」

「それはないですよ」


 こちらの呟きに伏原くんが即答する。


「どうしてだい。仮にも女装していたんだよ」

「小生は忘れていません。あの人はTSFを変な本と呼んでいました。同志ならありえない話です」


 伏原くんは「センパイをまともにしたいとかほざいてましたし」と舌を出した。

 まとも。まあTSを追いかけているのはまともではないか。

 あれを河尻さんなりの心配だと捉えるには彼のことを知らなすぎるけど、少なくとも僕に対しては害意だけを抱いているわけではなさそうだ。


「小山内くん。おい。小山内のアイデアはまだなのか、だって」

「あー……うん。ありがとう」


 鳥谷部さんが五郎さんのメッセージを読み上げてくれたので、僕は河尻犯人説から抜け出して、中学生ちゃんつながりで思い出した「あの作品」の話をさせてもらう。


「そうだね、もしかすると今回のことは図書館の呪いなのかもしれないよ」


 かつて五郎さんに教えてもらったネット小説。

 その名も『大図書館の七不思議』。

 古代文明の呪いにより少年たちが次々と女性化させられてしまう作品であり、タイトルにもなっている大図書館は我らが『むらやま』をモデルにしているらしい。

 あの作品をネットカフェで読んでいたら、いきなり中学生ちゃんが乱入してきたんだよね。

 まあ、こんな話をしたところで何の解決にもならないだろうし、そもそもこの会合だって「いつもどおりのことをやっている」以上にはならない可能性もあるんだけど、せめて何かのひらめきにつながれば僥倖だ。


「へえ、センパイはあの小説をご存じだったんですね」


 伏原くんは不思議そうな顔をしていた。

 もらったおせんべいを食べてしまっているあたり、よほど思うところがあるようだ。


「まあね。五郎さんに教えてもらったんだけど、すごく楽しくてさ」

「あれって仲田さんの作品なんですよ」

「そうだったの?」


 そういえば、あの人は作家の卵だった。

 てっきり設定やプロットばかり作っているタイプかと思いきや、きちんとした作品も出していたらしい。


「はい。あの人が大学に入ってすぐ作ったものなんです。小生も早くから読ませていただきました」


 彼は「友人のエノキダちゃんが萌えるんですよね」とニヤニヤする。

 その意見には同意せざるをえないけど、仲田さんが大学に入ってすぐとなると――彼女が伏原くんに自らの性別を明かしてから間もない頃になる。

 当時は今よりもギスギスしていただろうに、そんな状況で仲田さんはあえて伏原くんに作品を読ませたわけだ。

 そして、小説投稿サイトによりネットの海に流れていったあの作品は、五郎さん・小山内一二三を経て、『むらやま』の主である中学生ちゃんまで伝わっていった。


 河尻さんがあれからあの小説を読んだかどうかは定かではない。

 邪推。思い込み。単なる偶然なのかもしれない。

 僕はそれをたしかめるために、伏原くんに訊ねてみる。


「あのさ。仲田さんって図書部時代に運営委員をやっていたりする?」

「さあ……本人からは聞いたこともないです」


 彼は首をかしげた。

 ずっと2人でいたらしいのに話してもらっていない? 性別すら明かされていなかったわけだから当たり前か、いやその性別だってどうなんだ?


「――仲田良弘は先代の委員長」


 彼に代わって答えをくれたのは『むらやま』を愛している鳥谷部さんだった。

 彼女は「あの人が指名したから河尻さんが委員長になったみたい」と続ける。

 なるほど。だから河尻さんは仲田さんに頭が上がらなかったんだ。


「教えてくれてありがとう」

「大したことじゃない。それよりさっきの話。私たちの『むらやま』が人を呪うなんてバカバカしいから」


 彼女は珍しくにらみつけてくる。

 話の内容がお気に召さなかったらしい。

 僕はそんな彼女をなだめつつ、伏原くんにスマホからメールを送ってもらうことにした。宛先はもちろん仲田さん。

 件名は『むらやまの七不思議について』。

 作中の『バッキーライブラリ』のモデルになってるんだから、本物にも相応の七不思議があるだろう。

 そんな「西成に行けばチエちゃんがいるだろう」レベルの発想に対して、仲田さんの返答はありがたいものだった。


『明日の朝にそれぞれフェイバリットなTSマンガを持ってきてくれたら、ヒントを教えてあげないこともないよ』

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