6-1 ボクたちの初体験


     × × ×     


 純然たるTSは現実においてありえない。なぜなら現状いかなる方法を用いても我々を満足させることができないからである。だからといって悲観する必要はない。寿命の長い者は科学の発展を待てば良いのだ。

 私のように老い先の短い者は奇跡を信じればよい。

 ひとつひとつでは難しくてもピースがハマれば変わるかもしれない。または副作用が副作用を呼ぶかもしれない。かつてライト兄弟が飛行機を作り上げたように、あくなき想像が結果を呼ぶのだ。

 私はまだ諦めていない。(大和路快足拝)



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 目が覚めると、僕は岩のような学習机に伏せっていた。

 学校の授業中にはおなじみの惰眠スタイルとはいえ、一晩を過ごすにはいささか不健康な眠り方だ。

 枕代わりにしていたせいで右腕がピリピリとしびれている。血行を良くするために大きく伸びをすると「ふわあ」と変な声が出た。妙に下着がこすれるな。


 昨日は夕食に美味しいものを食べたから、充足した気分で眠ることができた。

 ファミレスから帰宅した時点でお風呂と寝室を行ったり来たりするくらいにはフラフラだったので、ベッドに近づいたらもう一発でノックアウトされてしまって。

 それにしたって歯みがきを忘れていたのは我ながらマズいな。なんかツバの味がおかしい。イヤではないんだけど、明白にいつもと違う。


「……ん」


 どういうわけか、おかしいのはそれだけではなかった。

 デスクマットの下に入れているポスターが、なぜか6世代前のプリキュアになっている。お父さんのイタズラだろうか。僕はポケモンを入れていたはずだから。

 他にも小物入れやペン入れがファンシーな代物に変わっていた。ずいぶんとマーカーの類が増えているのが気になる。

 お父さんはここを女の子の部屋にでもしたいのかな。僕のTS好きは家族にはバレていないはずなので、たぶん例によって突拍子もないイタズラ心のために。


「……うん。これくらいにしておこう」


 ぶっちゃけ、あの変な声が出たくらいで全て気づいていた。

 なのに、わかっていないふりをしていたのは、ひとえにお約束を守るためだ。

 本来なら大声を上げてビックリするべきなんだけど……なにぶん『予行演習』だけは怠ってこなかったものだから、平常心のままに対応できてしまうのが悲しいところである。

 おかげでいつもより高い声にも大して戸惑ったりできない。彼女には自身の声がこんな風に聴こえていたんだなと感じるくらいだ。

 そもそも、ベッドに入ったはずなのに、机で目を覚ました時点で変だったんだよね。

 手の形もかなり変わってしまっているし。

 視線を下に向ければ、小ぶりだけど……出ているところもある。

 カッターシャツのなだらかなエロさに、いつも気をとられてしまいそうになる彼女の――いけない。手を出せば人として終わってしまう。おお。こんな感じなんだ。


 TSファンの本懐(?)を遂げたところで、僕は今後のことを考えることにする。

 まずは僕と入れ替わっているであろう「彼女」と話をしないといけない。

 あの子のことだから泡を吹いて倒れたりしないだろうけど、早めに安心させてあげたほうがいい。僕は元に戻る方法を5パターンほど知っているから上手くやれるはずだ。


 とりあえず、自分のスマホにメールを送るために彼女のスマホを探してみる。

 ちょうど机の上にあった。


「……当たり前だけど、小山内一二三のアドレスは入ってないのか」


 仕方ないのでメールはあきらめる。

 あてずっぽうにアドレスを試してみるよりは、正確に覚えている電話の方が早いはずだ。

 彼女に待ち合わせの場所を伝えたら……とりあえず生着替えを楽しんでみたいけど、あいにく制服姿なのでその必要がない。くそったれ。ブラジャーのホックの付け方で悩めないじゃないか。マンガで散々学んだからできるような気もするけど。

 というか、そもそも彼女はどうして制服のまま眠っていたんだろう。

 あれで悩みでもあるのかな。


 部屋の鏡に映る鳥谷部さんは頬のあたりに痕が残っていた。

 まるで僕の精神を植えつけるための刻印のようであり、彼女ではない彼女を見分けるための作画上の記号のようでもある。

 いずれにせよ、毛先のまとまりのなさと合わせて、普段の彼女よりはるかに親しみやすく感じられた。否定的に捉えれば、まるで手入れが為されていない。

 それでも十分可愛らしいのは彼女の持って生まれた才能なんだろう。


「ありがとうございます」


 入れ替わった身としては、こんなにありがたいことはない。例えるならハーマイオニーになるのか、アンブリッジ女史になるのか。これは大きなことなのだ。



    × × ×     



 若々しいお母さんと、カイゼルなヒゲを生やしたダンディーなお父さんと、三人で朝ごはんをいただいてから「行ってきます」と外に出る。

 粗相のないように気をつけていたので落ちつかなかったけど、二人とも目立った会話こそないもののゆるやかに笑っており、家の中は終始なごやかな雰囲気だった。


 外から見る彼女の家は神戸の異人館みたいな作りになっていて、庭に突き出た書斎が男心をくすぐってくれる。

 あんなものを作れたら楽しいだろうな。男のロマンを感じる。


 そこから表通りに出て、彼女から電話で聞いたとおりに歩いてみると、遠くに小さな駅が見えてきた。あの駅から高野線で学校まで辿りつけるらしい。

 歩くたびにふわふわするスカートに苦悩しつつ、道路沿いの歩道を歩んでいく。


 駅の改札には僕が立っていた。

 なぜかハードカバーの本を読んでおり、本来の僕より知的に見える。

 はてさて、どう話しかけようか。自分に話しかけるなんて初めてだから身構えてしまうな。


「あの……おはよう! ツバは変な味してないかな!」


 あっ! 失敗した! こんなの初めに訊くことじゃない!

 もっとこう……自分の姿を外から見るのは不思議だね! みたいな内容のほうが初々しくて良かった。いっそ彼女のマネをしても良かったくらいだ。

 せっかくの初対面なんだから、それを活かさないと。


 なんて考えていると、僕の姿をした彼女は……流し目をこちらにやりつつ、耳からイヤホンを外した。


「おはよう小山内くん。とんだことになったわね」

「あ、うん、そうだね……」

「でも、この本のおかげで何が起きるのか予習できたから、かなり安心できた」


 彼女が読んでいたのは『私説TS論』の入れ替わりの章だった。

 あの本には、各章の初めにサブジャンルの「あるある」が提示されているので、彼女はそれで今後起きるかもしれない「お約束」を予習していたらしい。


 うーん。彼女の不安が払拭されたのは良いことだけど、僕としては楽しみが減りそうな気がして不安だ。あるあるこそが果実なのに。

 ……というか、僕も彼女も状況に順応しすぎじゃないかな。

 もっとショックを受けていてもおかしくないんだけど……特に彼女なんて十人並以下の男になってしまったわけで、女の子なら落ち込んでいそうなものだ。


 ちなみに初めて耳にした「僕の声」はお約束どおりにキモかった。他の人にはこんな風に聞こえていたなんて地味にショックだ。落ち込んでしまいそう。


「小山内くん。私のお母さんとお父さんには会った?」


 彼女はそんな声で話しかけてくる。

 さほど女性的な話し方ではないためか、そこまで変な感じはしない。むしろ幾分か理知的に感じられた。


「うん。一緒に朝ごはんをいただいたよ」

「私もパンをいただいた。小山内くんの家族はみんなお喋りだね!」


 彼女は楽しそうにウチの様子を語ってくれる。

 朝からお父さんがブーブークッションを仕掛けていて、そのせいでお母さんがお父さんのお尻を「お前のケツをブーブー言わせたる!」と叩き始めたり。反抗期の弟が自分の好きな音楽をかけようとして、間違ってお父さんの浪曲を流してしまったり。

 あの人たちは僕が別人になっても相変わらずなんだな。僕以外はみんなバカでフマジメなんだから。


「鳥谷部さんの家は静かで格好良かったよ。オシャレだったし」

「当然。お父さんもお母さんもすごい人だから」

「どんな仕事をされているの?」

「それは私も知らない」


 彼女は平然と言ってのける。

 このあたりに住んでいるわけだからお金持ちなのはわかるんだけど、子供が親の仕事を知らないのは奇妙だ。株とかやってらっしゃるのだろうか。

 ともあれ彼女と合流することができた。

 あとは元に戻るために色々と試していくのがお約束だ。TSファンとしてお約束は守らないといけない。神社から転げ落ちたり頭を打ちつけたり。雷を落としてもらうという手もある。

 死んだら元も子もなくなるから、加減は必要になってくるけど。


「とりあえず元に戻りたいところだね。何から始めようか」

「始める? それより学校。私は遅刻したくない」


 鳥谷部さんは音楽プレーヤーの時計を指し示す。

 朝から立て込んでいたせいか、急いだ方が良い時間になっていた。


「いやいやいや……それはそれで大切なことだけどさ」

「学校より大切なことなんて『むらやま』しかないよ」

「なら訊かせてもらうけど、このまま学校に行くとして、鳥谷部さんは不安じゃないの?」

「どうして不安になるの」


 彼女は首をかしげる。少しキモい。

 この感じだと不安を訊くよりもイヤじゃないのか訊いたほうが良いかもしれないな。このまま僕の身体で生活することに不快感はないのか。

 ダメだ。答えによっては悲しい気分になってしまう。


「あのさ……僕がこの身体でめちゃくちゃするかもしれないんだよ」


 ならば、と彼女の不安を煽るような問いかけをしてみる。なにせ彼女の肉体に入っているのは高校生の男子なのだ。

 何をやっちゃってもおかしくない。そんな架空の話はいくらでもある。

 今の状況が女の子にとってどれだけ危険なことなのか。さりげなく胸に手を当ててやれば伝わりやすいだろう。

 対して、彼女は「だったら、そのぶんこっちも同じことする」と返してきた。


「え、同じことって何をするのさ」

「まだ決まってない。だって小山内くんがまだめちゃくちゃしてないから。あなたと同じことをするだけの話。わかる?」


 なるほど。どうやら彼女は何もわかっていないらしい。今の彼女の肉体でめちゃくちゃなんてできるはずもないというのに。

 はっきり述べてしまえば、小山内一二三の容姿では異性とイチャイチャできるはずなどないのに。


 いや、待てよ。これはもしや……心が女性だからこそ女心を読める=モテてしまうというTSにおけるお約束の予兆なのでは?

 あんな悲しい容姿なのに、女心をくすぐることでクラスのメスたちをガンガン落とせてしまうのでは。やりまくり三助なのでは。

 ありえない話ではない。

 世の中には釣り合いのとれないカップルなんていくらでもいる。ああいう手合いは口先で女を落としているのだ。そして今の彼女ならば。


「あの、よければ避妊だけは忘れないでね。子供の認知とか困るから」

「小山内くん。私の口でバカなことを言わないで」

「ごめんなさい」


 彼女に怒られて、僕は礼儀正しく頭を下げる。

 我ながら思考が暴走してしまった。もしかすると入れ替わったせいで密かにテンションが上がっているのかな。仮にも長年の夢だったわけだし。

 ついでに彼女のズボンの裾がめくり上げられているのが気になるけど、今言うべきではなさそうだ。


「……バカ。毛先がぐちゃぐちゃ。おまけに服もシワシワ」


 彼女の手が伸びてくる。

 なんだか気恥ずかしいような、むず痒いような。

 なお、今の僕たちは他人の目には「女に頭を下げさせている男」に映ってしまうみたいで、周りからヒソヒソと話す声が漏れ伝わってきた。

 マズいな。鳥谷部さんはこのあたりの住人なんだからウワサになると可哀想だ。


「……そろそろ行かない?」

「そうね。学校に遅れたくないもの」


 彼女は「こっち」と右手で示しながら帝塚山駅に入った。

 彼女の後を追うようにして、僕も改札口にICOCAを当てる。表示された残金の数字に目を疑いそうになったのは内緒だ。なにぶん自分の目ではないからね。

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