5-3


     × × ×     


 どうにか五郎さんを元気づけられないだろうか。

 そんな僕の申し出に対して、伏原くんはタオルの隙間から「?」と小首をかしげてみせた。


「え、なんでわからない感じ?」

「いや、だってそれくらいで気を落とす人ではないですし」

「たしかに五郎さん、見た目は強そうだけどさ」


 だからといって内面までそうとは限らない。


「センパイは心配性ですね。わかりました。ひとつ小生からお話をしましょう」


 彼は散らばったイラストをファイルにまとめながら、まるで炉辺のおばあさんのようにゆったりと昔話をしてくれた。


 5ヶ月前。まだ僕たちの学年が入学する前のこと。

 今年こそ「同志」を増やそうと意気込んでいた伏原くんの下に、やたらと大柄な男が近づいてきたそうだ。

 なんでも秋に行われた学校説明会の時に忘れ物をしてしまったみたいで、本来なら入学してから取りに来るつもりだったらしいのだが、群山より良い学校に合格できたので予定が変わったとのことだった。

 伏原くんはちょっぴりムカつきつつも、相手に忘れ物の内容を訊ねた。

 すると、大柄な男は『ミスター&ミス・クリス』という古いマンガだと答えたそうだ。


「え、もしかしてTSFが好きな方ですか?」

「……そういうあんたのカバンにあるのは『少女型少年』だよな?」


 そこから二人は大いに語り合ったという。

 やがて春になり大男は「同志」の仲間入りを果たした。ずっと一人ぼっちだった少年の周りには次第に人が集まるようになり、ついにはヒフミン・オサノヴィッチの下で人民のユートピアが形成された。

 めでたしめでたし。


「おわかりいただけましたか?」

「一から十までわからないんだけど」


 僕は中学生の少年に冷たい目を向けさせてもらう。

 途中からガチの同志になりつつあって、ふざけているのがまるわかりだった。

 同志ヒフミン・オサノヴィッチとしては、同志ゴローニンの心の強さを教えてもらいたいのだから、コルホーズ送りにされたくなければきちんと説明してほしい。


「……それで伏原くんは何が言いたかったんだよ」

「ふふふ。やっぱりセンパイはニブいですよね」


 彼は含みのある笑みを浮かべると、ポケットからチョコクッキーを取り出して、パクリと口にした。

 そして「考えてもみてください。あの人はお前の学校は滑り止めだ、と言っておきながら入学できちゃう人なんですよ。悩みなんてあるわけないです」と言ってのける。

 年上であるところの五郎さんにそこまで言ってしまうのは、同じ年上としてどうかと思うけど、わからない話ではない。


 仮にそれが僕なら、どんな事情があっても後ろめたくて入学できないだろうし。

 ましてや「同志」になろうだなんて。

 よほどこの学校のことを気に入ったのか。あるいは他に気に入ることがあったのか。


「――きっと、五郎さんは伏原くんのことが大好きなんだね」

「へ?」

「でないと進学先を変えたりしないよ。それもレベルが下の学校になんてさ」

「な、ないです、ないない!」


 彼は慌てふためいて「だって小生はノンケですし!」と否定にかかった。

 うーん。それはわかってるんだけどね。むしろ否定するなら五郎さんがノンケだと主張しないといけないような。

 ぶっちゃけ少しからかいたかったのもあったので、伏原くんが良い反応をみせてくれて嬉しかったりする。

 年上としていつまでもやられっぱなしではいられないのだ。


 伏原くんはお茶を飲んでから、わざとらしく「こほん」と咳をしてみせた。


「えーと。五郎さんを元気づけたいとのことでしたよね?」

「うん。ずっとため息をついていたんだよ」

「でしたら、センパイからオススメTSF作品をお貸しされてはいかがですか。小生たちはあれさえあれば幸せなわけですし」


 彼は「できれば小生にも貸してくださいね」と両手を広げた。

 たしかに大体の悩みは消えてなくなりそうな方策である。しかし今回はそのTSについての悩みなのだ。


「それが、そうにもいきそうになくてね」

「と、言いますと?」

「どうも五郎さんは世の中に男の娘がいないと気づいてしまったみたいでさ。三次元の女装に希望を持てなくなったというか。さらには自分がそうなれないことにもガッカリしちゃったみたいで」


 こうして口にしてみると奇妙な悩みではあるけど、五郎さんにとって大切なことなのは疑いようもない。

 僕から説明を受けた伏原くんは、気まずそうな表情を浮かべていた。


「それって、どう考えても小生のせいですよね」

「どうして?」

「だってドラマの『王女と王女』を見せたのは小生ですし……全くもう。あの人は現実に持ち込みすぎるんですよ。変なところで引け目があるんだから」


 彼の目が遠くの空に向けられる。

 球技大会が終わりを迎えたのもあって、平静な午後だった。


「わかりました。小生たちで力を合わせて五郎さんを元気づけましょう」


 伏原くんはこちらに右手を伸ばしてくる。

 それをガッチリと迎えつつ。


「ありがとう。でも、どうすればいいかな?」


 改めて彼に訊いてみる。

 まさか鳥谷部さんから制服を借りてくるわけにもいくまい。

 そもそも伏原くんを女装させても、五郎さんの求める「男の娘」にならないのは予想がついているからなあ。

 このジャンルはおちんちんを付けた女の子であって、性の対象だからね。


 当の伏原くんは「否定派の小生が言うのも何ですけど」と一段落入れてから、「男の娘は存在可能だと思うんですよ」と主張してきた。


「え、ムリじゃない?」

「正しくは『性別不明の段階ならば男の娘として存在可能』とするべきですか。その人が男だとインプットされる前に女装した姿を見せてやるんですよ」


 彼の主張は次のとおりだ。


 あるところにフィリップという男がいたとする。

 ある日、彼の住む村にとてつもなく可愛い女の子が引っ越してきた。彼女のことを肉親を含めてみんなが女性扱いしている。フィリップはすぐにも恋に落ちる。近くに行った時には匂いをかいだりしたし、遠くにいる時には恋文を出したりもした。

 しかし、恋文に返答が返ってくることはなかった。

 フィリップは己の恋心を受けいれてもらうために新しい行動に出る。自ら彼女の家に出向いて愛を伝えることにしたのだ。

 秋の日の夕暮れに彼女を呼び出し、そこで己の情熱を告げた。

 ところが、彼女は悲しそうにするばかり。

 フィリップが訊ねると、彼女はこんなことを言いだした。


「私は本当は女性ではありません。王権から身を隠すためにこのような格好をしているだけなのです。だから、あなたの愛を受け入れることはできません」


 なおも彼女の美しさは変わることがなかったが、その告白を受けてフィリップの心はぐるりと裏返ってしまった。

 行き場のなくなった情熱は「裏切られた」と憎しみに変わり、ついには彼女の服に手をかけるまでになり――。


「といった感じならありえそうですよね」

「続きは?」

「ないですよ。今テキトーに考えただけですから」


 伏原くんはぞんざいに答える。

 さらに「あったとしても身体の一部が血みどろになるだけじゃないですか」と挑発的な流し目を向けてきた。

 くそう。どっちともとれる。


 ともあれ――彼の言いたいことはよくわかった。

 フィリップがその娘のことを生粋の女性だと信じていたならば、少なくとも正体がわかるまでは彼女は男の娘でいられるというわけだ。

 社会的な立場的にも本能的にも女性扱いされる「男」を成立させるには、この方法しかないのかもしれない。


「どうですかセンパイ。小生のアイデアは?」

「さすが伏原くんとしか言いようがないよ。でも、これを伝えたところで五郎さんに元気になってもらえるとは思えないような」

「その点は大丈夫ですよ。繰り返しますが、あの人は強い方ですから」


 伏原くんはこちらを安心させるように笑ってみせると「ひやしあめを入れますね」と立ち上がった。

 なんでもテニス大会に出る話を聞いたお兄さんが作ってくれたらしい。お茶とは別に水筒に入れられていて、ちゃんと生姜の匂いがする。おっ。甘くておいしい。


「伏原くんのお兄さんって妙に女子力あるよね」

「あれで見た目も良ければいいんですけどね。センパイは料理とかしないんですか?」

「お母さんの手伝いならたまにするよ」

「へえ。いつかごちそうになってみたいものです」


 二人でひやしあめを楽しみながら、ごくごく他愛のない話をさせてもらう。

 お互いに好きなものを語り合うことができて、こうして美味しい物までいただけて……改めて、何も返せていないのが申し訳ないくらい「同志になってよかった」と思えてくる。

 ここに来れなくなるくらいなら……やっぱり委員は辞退させてもらおう。

 もし退部させられたら、その時はその時だ。


 僕が密かに決意を固めていると、なぜか対面で伏原くんが顔を伏せていた。「どうしたの?」と訊ねても右手で大丈夫と制されるばかり。


「もしかしてお腹が痛いとか?」

「痛くならないです、小生はおちんちんありますから」


 きっぱりとした口調が返ってくる。

 すぐに生理を想像するあたり別の病気だけど、本当に大丈夫なのかな。仮にひやしあめでお腹を冷やしたならトイレに行くべきなんじゃ。


 一人で気を揉んでいると、背後から「ガチャリ」とドアノブの回る音がした。忠誠心の高いドアだからトイレに行きやすくしてくれたのかもしれない。

 ……いや、内外問わず幾度となく聞き耳を立てられているわけだし、そんなドアに忠誠心なんてあるわけないか。


「五郎さんだよね。よければ赤玉とか持ってない?」

「何を言っているんですか、センパイ」


 振り返ると――そこには中学生ちゃんが立っていた。

 それも、あの子に貸したはずの『思春期ビタ一文チェンジ』を片手にたずさえて。

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