5-2
× × ×
ゴミ捨ての後には大掃除が待っていた。
汚れの目立つ『第2保管室』の床をモップで拭いていく。
スチール棚には雑巾をかけて、忘れ物の入ったダンボール箱はきれいに並べる。
悲しいかな。どれも僕にとっては手慣れた作業なので、あっというまに終わらせてしまい、五郎さんから「上手いもんだな」と褒められてしまった。
「こんなことが上手くなったところで何にもならないよ」
「そうか? 主夫になれるかもしれねえぞ」
五郎さんは「手に入れておいてムダなスキルなんてねえよ」と笑いつつ、まだ残っているかもしれない汚れを探し始める。仰々しい外見とは裏腹に細かいところのある人だ。
なんだか委員の査察を受けているみたいで気を張ってしまうな。他のことでもしておこう。
「小山内くん。いつもこれくらい早ければいいのに」
「あれ、どうして鳥谷部さんが?」
外に出していた長机とケトルセットを中に入れたあたりで、なぜか部外者であるはずの彼女が話しかけてきた。
モップかけをしていた僕たちとは対照的に、彼女の半袖カッターシャツは冷たさを帯びている。さては今まであの寒い『洋書エリア』で僕の貸したマンガを読んでいたんだな。
そして読み終えてしまったから2巻を借りに来たわけだ。
涼しい顔をしていながら、とんだいやしんぼさんめ。
「申し訳ないけど『ビタ一文チェンジ』ならあの1冊しか持ってないからね」
「バカ。まだ読んでない」
「なら何の用かな?」
対して、彼女は「小山内くんに訊きたいことがあるの」とこちらの手を取ってきた。
その冷たくて柔らかい指先に、ついドキリとしてしまう。
こればかりはやっぱり女の子にかぎる。
伏原くんに背中をなぞられたことを思い起こしつつ、僕は彼女に引っ張られる形で忘れ物カウンターを抜け出した。
何の話なのか知らないけど、ここでは話したくないようだ。
クラスメートの五郎さんがいるからかな。
「おい、二人とも。……あのマンガならマンガコーナーに3巻まであるぞ」
「えっ、そうなの、五郎さん?」
「同志の力でリクエストしまくってるからな。学校の金で買ってもらえるなら、それに越したことはねえよ」
彼は「布教にもなるからな」と自信たっぷりに胸筋を張る。
なるほど。そういう方法もあったのか。学生ながら「買い支えなきゃ」と義務感を覚えてしまって、ただでさえ少ないお小遣いを全損させている身としてはありがたい話だ。
ここ『むらやま』では投函でのリクエストも受け付けているはずなので、あとで僕も欲しい本をお願いしてみよう。
ちなみに五郎さんはそれだけ告げて『第2保管室』に戻っていった。
さりげなく親指を立てていたように見えたのは気のせいだ。
「小山内くん。部員ならみんなの役に立つ本をリクエストするべき。わかってる?」
「わかってるよ。変なリクエストはしないって」
彼女は「嘘つき」と呟いて、されどつないだ手を放そうとはせず、ちょっぴり赤面してしまっている。
その火照りは僕にも移ってきていた。
まさか女の子と手をつないで『むらやま』を歩く日が来るだなんて。球技大会から戻ってきたらしい田村も目を丸くしていた。
中央ホールを経て、北西の『サイエンスエリア』に向かう。
このエリアはアルゼンチンのヴァスコンセロス図書館を模した内装になっており、お客さんから非常に人気がある。
なにせ、たくさんの本棚が空中に浮いているような設計だから、僕も初めて入らせてもらった時には「おおっ」と感動したものだ。
もっとも図書部に入ってからは、逆にこのエリアの奇妙な構造に苦しめられている。吹き抜けなんてホコリのたまり場だからね。所々に変なモニュメントも配置されているので、本棚と合わせて雑巾をかけるだけでもヘトヘトになる。
そんなエリアの掲示板に『運営委員からのお知らせ』は貼られていた。
鳥谷部さんはその紙を力強く叩いてみせる。
「小山内くん。これはどういうこと」
「え……いや、どういうことって……」
「どうして小山内くんが、次の委員候補に選ばれているの」
納得いかない。彼女の責めるような目つきがそう告げていた。
きっと赤面していたのも怒っていたからなのだろう。別に僕と手をつないでいたからではない。なんだか色んな意味でガックリきてしまいそうだ。いや好きとかではないけどさ。
次期委員候補者(2名)
小山内一二三(おさないいちにっさん)(15) 高等部1年
弓長沙織(ゆみながさおり)(12) 中等部1年
残り3名については留任とする
ただ……僕としても、このお知らせには得心いかないな。
だって自分はマジメな部員ではないんだから。
何かに秀でているわけでもないし、残念ながら河尻さん好みの可愛い女子でもない。
我ながら候補に選ばれた理由がさっぱり浮かんでこない。
むしろ、鳥谷部さんこそ選ばれそうなものだった。
チェカとして河尻さんと会うことも多いらしいし……あれほど魅力的に笑うこともできるわけであって。心中でほめ過ぎると本心と混ざって本気になっちゃうからアレだけど、ぶっちゃけ可愛らしい子なのだ。
なのに、彼女は選ばれなかった。
それが悔しくてたまらないのか、彼女は「嘘つきがむかつく」とダビデ像のおいなりさんにデコピンを加えている。やめてあげてください。
ああでも……事故でおちんちんがなくなってしまったから、いっそ女になってやろうと考えた人が、心は男のままだったはずなのに何だかんだで女性に呑まれていく話とかいいよね。
って、鳥谷部さんの前で何を考えているのやら。
ダメだな。混乱してしまっている。
「センパイは『むらやま』に選ばれた人なんですから」
ふと、僕の脳裏を過ぎった台詞が――この状況の答えなのかもしれない。
× × ×
平尾にグチをぶつけてくる。
鳥谷部さんはそう言い残して、テニスコートに向かってしまった。
よほど腹に据えかねていたようで「委員になれたらいいね」と捨て台詞まで吐かれた。彼女にそんなことを言われたのは初めてだったのでビックリだ。
「委員になれたらかぁ」
不肖・小山内一二三が、仮に次期委員に選ばれたとしたら。
まずはTSエリアを作るところから始めよう。
お題目は五郎さんの言っていた「これからの時代の性を考える」から拝借するとして、日本初のTSモノを収集するためのエリアを作り上げるのだ。
これは決して夢物語ではない。それだけの権限が委員には与えられている。まるでマンガやアニメの生徒会みたいだと評されることも多い。
そうした力の代償として、常日頃から委員長にこき使われることになるわけだけど――例えば8月には河尻さんを載せるための神輿を学校の夏祭りに出す予定らしい――それを差し引いても得られるものは大きい。甘い汁をチューチュー吸うことができる。
けれども……その汁がどれだけ甘くとも、女の子になれるわけではない。
怪しい薬を得られるわけでもなければ、娘溺泉に放り込まれるわけでもない。
……いけないな。大和路先生が述べたところの「TS好き特有の諦観」に囚われつつある。
どうあがいても手に入れられないものがあるから、それ以外のことがどうでもよくなってしまう。
どうせ女性にはなれないからと拗ねたままで生きてしまう。
大和路先生によれば「楽をするための方便にも使われる」らしいけど「諦めたまま生きていても楽しくないはずだ。人生は楽しまないといけない」とのことだ。
ああ。そうか。
だからこそ、五郎さんは知ってか知らずか「可能性」にこだわっていたんだ。
そりゃなれるかもしれないと信じていたほうが楽しいに決まっている。
なにせ、僕だって――中学生ちゃんに「選ばれた人」だと告げられてから、心の底ではあのWEB小説みたいなことが起きるのではないかとワクワクしていたんだ。
ネブカドネザルの手で女の子に変えられてしまったりしないかな。なんてことを妄想してしまっていた。
まあ、それゆえに、なおさら甘い汁しか吸えない存在には大したメリットを見いだせなくなってしまっているわけだけど。
なお、委員になるデメリットは他にもある。今の班を抜けなければならなくなるし、中学生ちゃんの態度からして「同志」との交友を禁じられてしまうかもしれない。
だったら、いっそ辞退してやろうか。
でも、河尻さんの決定に逆らうと退部になっちゃうからなあ。
とてもアンニュイな気分のまま、何となく『第2保管室』まで戻ってくると……珍しく中には人の姿がなかった。
「もう帰ったのかな」
長机には数枚のイラストが残されていた。絵柄からして五郎さんが描いたものだ。
彼の絵は好きなので、ぺらぺらとめくらせてもらう。
1枚目は『さくら少年』のメインヒロインであるインディゴリバー・ボンズさんだった。
自ら進んで女装をしているタイプの子であり、一般誌の男の娘には珍しいことに主人公と結ばれたヒロインでもある。
イラストは瞳の描き方がカケアミになっており、原作マンガへのリスペクトが存分に感じられた。
もちろん「かわいい!」と叫びたくなるほどキュートだ。
他にも『まぐろ』の寺井くんや『とのゴト』の梨川トノくん。
さらには『ウィンターウォーズ』の数馬くんのようなショタに近いイラストまであった。
どれもこれも唸らされるほどに上手い。
一方で、彼が三次元では手に入れられないものを二次元で繕おうとしているようにも感じられてしまい……「やっぱ、リアルにはいねえんだよな」という彼のセリフがリフレインする。
リアルにいないということはなれないということでもある。
僕は「同志」になってから、ずいぶんと五郎さんのお世話になってきた。
TSマンガを教えてもらったり、貸してもらったり。伏原くんにはダマされたりもしたからおあいこだけど、あの人にはいずれお礼をしたいと希っていたりする。
そのための手段がどこかにないものかな。
「あっ、今日はセンパイだけですか」
やたらと背の小さい中学生がドアを開ける。
モサモサのショートヘアはテニスをしていたせいか汗ばんでおり、子供っぽい手でぱたぱたと扇がれていた。
上気した肌からは色っぽさが出ていない。
つぶらな目も幼い口元も女子の庇護欲をそそるばかりで色めいていない。
中学3年生にしてはあまりにも幼い。ただそれだけだった。
「……うーん」
「どうしました? もしかして汗くさかったりします?」
伏原くんはカバンから制汗剤を出してくる。
僕は「そうじゃないよ」と訂正しつつ、心の中から一つの可能性を消し去った。
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